神威は一言も発することなくリンを見ていた。
リンの纏っていた着物は全てするりとその細身を滑り落ち、足元で積み上がっている。
勿論、リンとてまだ凹凸もない自分の軆に自信がある訳ではないが、それでもこれは“そういった行為”を表すものではない。
「リン、君は…」
暫く落ちていた沈黙を、神威が切り裂く。
そうして自分の声で我に返ったかのように、慌てて視線をリンの軆から離した――なんてウブな。
「どうですか、神威さん」
けれどリンはその反応を不快には思わなかったし、またそれに対して何か言葉を紡ぐ気もなく、静かに尋ねた。
どうですか、私のカラダは。
ヨゴレテイルデショウ?
だって昨日の今日なんだから、幾らこちらが言った所で止めない馴染みのあの客が付けた彼の跡が――湯浴みでは消えない堕落の烙印が、まだ残っているでしょう。
「本当は、跡なんて付けられては駄目なんですけれど…こんな所有印、遊女に付けても仕方ないのに、莫迦な男ですよね」
楼主に見つかれば小言では済まず、仕置きをされる程度の失態だ。
一体いつの間に付けられたのか、今朝風呂で見つけた時には失望した。
――遊女は、他の客の残滓を決して残してはいけないのだ。男とは、分かっていても女を自分のものと独占したがる生き物なのだから。
果たしてこの男はどうなのだろうと、考えて。
けれど今欲しいのは、彼の性癖などではなくリンの肉体への反応だ。
汚いと、穢らわしいと、この身体を拒絶するだろうか――なんて、もしもそんなことを言われたらリン自身が悲しむだろうことは、自分でも分かっていたのだが。
それならば、それでいい。
逃げ道は残して、けれど貪欲に引き摺り込んでしまいたい。
所詮、やはりこの男に入れ込んでしまっているのだ。
しかしそれがどうした、開き直ってリンから視線を逸らしたままの神威を見つめる。
「リン、悪かった…だから、服を着てくれないか」
すると神威は目を閉じ息を吐き出してから、静かに言った。
まるで哀しみや憤りや虚しさまでを内に押し込めてしまうかのように、低く抑えた声で。
「…何故、神威さんが謝るのですか?」
予想はしていた言葉だったが、彼がリンに謝る必要性はないし、理由が分からない。
神威の態度が、リンを脱がせたとでも思っているのだろうか。
突っ立ったままに尋ねると、神威は視線をリンに戻すこともなく答える――“見ない”という選択は、彼の良心なのか罪悪感なのか、はたまた逃避なのか。
「君を…傷付けた、だろう」
などと考えていると、それこそ予想外の言葉を言われて思わず小さく声を上げた。
「無知は罪だ。私はリンのような少女が春をひさぐことがあるとは思っていなかった…けれど君にとっては、それが現実なのだな」
今更合わせられた強い目に、真っ直ぐ過ぎる姿勢に、放たれた言葉に。
リンの心が抉られる。
「私の無知が君を傷付けたから、君はそうして今度は自分を傷付けるようなことをするのだろう…だから、すまなかった」
尉官の軍人が、名もない遊女に頭を下げる。
自分の無知がリンを傷付けたからと、穢れてしまったリンに。汚れ果てて腐り切った思考で彼を試したリンに。
「やめて、下さい…」
悪いのは自分で、汚いのは自分で、彼は何も悪くはないのだ――無知は罪ではない。
蔑まれるかと思った。
この年で男の相手をして、そうして相手をした人間を蔑んでいる自分のことを。
そうでなければ彼だって男なのだから、と。
それがどうだろう。どうしてこのヒトはこんなにも綺麗で、リンのことを――いや、人間自体のことを――綺麗だと思っているのだ。
「違うんです、ごめんなさい…私は」
かろうじて保ってきた虚勢が消えた後の膝からは力が抜けて、脱いだ衣服の上に脚から崩れた。
――リンは、彼とは違う。
元は同じようにぬくぬくと育てられてきたが、最早彼のように綺麗ではないし、綺麗な存在ではいられない。
けれどだからといって、神威を貶そうなど考えた自分が惨めだった。
「あなたのことを、客として取れたらと思っていました…浅ましいでしょう」
彼がリンを庇おうと言葉を紡ぐ度に、それがリンの心を締め付けていた。
まるで清廉潔白な男など、他に知らないのだ。
昔、自分を妹のように可愛がってくれていた男でさえも花街の常連だった――ならば、一体男の何を信じるというのだ。
懺悔のように本心を口にしながら、毎夜自分の不遇を嘆き続けた日々に枯れた筈の涙が、ほろほろと溢れるのが分かった。
「そのようなことはない…君の立場では仕方ないだろう」
客の前で、悦ではなく後悔と悲哀の涙を見せるなどという醜態を晒すとは。
思っていても、彼はなおも優し過ぎる言葉を重ねてリンを一層に悲しませる。
「ごめんなさい、ごめんなさい…やっぱりあなたは私とは違います、今宵はこのままお帰り下さい…」
確かに彼を手に入れられれば上客である。
しかし、いくら捨てた筈だと思っていてもリンとてヒトとしての矜持くらいは、まだ持ち合わせている。
賭けは完敗だった。
今朝方思い出した懐かしい唄。
リンの元には夜明けなど一生かかっても来ないのだろうが、彼には夜明けの晩を選ぶ権利もそれを行う自由も存在している――元々、男はリンとは違うのだから。
ならばリンが彼を囲う籠になってはいけないのだ。
「けれど神威さん。どうか私のような者がいることを、心の隅に留め置いていて下さい」
それくらいは願っても良いだろうか。
この綺麗な男の、綺麗な心の片隅くらいには、自分は存在しても良いだろうか。
泣き濡れた顔を躊躇いもなく神威に見せたまま請う。
「リン」
すると神威は自分こそが辛そうに眉を寄せてリンを見て、ふと視線を一点に留める。
「これは…何だ」
かと思えば唐突に左の腕を掴まれ、リンは戸惑いと共に触れられた箇所が熱を持つのを感じた――やはり、嫌ではないのだ。
「これ?」
思わず呆けてしまってから、男の指す部位を見て戦慄する。
それはもう幾日も前のことで、昨日の客にさえ何も言われなかったので風呂の時に外したまま、包帯をしていたのがいけなかった。
気付いても今更なのだが、このような所に痣のある理由など、リンには思いつかない。
それは神威にとっても同じことだろうし、むしろ軍人である彼の方がこのような跡などよく見るものかも知れない。
リンの手首には、うっすらと痣が残っていた。
ミクほどの人気が出ればまだ違うのかも知れないが、リンはまだ部屋持ちである。
一夜限りの夜伽の相手など、まったく多様な客がいるもので。
表だっては楼主も認めてはいないが、女を縛って悦ぶような客とて中にはいる訳である。
「まあ、色々な方がいらっしゃるので…」
最早これ以上知られても事態が悪くなることもないし言い逃れも出来ないと考え、リンは正直に言った。
すると神威はリンの左腕を掴み凝視したまま黙り込み、暫くしてこれはきっとただの自己満足なのだろうなと小さく呟いてから顔を上げた。
その表情に不自然を感じたのは、決してリンの気のせいではなかっただろう。
「君の好意は受け取るが、しかしリン」
リンの腕は離さず、と言うよりはむしろ自分の方へと引き寄せるように強く掴んで。誓いのように紡ぐ。
「今夜は、私がリンを買おう」
それは先程、彼が謝罪した時のカオによく似ていた。
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