窓から差し込む朝の日差しと、こめかみに当たるひんやりとした感覚でリンは目を覚ました。横向きにした頭を支えている枕は濡れていて、寝る直前に泣いていた事を思い出す。
「泣きながら寝ちゃったんだ」
苦笑して時刻を確認すると、覚えている時間から数時間しか経っていない。体を起こしてカーテンを開くと、朝に移行しつつある夜の闇と、冬の澄み切った空の青が入り混じった景色が映る。
泣いたせいなのか早朝に目が覚めたおかげなのか、変に気分が軽くて落ち着いていた。
ベッドの中に入れたままの右手が硬質で冷たい物体を捉える。両手を引き出すと、首飾りを下げる為の細い革紐が右手から伸びていた。
リンは手を開き、ト音記号をかたどった首飾りを見て微笑む。
今日が最後の日だろうな。
確信めいた予感。『死』が目の前にある事は以前から理解していたが、今ほどはっきり感じ取れた事は無かった。
「おはようございます、リン」
いつからいたのか、部屋の壁に背を付けて立っていたレンが歩み寄って挨拶する。
「おはよう、レン」
リンは上半身を起こした体勢のまま挨拶を返す。いつもの合図が無かった事を聞くと、レンはすみませんと謝ってから訳を話す。
「リンが起きる前に来ていたんですよ」
決まりが悪そうに言うレンを見てリンは直感する。
「……もしかして、ずっと傍にいてくれた?」
レンは何も言わず目を逸らす。願望に近い発言ではあったものの、どうやら当たりだったらしい。レンの雰囲気が何処となく固い事を見ると、先程の予感も間違いないようだ。
時間が無い。まだ余裕がある内に伝えたい事がいくつかある。
「レン、お願いがあるの」
悲しさと真剣さが混じり合ったリンの態度に一瞬だけ戸惑いを見せたが、レンは頷いて了承した。
まず一つ目とリンは前置きをして、倒れた後の事を両親から聞いた事を話す。家まで送ってくれた事に礼を言った後、父の事を謝罪した。
「お父様が酷い事を言ってごめん。……不安だったから、あんな風になっちゃったんだと思う」
父の事を悪く思わないで欲しい。腹が立つかもしれないけど、どうか許して欲しいと頼む。
「今すぐで無理ならいつかでも良いんだ」
レンの顔を見るのが怖くて下を向く。長い時間を生きて沢山の人間を見てきたレンにとっては、誰かの罵声など聞き慣れたものかもしれない。良くある事だとして受け流す可能性も無くも無いが、どうしても気がかりだった。
「不安になったのは、それだけリンが大切だったと言う事では無いですか?」
リンは思わず顔を上げる。レンの表情はさして変化していないが、優しく穏やかな目でリンを見つめていた。
レンと交流を重ね、僅かながらも客観的に自分の立場を見られるようになってようやく気付いた事。
両親は『伯爵の跡取り娘』では無く、『リン』を愛してくれている。
その事にレンも気が付いていた事、初めの頃はまるで理解出来なかった人間の心情を汲み取った発言をレンがした事にリンは驚いていた。
「お父様の事、怒って無いの?」
一番知りたくて、聞きたくない事を問いかける。肝心な答えをまだ貰っていない。
レンは微笑んで答える。
「怒っていませんよ。あの状況なら仕方の無い事です」
むしろ心配の欠片もしない方がどうかしている。そんな対応をされていたら、きっと怒りを持っていただろう。あの二人はリンの事を本当に心配していた。
レンから両親の事を聞き、リンは複雑な表情で呟く。
「……あまり心配して欲しく無いんだけどな」
「無関心よりも良いと思いますよ?」
「そうだけど」
気に掛けてくれているのが分かれば分かる程、それと比例して両親に酷い事を言ってしまった後悔が強くなる。思い出したくないが、言ってしまった事実は消えない。
ふう、とリンは息を吐く。今はその事をこれ以上考えても仕方がない。
「まあいいや」
父はレンの事を恨んでいないし、レンは父の事を悪く思っていない。それだけで充分だ。
「一つ目、と言っていましたね」
つまり、まだ言いたい事が残っていると言う事。早く言って欲しいとレンは促す。
珍しく焦った様子のレンに、リンは思わず笑い声を漏らしてしまった。
「隠し事をするの、下手だね」
