『僕は一体何者なのか』
僕ははっきりと覚えている。あの特異な経験を!それ以降僕はその時点の僕を置いてきてしまい、変質してしまったのではないかと思える。
無邪気な感覚が、本気に変わっていく。
何かを得たい。僕のその意識が、純粋に鋭利な形のもので切り裂かれるまでと、その後――。
#1
春はのろりとしている。人も植物ものろりと動きだし、のろりと順応していく。はっきりとした意識でいるものは少ない。僕もその頃のことははっきりと覚えていない。のろりとしていた。
僕が覚えているのは無理に緊張感を漂わせていた入学式と、緊張して無理をした初めてのホームルームでの自己紹介。いつもと違う自分を演じるのは疲れるうえにぎこちない。
僕の次は隣の席の女の子だった。
「柏原知子です――趣味は――その――えっと――料理です」
何も言うことがないという風になり、それから先生に促されるようにして教室中に拍手が響いていて、その子は座った。
#2
どろりとしたものは沈澱して固まり始める。五月はそんな時期だ。僕も少しは固まることができた。つまり少しくらい友達ができて、自分なりの学校生活を送り始めた。クラスには少しずつグループの輪ができはじめていた。誰もそれをひっかきまわそうとしない。
僕はそれを少し遠くから見てみる。例えば果肉入りジュースなんかにたとえて。果肉はジュースの中で舞っていて、均一になったり偏ったりしながらも、平等に引力によって沈んでいく。しかし、人はそうもいかないようで、まだ漂っている生徒がいる。僕の隣の席の柏原知子だ。
実のところ、このクラスに漂っている生徒は他にもいる。ひとえに彼女に目を向けたのは隣の席というよしみもあるし、観察してわかったのだが同じ電車に乗って帰って、同じ駅に降りるからだ。じっとまんじりともせずすごす車内を、一緒にすごしていたからだ。
僕にだって一人でいたい時がある。黙って本を読んでいたい時がある。だが柏原は、本当にもとから何の他の楽しみも持っていないかのように、何もしていなかった。ずっとじっと。そうした様を僕は辛気臭い、鬱陶しいとさえ思ったが、気にかけてみたいとさえ思った。
僕は教室で柏原の横顔を見ていると思う。下校時刻の夕暮れ時、いつもの電車内は赤く染まっている。そう乗車率は高くないから、人もまばらだ。柏原は夕焼けの差し込む窓に背を向けて座っている。顔には影が落ちていて、表情が見えない。僕はその横に座って、何か何事もないことを喋っていたい。何にも頷かなくていい。僕はまだ柏原の喜んだ顔や、困った顔や、何をおもしろいと思うか、つまらないと思うか、知らない。だから今はこれでいい。幻なのだから。
僕は柏原の中にある「僕」というラベルに、何か書き加えてほしかった。優しいでもいい、嫌いでもいい、苦手でもいい、関わりたくないでもいい。無関心でいてほしくなかったのだ。
薄々感づいていたのだが――教室ではイジメが進行していた。それはきっかけもなく、明確な行動もなく、言葉も意図もなく、ただ無関心から始まっていた。沈殿できない、固まれないイジメ。その理由は「沈殿できないモノ」にもある。だからは今はどちらもイジメっ子であり、イジメられっ子なのだ。
でも何かきっかけがあれば(それがどのような時期にどのような形で現れるか分からない、だから怖い)途端に「沈殿できないモノ」はイジメられっ子になってしまう。孤立したものが弱いのは当然で、クラスメイトにそうはなってほしくないのだ。一緒になれないのは悲しいことなのだ。
#3
僕は柏原をよく観察して、彼女が見せる隙をつこうと思っていた。そうすれば思いがけず、心を開いてくれるかもしれないと思ったからだ。
