第七章 戦争 パート11
ネル率いる緑の国最精鋭部隊である緑騎士団が全滅の憂き目にあった頃、距離にして数百キロ北方に位置する青の国の王宮から、カイト王自らが率いる緑の国の救援軍が総勢二万の兵士を連れての進軍を開始していた。青の国から緑の国へと移動するには、ただひたすら南へと延びるリンツ街道を南下していく以外の方法が一番早いと言われている。黄の国との国境線とは違い、平原と森が広がるミルドガルド大陸東部は移動が比較的容易という特徴があった。進軍速度は悪くない。むしろ強行軍を選択し、一分一秒も早く緑の国へと向かおうとしている意志は感じられる。なら、カイト王はなぜ今まで行動しなかったのか。
青の国の軍勢の中央、ルカと馬を並べて帰国への道を急ぐグミはなんとか視界に納められる程度に離れた位置で馬を進める、カイト王の青みがかった黒髪を見つめながら、その様なことを考えた。カイト王の隣で騎乗しているのはアクである。護衛の任務なのだろう、カイト王からつかず離れずの距離を保ったアクの後ろ姿をグミはその瞳に納めた。ミク女王に良く似た、但し銀色のツインテールが風に吹かれて、僅かに揺れた。
「不安?」
アクが唐突にカイトに向かってそう声を掛けてきた。アクから話しかけてくるなど、珍しいこともあるものだ、と考えながら、カイトは隣を騎乗するアクの姿を視界に納めた。紫がかった、アクの無垢な瞳がカイトの視線を真っ直ぐに捕らえている。
「そうだな。万が一のことがあってはならないからな。」
カイトが優しくそう言った時、アクが小さく首を横に振ってから、こう言った。
「戦のことじゃない。」
どうやら俺の本心などとっくにお見通しらしい、とカイトは考えた。さて、果たしてどう答えることが一番なのか、と考えてから、カイトはこう答えた。
「不安さ。」
「あなたは純粋過ぎる。」
アクはそう言うと、視線をカイトから離して真っ直ぐに前方を見つめた。中天に上った太陽が鋭くカイトの皮膚を焦がす。もう秋だと言うのに、妙に暑い。或いは、そう感じるだけかも知れないが、と思いながらカイトはミク女王の姿を思い浮かべた。思えば、つまらぬ嫉妬もあったものだ。すぐに軍を出そうとすれば、確かに出来た。黄の国の進軍情報は一週間前にはカイト王の元に届いていたのである。それを見送った理由を、家臣には仮にも婚約者であるリン女王の国と不用意に開戦すべきではない、と説明しているが、本当は違う。
不安だったのだ。果たして、自分はミク女王に必要とされているのだろうか、ということである。遊覧会の時ですらミク女王から返答を頂けなかった。妙な乱入者が訪れた為に結局うやむやになってしまった感はあるが、それでもミク女王の表情に影が差したことは間違いない事実だった。どれだけ愛を告げても、俺の一方的な感情に終始してしまうのではないか、と考え、悩んでいる内に、瞬く間に時が過ぎ去り、そしてグミが訪れた。援軍の条件はこれ以上ないものだ。ミク女王との婚約が条件であるなら、軍を出さない理由はない。しかし、その本心はどこにあるのか。緑の国を救う為の苦渋の決断であろうことは、カイトにも容易に想像が付いていたのである。
暑いな。
カイトはもう一度、そう考えた。心理の奥底から湧きおこる細雪の様な不安が徐々にカイトの心を埋め尽くしてゆく。勝っても、負けても。カイトはそう考えた。
俺の心が満たされることはないだろう。
「ありがとう、ウェッジ。」
ミク女王は緑騎士団の全滅とネルの討死を報告に訪れたウェッジに向かって、そう言った。ネルの討死の翌朝のことである。ミクのその言葉で執務室を退出した、いつも冷静なウェッジの声が震えていたことが妙に真実味を増してミクの耳に残響を残していた。昔から、無茶をする人だったわ、とミクは考え、そして力なく執務室の椅子にもたれかかったまま、唇を噛みしめながら小さく息を吸い込んだ。思い出すのはネルの楽しげな表情ばかり。そう言えば、昔は私の事をミクと呼んでいた。ネルが私の事をミク女王と呼ぶようになったのはいつからだったろうか。私を守ると言って、いつも矢面に立ってくれていた。緑の国の王宮であの滑稽な事件が起こった時も、私が迷いの森で失踪したときも、そして今も。最後まで、私の為に戦ってくれた。私の身体の一部の様な存在であるネルが、もういない。もう、二度と会えない。あの蓮っ葉な言葉を、もう二度と聴くことが出来ない。