自分に迫る命の期限。それが一歩ずつ迫って来ている様がレンには見えるのだろう。隠そうとしているのかもしれないが、嘘をつき慣れていないせいで仕草が不自然だ。
目の前にいる死神は、本で良く見るような悪い存在じゃない。神様と言う事は覆せないけど、それ以外は人間と変わらない。
「二つ目はこれの事。」
リンは右手をレンに差し出す。銀の首飾りは朝日を反射して光り、リンから離れる事を惜しんでいるようだった。
「レン、持って行ってよ」
レンは首飾りを受け取ろうとして手を上げたが、何かを思い出した様子で手を引っ込める。
「両親の為に残していた方が良いのでは?」
それはリンにとって大切な物のはず、自分が受け取って良いのか。渋るレンを諭すようにリンは言う。
「残しておいても、放っておかれたら意味が無いよ」
首飾りは身に付けてこそ価値がある物。父も母も大切に扱ってはくれそうだが、家のどこかに飾って終わりの気がする。
「レンだから頼んでいるんだよ」
「しかし……」
リンはなおも渋るレンに業を煮やして一度咳払いをする。手を下ろして背筋を伸ばし、毅然と言い放った。
「『私の言う事が聞けないの? ……死神様って融通が利かないのね!』」
初めて会った時の事をそのまま再現すると、レンは目を丸くした。直後に顔を綻ばせて笑い出す。
「懐かしい。まさかそう来るとは思いませんでした」
「……良いから受け取ってよ。今なら融通が利くでしょ」
リンは顔を赤くして首飾りを差し出す。ここまでやったのに受け取って貰えなかったら恥ずかしい事この上ない。元より、レンが受け取る以外の選択肢は用意していない。まだ断るつもりなら無理矢理レンの首にかけてでも渡すからと迫る。
「リンらしいですね」
レンは微笑んで差し出された首飾りを手に取ると、そのまま淀みなく革紐の輪を広げて自分の頭を通す。首から下げた際にト音記号とヘ音記号がぶつかり、金属特有の澄んだ音を小さく立てた。
レンの首元で揺れる二つの首飾りをしばらく見つめて、リンは顔を上げる。
「レン、市場に行けて楽しかったよ」
長い時を過ごして来たレンには取るに足らない出来事かもしれなくても、自分にとっては掛け替えのない大切な思い出で、レンと一緒に作れた事が嬉しい。
「短い間だったけど、ありがとう」
自分の心を救ってくれた優しい死神の少年。自分と同じ、孤独で悲しい存在。
最初で最後の恋した相手。
彼に命を狩って貰えるのなら本望だ。安心して命を預ける事が出来る。
「私もリンにお礼を言いたい」
全く心当たりの無い事を言われ、リンは首を傾げた。
「私、レンに何かしたっけ?」
こちらが感謝する理由はあるが、されるような事をした覚えは無い。
「死神の私を友達だと言ってくれました。……人の心はどんなものかを教えてくれました。」
胸に手を当てたレンが静かに語る。
全ての命が迎える死。それは別れであり、新しく生まれる為に必要な儀式でもある。
生きる者の最後を飾る役目を持つ死神が、生死を知識としてしか理解していなかった。
人の心を知らずにいたままの方が、仕事に支障が出なくて済むのだろう。死神として申し分ないが、それでは死に逝く者が何を思っているかは分からない。
旅立つ者が何を残したいのか、置いて行かれた者がどれ程悲しいか。
「理解しているのはほんの少しだけなのかもしれません。しかし、リンと出会った頃の私では考えもしなかったでしょう」
レンは頬笑みを浮かべ、リンの目を見つめて告げる。
「ありがとう、リン。人間の感情や心はどんなものなのかを、何となくでも知る事が出来ました」
「まるでレンが人の心を持ってないみたいな言い方だね」
真面目な顔で冗談を言わないで欲しい。リンが笑うと、レンは怪訝な顔をした。
「当たり前です。私は人間ではありませんから」
何かおかしな事があるのかと言われて、リンの笑顔が若干引きつる。一縷の不安が掠めた。
まさか、気付いて無い? でも、レンの事だからもしかして。
「……本気で言ってる?」
生真面目で実直で、それ故に固い思考になりがちな彼に確認する。
「死神が人の心を持てる訳が無いでしょう」