果たして彼女は隙だらけだった。無理もない。たった一人で学校生活を送っていれば、穴がポロポロとできてしまう。だけれども――隙ばっかり探して僕は機会を見過ごしていた。好きがいくらあろうと、それはきっかけにならない。些細なきっかけを探そうと僕は気づいたのだが、隙を探すよりもそれは難しいことだった。
教室で、駅で、電車で――。僕の向かうところは同じく柏原の向かうところで、それで、僕は必ず柏原のことを見ていて、いろいろと思案を繰り替えした。
ある日柏原は転んだ。比喩じゃなくて、文字通り転んだ。それは僕と柏原の降りる駅であった。柏原の前を歩いていた僕の背後で、派手な音がした。僕は振り向いて(そう言えばその日、その駅で降りたのは僕と柏原だけであった)、柏原を見た。鞄の中の定期券を歩きながら出そうとしていた所、転んだようだった。ノートやら教科書やらがホームに散らばっていた。
僕は慌てて引き返し、飛んでいきそうなプリントを拾った。それを見て呆然としていた柏原も慌てて散らばったものを鞄の中にしまって立ち上がった。
僕の方で全部集めて
「ほら」
と渡すと
「ありがとう、古藤くん――」
と小さく言われた。僕が驚いたのは言うまでもない。柏原は教室や電車で何もかもに無関心であるように見せていて、僕の名前を覚えていたのだ――。嬉しい、と言うよりも純粋に驚きだった。
いや――と言って小さく手を上げて合図し、こんな些細なことで気を使わせちゃ悪いと思って素直に帰ろうと前を向くと――、そこには小さな皮の包みが転がっていた。艶の消えた皮で、口のところが縛ってある。印鑑入れより大きいくらいのそれが、異質な空気を漂わせながらホームに転がっていた。
「これって君の――」
僕は白々しくも「君」と言った。柏原は僕の名前を覚えていてくれたのに、僕の方では何も知らないよと言った風に――。でもそんな何となく気まずい感じは、すぐに僕の中から消えた。
「だめ!」
それはおとなしそうな柏原の口から、あまり出てきそうもないと思っていた、怒りのこもった声だった。――警告なのだろうか。ともかくその口調には危機感のようなものが少なからず含まれていたように思う。
僕は伸ばす手を止めて柏原を振り返った。我に返った彼女自身が一番驚いている風でもあった。
柏原自身が一番気まずさというものを感じていたのだろう、思い切って、と言う風に息を一つ吸い込んで、僕の前をすり抜ける。印鑑入れみたいなそれを拾って行ってしまった。後に気付いたのだが、これが初めて柏原が見せた隙なのであった。
#4
後日、僕は変化をつけることにした。向こうの方で僕のことを知っているなら、気にすることはないだろう。僕はいつも柏原がそうしているだろう無愛想で無表情風の顔で、目が合った時に手を上げて挨拶代わりとした。柏原は小さく頭を下げてそれで終わり。言葉がなくともそれだけでも充分だと思って毎日続けた。継続はきっと力だ。
そうであるから、いつか彼女の方から何でもいいから話しかけて欲しかった。でもそれはなかった。彼女の方から僕を探して、先に挨拶をするようなことも――。
柏原は一貫して無関心を通しているようだった。僕が意固地になって、僕の作った習慣を柏原に押し付けてるんじゃないかと思った。――いや違うぞと、暫くして僕は考えを改めた。
少なくとも挨拶をしてきた相手に、挨拶を返しているのだ。その後はだんまり。何もない。
柏原は無関心を作っているんだろう、頑なに。それは僕の名前を覚えていたことからくる、僕の推論だ。そうじゃないかととしか言えないが、そうじゃないかと思った時、僕は凄く悲しかった。
僕には柏原が、ただ無愛想で落ち着いていて、口数が少ない、実のところは普通の女の子だと思っていた。そうであったと知れた時、僕は安心できただろう。彼女は日向を歩いていて、見える陰は少ないのだから。
