『世界が終わる日のはなし』
C、少年と少女
自分が死んだら、一体どれだけの人が悲しんでくれて、どれだけの人が安堵するのだろう。
僕は十七歳になる少し前に、幼い頃に死んだ母と同じ心臓病にかかった。その日から父親は狂ったように酒を飲んで泣いて、仏壇の前で写真の中の母に謝り続けていた。
もともと身体の弱い僕は、先生から病気の説明をされるまえにもう自分の命が長くないことに気付いていた。もって、あと二年程度だと言われた。
一年以上もこの白い部屋に閉じ込められている。僕にとっての世界は、もう窓から見える景色でしかなかった。
「秋、今日は起きてていいの?」
「尚ちゃん。うん、これから検査だって」
僕と同じ高校に通っている、尚ちゃん。中学校から一緒になって、仲良くなった。いわゆる、僕の恋人。
まだ外の景色に雪は無いけれど、病室に入ってきた尚ちゃんは鼻まですっぽりとマフラーで顔を隠していて、ブレザーの中に着ているカーディガンを限界まで伸ばして手を隠していた。この病室は勝手に窓を開けられないように施錠されているから、尚ちゃんの格好を見てよほど寒いんだろうと理解することが出来た。
もう人の手を借りなければベッドから動くことも出来なくなって、いろんなチューブや機械に囲まれたこんな姿を好きな子には見せたくなかった。だからもう毎日来なくていいよ、と言ったのだけれど、尚ちゃんはにっこり笑って毎日来るよ、と答えた。
実際、尚ちゃんがこうやって毎日来て、かつて僕も一緒に通っていた高校の話を聞くことは懐かしい気持ちになることができるから嬉しかった。同時に、自分が死ぬまでのカウントダウンでもあった。
「……でね、明日で世界が終わっちゃうって話でみんな盛り上がってたんだ」
「ああ、そういえばそういうのもあったね。もう明日かあ。ノストラダムスの予言みたいだね」
「でもあれは外れたからね。今回も外れるよ、きっと」
尚ちゃんはベッドの横に置かれたパイプ椅子に座って、林檎の皮を剥いていた。僕が入院してから、毎日。ほんとうに毎日、いろんな話をしながら一緒に林檎を食べるのが日課になっていた。最初は目もあてられなかったくらい皮むきが下手だったのに、とても上手くなっていた。
「秋は、明日世界が終わっちゃうって本当だったら、どうする?」
紙皿に、りんごの皮が円を描いて落ちた。八等分した林檎を、更に半分に切ってそのうちの一つを僕の口に入れてもらう。甘い。
「うーん、そうだなあ。……尚ちゃんの泣き顔が見たい」
「はあ? なにそれ」
尚ちゃんはおかしそうに笑って、おなじように一口林檎を口に入れた。僕はそれを見ながらもう一つねだる。
「だって尚ちゃんの泣いたとこ、今思い出そうとしてみたんだけど見たこと無いなあって思って」
「もっとマシなの考えなよ。普通病気が治りますように、でしょ」
「治らないよ。母さんがそうだったように。だからいいんだ」
四つ目をフォークで刺した尚ちゃんの動きが一瞬止まった。笑顔だった顔が崩れたように見えた。
「……治るよ」
「治らないよ」
「治るってば。だってこんなに喋れるし、りんごだって食べれる」
「いいんだ。治んなくて良い。こうやって尚ちゃんと喋れて、僕はいま幸せなんだ。幸せなまま死ぬんだったら、ぜんぜん構わない。最後まで、尚ちゃんのことが好きで、恋人のままで死にたいよ」
「秋は、あいかわらずそういうことさらっと言うんだから。恥ずかしいよ」
フォークを置いて、尚ちゃんは僕の手を握った。もう肉もなくなって骨張って体温の低い僕の手を、やわらかくて温かい尚ちゃんの手がつつむ。僕はまだ、生きている。尚ちゃんは「検査の時間までまだあるでしょ。寝てていいよ」と微笑みながら手をずっと握ってくれていた。
*
どうやら世界は終わらなかったらしい。なんでらしい、かと言うと、僕はもう生きてはいないからだ。
生きてはいないけれど、まだ死んではいない。まだ未練があって幽霊のまま浮遊している。
尚ちゃんに会って、検査を受けたあの日の夜。急激に容態が悪化した僕は、連絡を受けた父が病院に到着する前にあっけなく死んでしまった。気がついたら何日も経っていて、「僕」の意識がまだ残っていると気がついたのはさっきのこと。
「成仏できないってほど、思い残したこともないんだけどなあ。なんだろ」
僕は首を捻って、電信柱の上に座って考えてみた。未練がいったいなんなのか、考えてみても分からない。
これからどうすればいいのだろう。帰る家も無いし、成仏しないと天国にすら行けない。困った。
ふと、真下の道に尚ちゃんが居た。声をかけようとして口を開いたけれど、自分が幽霊だということを思い出して閉じた。学校帰りみたいだけど、家の方角ではない道を歩いている。手には花束が抱えられていておそらく僕のお墓へ行くのだろうと思い、後ろをついていった。
自分で自分の墓を見る、というのはなんとも気持ちが悪い行為だ。貴重な体験だなあと思いつつ、墓の上に座る。
尚ちゃんは僕のお墓に花を供えて、しゃがんで手を合わせた。何を思っているのだろう。
「……ねえ、秋」
「なに、尚ちゃん」
「私ね、毎日秋に会うのつらかった。毎日、泣かないようにするのに必死だったよ。会うたびに、見るたびに痩せていく秋を見るの本当につらくてどうしていいか分からなかった。病院に行って話をするたびに、病気が発覚する前の秋と目の前の秋が重なって、何度も心の奥が痛くなった」
「……うん」
「秋のなかで、私はいい彼女だったかなあ。最後まで、好きだって思ってもらえる女の子だったかなあ?」
「尚ちゃんは僕の一番好きな女の子だよ。今でも大好きだよ」
「秋があの日、私の泣き顔が見たいって言ったとき、ほんとは泣きたくて堪らなかった。お医者さんが言ってた余命がどんどん近づいていってるのが分かって、こわくて。一番泣きたかったのは、……秋、だよね」
尚ちゃんの声がどんどん潤んできて、頬には涙が伝っていた。合わせている手が微かに震えている。
ああ、抱きしめたい。でも僕には、もう抱きしめてあげられる手も尚ちゃんの横に立てる足もないんだ。
そこで気付いた。僕の手足が消えていっていることに。
「……なんだ、ほんとに未練がこれだったなんて。神様も変なことするなあ」
生きている間に、尚ちゃんを幸せにしてあげたかった。連れて行きたい場所も、一緒に見たいものも食べたいものもあった。伝えたいことも、まだまだ沢山あったんだ。
でもね、尚ちゃん。僕は確かに幸せだった。君の笑顔も泣き顔も見れて、最高の人生だったよ。
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