「ネルの馬鹿。」
ミクはまるで幼いころに戻ったかのようにそう呟いた。私一人では、緑の国を守ることができない。ネルがいて、初めて出来ることだったのに。それでも、ミクは女王だった。王宮が包囲される前に、やらなければならないことがあるわ、と考え、そしてミクは気力の失せた身体に鞭を打つようにして右手を執務机へと伸ばすと、銀製のハンドベルを手に取って、そしてできる限りの力でそのベルを鳴らした。そして再び入室したウェッジに向かってこう告げる。
「ハクを呼んで。」
私室で押しつぶされそうな不安を誤魔化すような時を過ごしていたハクは、突然訪れたウェッジの姿を確認して、僅かに息を飲んだ。何か嫌な報告でもあるのだろうか、と考えたハクに向かって、ウェッジが声を落としたままでこう告げる。
「ミク女王がお呼びです。」
こんな時に、一体どうしたのだろうか。戦が始まってからと言うもの、余裕がないのだろう、紅茶はもちろん食すら細くなったミクさまがあたしを呼ぶ理由が分からない。あたしは、戦の事は何も分からないのに。敢えて言うならば、ミク女王から手渡されてから常に懐に仕舞い込んでいるナイフの重みだけがハクにとっては唯一戦を実感させるものであった。それでも、ミクさまがお呼びならすぐに行かなければならないわ、と考えてハクはウェッジに向かって小さく頷いた。
こんなに緊張するなんて初めてだわ、と思いながらミクの執務室へと入室したハクが目にしたミク女王は、憔悴の為か僅かに痩せ、そして酷く疲れたような表情をしていた。それでも、ハクの姿を確認すると気丈にも立ち上がり、そして静かにこう告げた。
「ネルが戦死したわ。」
そう言った瞬間、不用意にミクの瞳から涙が零れた。今まで堪えていたものが、言葉にした瞬間に現実の重みを持ってミクの身体に容赦なく襲いかかって来たのである。制御できない感情に戸惑った様に、ミク女王は暫く呆然と涙を流し続けていた。ネルの死を初めて聴かされたハクはただ頭が真っ白になり、嘘だ、という妙な拒絶感だけがハクの頭の中で銅鑼を打ち鳴らしたように響き渡った。
「ごめん、ごめんねハク。取り乱して。」
ようやく涙を拭くと言う行為を思い出したかのようにミクはそう告げると、ハンカチで目元を丁寧に拭ってからそう言った。目元に薄く施している化粧が少しだけ乱れる。
「ミクさま・・。」
何と声を掛けていいのか皆目見当が付かず、ハクはただ、ミクの名前を呼ぶ以外の言葉を持たなかった。そのハクに向かって、泣き顔のまま、ハクを安心させるような笑顔を見せたミクは続けてこう言った。
「今日の午後には、黄の国の軍が王宮を包囲するわ。」
「あたしは、最後までお供します。」
ハクはそう言った。ビレッジからこの世界へと導いてくれたミクさまとは、ずっと一緒にいたい。たとえあたし自身の命が霧散しても。そう考えたハクに向かって、ミクは首を横に振ると、こう言った。
「駄目よ、ハク。」
一つ鼻を啜ったミクは、それでも力強く、そう言った。そして、言葉を続ける。
「あなたは、逃げて。」
それはハクにとって、とても酷い言葉だった。
「嫌です。最後まで、ミクさまと一緒にいます。」
「ありがとう。でも、ビレッジから連れ出して、そして戦争に巻き込んでしまったのは私の責任だから。」
ミクはそう言うと、執務室の机から一つの宝石を取り出すと、ハクの元へと歩いてきた。そして、その宝石をハクに向かって差し出した。王家のクリスタルであった。
「路銀の足しにして。売れば、一年位は暮らせるはずよ。」
本当にミクさまはあたしを逃がすおつもりらしい、と考えてハクは強く、こう言い返した。ミクに反発するなど、初めての経験だった。それでも、言わずにはいられなかったのである。
「嫌です!最後まで一緒に居させてください。あたし、何も出来ないけど、それでもミクさまと一緒にいたい。死ぬまで、お仕えさせてください。だから、だから・・。」
涙を溢れさせながら訴えるハクの言葉に、困ったような表情を見せたミクは、ややあって決心したかのように頷いた。このまま、王宮に居させてくれるのだろうか、と考えたハクに向かって、ミクはハクの予想していなかった行動に出た。