だが彼女はわけあって日陰を歩いている――推測だが、推測だけであっても僕は不安になった。理由を求めたくなった。柏原がまだぼんやりとしか見えない位置にいるのが、僕には不満だったのだ。
#5
その日はテスト週間の終わりの日だった。もうそろそろ五月も終わり。
学校が終わり、駅に向かうバスの中、僕は色々と考えを巡らせていた。駅に向かう生徒は沢山いた。だけど目的地は駅周辺の町で、大概はその辺に住んでおり、下校で電車を使うのは僕と柏原だけであった。
テストが終わったという緊張感が抜けて、特別気の抜けた昼前だった。
「おーい、古藤」
バス停で駅に向かう足が反射的に止まった。
「枝下、部活は?」
僕の前の前の席の枝下であった。バス停の前の屋台でたこ焼きを買って食っている。僕の知らない枝下の友達も何人かいる。
「まぁテスト終わったからな、勝者の余裕よ」
そう言ってケタケタ笑う。何に勝ったのだか分からないが、とにかくその言葉を使いたかったのだろう。僕はちっとも笑えない。
「でさ、今日お前俺んちくるか?」
「なんで?」
白々しい、と言いたげな表情を枝下は作る。
「レコード、見にくるって随分前に言ったろ」
あぁ、と僕は思い出す。四月の自己紹介の折り、誰も同じ趣味の人間はいないだろうと、オーディオと言った(ついでに言った音楽で、大木という奴が釣れた。二人共元から繋がりが合ったようだが)。それで枝下が僕に話しかけてきた。
実のところ僕の言ったオーディオと枝下の言ったオーディオはちょっと違う。僕の言うオーディオはアンプであり、枝下の言うオーディオはプレイヤーのことだ。総合的に見ればオーディオなのだけれど、興味の方向性が違う。それはそれで残念だったのだけれど、レコードとなると話は違う。
「そうだったな、見にいくか」
よしよしと言って枝下はたこ焼きを片手に、歩き出した。枝下の友達が口々にばいばーいという。
駅の方を振り返って見ると、柏原が歩いている。あれ、後ろに座ってたんだと思いながら、振り返って枝下についていった。歩きながらふっと――そう言えば朝の挨拶だけで、柏原に別れの挨拶なんてしたことなかったと気付いた。
一通りレコードの構造的機構とプレイヤーの操作を見て、いくらかの感想を枝下に言って、僕は枝下の家のあるアーケード街を抜けて、駅に向かった。三時くらいだった。昼ご飯も食べていなかったから、バス停の前の屋台でたこ焼きを買って食べた。もう店じまいだったと見える。駅の前は閑散としていた。 ゴミを屋台に渡して改札に向かった。
「君、えーと、西校の子」
改札の詰所から声をかけられる。いろんな意味でびっくりしたのは言うまでもない。近付いてみると、駅員さんが西校の学生証を持っているので何となく理解がついた。
「なんでしょう?」
「君ね、えっとーそのー、フルフジコーギ君でいいかな?」
生徒証の一番前の折り返し。そこに僕の名前が書いてあるのだが、そこを駅員さんは一生懸命に覗き込みながらこう言った。
「えっと、コトウです。名前はわかりにくいですけど、キミヨシです」
そう聞いて、へぇーそうー難しい名前だぁと駅員さんは小さく呟く。よくあることだ。人の名前に興味を払う人は少ない。
「そうかそうか古藤君。じゃあこれ。西校の女の子が届けてくれたよ。お礼言っときなよ」
女の子と言われずとも「西校の」というので大体誰だか分かった。でも駅員さんは、僕の顔に疑問を読み取ったのか、説明を始めた。
「ほら、同じ電車でくる子。西校に電車でくるのは君とあの子だけだし。今年からだから同じ学年だろう?知らない?さっきもその子待ってたんだけどねえ。君来ないから私に預けて行っちゃったんだよ」
よくわかったよくわかった。
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