案の定、普段と変わらない口調で返された。わざわざそんな事を聞いてどうするのだと僅かに批判しているようにも聞こえる。
「あーもう……」
リンは呆れて文字通り頭を抱える。静まり返った部屋には時計の秒針が進む音だけが響く。
気が遠くなる程の年月を過ごす中、レンは一度も感情や心について考える機会すらなかったから仕方が無いが、それを差し引いても酷過ぎる。
「鈍感! ニブチン! 石頭!」
指を突き付けて声高に宣告する。驚いて目を瞬かせているレンの返事を待つ事も無く続ける。
「心を持つのに人間とか神様とかは関係ないの。レンが笑ったり、喜んだりする事が出来るのは、心を持っていて感情があるって証拠なの」
レンはとっくに人の心を持っている。自分は死神だからと言う意識が邪魔をして気が付いていないだけだと矢継ぎ早に言う。
「お父様から酷い事を言われた時、辛く無かった?」
話を掘り返すのは気が引けたが、あの時どう感じたのかを率直に尋ねる。
「辛かった、……のでしょうか? 胸に穴が空いたような感覚になりました」
その感覚がどんな物なのかが分からないらしく、レンは思案顔で探るように答えた。
「それはね、悲しいとか寂しいって言うの。嬉しいとか楽しいって気持ちを知らないと生まれない気持ち」
リンは戸惑うレンに優しく教える。
「嬉しい事を知らないと悲しい事はどんななのかが分からないし、逆に悲しさを知っているから、嬉しいのがどんなものか分かるんだよ」
説教臭い言い方になってしまったかなとリンは考えていたが、レンはその事に気に留める様子も無く、顎に手を当てて眉を寄せる。
「複雑ですね、感情や心と言うものは」
「完璧に理解しようと考えない方が良いよ。きりがないから」
今は何となく分かっていればそれで良い。こればかりは他人がどうこう言って理解できるものではない。
「……ん?」
レンの隣に影が映った気がして、リンは何度か瞬きをする。自分の見間違いではないようで、レンと似たような服を着た、黒い髪に黒い目の少女の姿を捉える。
ついさっきまで、それこそ一瞬前まではいなかったのに、違和感の欠片も無くレンの隣に立っている。
「来たか……」
当たり前のように言ったレンの口調で、少女が何者かを悟る。人の姿をしているのは意外だったものの、今更驚くような事でも無い。
「その人が、前に話してくれた『鎌』なんだね」
あからさまに表情は変わらなかったが、黒い少女は声をかけられた事に驚いたらしく、リンに短く問いかけた。
「何故見える?」
「どう言う訳か、彼女には私達の姿が見えるんだ。しかも、何日も前から死神の私が見えていた」
説明したのはレン。少女は無表情のまま平坦な声で続ける。
「おかしい。あり得ない」
「一度くらいはこんな事もあるだろうさ」
初めて会った頃の私達みたいだ、とリンは思う。レンと鎌の少女の会話は、まさにあの時の自分達を見ている感覚だった。
さほど待たずに会話は終わり、その時が来た事を悟る。何となく部屋全体を眺めていると、レンと目が合った。
無言で右手を上げ、初めて会った時と同じように握手をする。これが最後になる事はお互い理解していた。
繋いでいた手が離れる。別れの時はすぐそこだ。
「頼む」
鎌の少女が頷く。レンが何を頼んだのかは考え無くても分かる。怖くは無い。それ所か、これまでに無い程心地良く眠れそうだった。
「レン」
あの言葉をもう一度言おう。自分は幸せだったと伝える為に。レンと共に過ごせたから幸せになれたのだと。
「――」
鎌の少女が手をかざしたのを見た瞬間、急に体から力が抜けた。倒れるのに任せてベッドに仰向けになり、枕に頭を預けて瞼を下ろす。
意識が遠のいていく。眠くて堪らない。
おやすみ。先に寝るよ。
心の中だけで伝え、リンは穏やかな気持ちで眠りについた。
黒の死神と人間の少女のお話 9
リンに言われるまで、レンは自分が人の心と感情を持てる訳がないと本気で思ってます。
心を完璧に理解するなんて事は絶対に出来ません。自分の心や気持ちだって全部分かる訳じゃないのに、他人の心を理解しろと言う方が無理な話。
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