ミクは、ハクの身体を強く抱きしめたのである。
「ありがとう、ハク。凄く嬉しい。」
ミクに抱きしめられるのはこれで二回目だった。一度目と同じように、何かに守られているような安心感がハクの身体を包んだ。ミクの優しい香りと体温がハクの心まで満たしてゆく。
「ミクさま・・。」
ハクがそう言って、ミクの瞳を目にした時、ミクが静かに、こう告げた。
「ごめんね、ハク。」
直後に、ハクの首筋を重い衝撃が襲った。ミクの優しい瞳が脳裏に映った瞬間、視界が暗転してゆく。一体何が起こったのか理解できないままに、ただハクは深海へと落下してゆくように消えて行く意識の中で、ただこれだけを呟いた。
「ミクさま・・。」
「ごめんね、ハク。」
首筋に手刀を叩きこみ、気絶したハクを抱きかかえながら、ミクはもう一度そう言った。こうでもしなければ多分ハクは逃げてくれない。私と一緒に死んでは駄目よ。貴女は貴女の幸せを掴んで欲しい。だって、こんなにも美しいのだから。だから、これからは一人の女性として生きて。素敵な男性を見つけて、そして子供を産んで。貴女には幸せに過ごして欲しいから。
「ウェッジ!」
ハクを抱きかかえたままではハンドベルを鳴らすことが出来ないわ、と考えたミクは割合大きな声でそう言った。強めの手刀を叩きこんだからハクは多分半日は目覚めない。誰か同行させる必要があるが、適当な人間はウェッジ以外に思い浮かばなかったのである。
「如何なさいましたか、ミク女王。」
そう言いながら入室してきたウェッジは、気絶したハクの姿を見て不審そうに瞳を彷徨わせた。ウェッジは素直に私の言うことを聞いてくれればいいけど、と考えながらミクはこう言った。
「ウェッジ、ハクを安全な場所へ連れて行って。出来るだけ、遠くがいいわ。」
そのミクの言葉に、ウェッジは少しだけ顔をしかめて、こう言った。
「お言葉ですがミク女王、私の役目は最後までミク女王をお守りすることです。」
本当に、皆我儘なのだから。ほんの少しだけ苦笑を見せたミク女王は、続けてこう言った。
「その任務はこの場で解くわ。今後はハクを守って頂戴。」
「ミク女王、私はミク女王のお言葉は全て忠実に実行したつもりではございますが、今回限りはお言葉を聞く訳にはいきません。」
困ったな、とミクは眉をひそめた。忠誠心がありすぎるのも困りものかもしれない、と考えながら、ミクは更に言葉を返した。
「女王命令よ。」
「しかし。」
「大丈夫、私は死なないわ。だってすぐにグミが戻ってくるもの。カイト王を連れて。」
ミクはそう言って笑顔を見せた。カイト王が到着するまで耐えきれる自信は正直言って無いけれど、ここは強く言わなければウェッジはいつまでたってもここにいる。そうすれば、ハクを逃がすことが出来ない。黄の国が攻城戦を開始するまで時間も無いわ、とミクは計算し、少しだけ焦りを感じ始めていた。しかし、その言葉を聞いてウェッジも諦めたらしい。悔しそうに唇を噛むと、こう答えた。
「では、一時的にミク女王の護衛の任から離れます。ハク殿を安全な場所へと移した後に、すぐに戻ります。その際にはもう一度護衛の任に着くことをお約束頂けますか?」
「約束するわ。」
「畏まりました。」
ウェッジはそう言うと、ミクが抱きかかえているハクを両手で抱きかかえた。左手でハクの背中を支え、そして右手でハクの膝裏を持ち上げる。床に並行する姿勢で抱きあげられたハクの姿を優しく眺めてから、ウェッジはミクに向かってこう言った。
「では、すぐに出立し、そして至急戻って参ります。それまで、ご無事で。」
ウェッジはそう言うと、気絶したハクと共に執務室から退出して行った。
これで、本当に私一人。私一人で黄の国と戦い、そして勝たなければならない。
そう考え、ミクは微かな吐息を漏らすと、両手で自身の身体を抱きしめた。ハクの体温が消えた瞬間に、妙な寒気を覚えたからだった。それが物理的な熱を指しているのか、寂しさに覆われた自身の心を指しているのかはどうしても判別が付かなかった。
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