ガッと大きな音がたつ。ダンボールの山が崩れたのだろう。
何のことはない。本を読みながら歩いていたらぶつかっただけだ。
頭やら足やらに言断の痛みが走ったが、何の問題もない。未だに痛みが続いているがまぁ、問題ないだろう。
ダンボールの中身は本ばかりであったから、結構な重さがあった。それ故のこの痛みであろう。あぁ、痛い。骨、ひびくらいは入ったんじゃなかろうか。
けれどやはり、それはたいした問題ではない。今の私は眼球に直近でサーチライトを当てられたところで動じない。それほどに熱中しているのだ。それというのも、今私が手にしている本が、まるで仕組みも分からない、けれど起きていることは明白な、そんな怪々奇々な本であるからだ。
そう『本』なのである。それはつまるところ紙束とそこに記された文字列である。
表紙カバーはそこらの安い文庫本のようなつるつるとしたもので背表紙の折り目の部分がいくらか破れている。どこか前衛的な曲線を多用したなんなのかよくわからないイラストがそれを飾っており、タイトルに『アイソウル』と書かれている。紙は再生紙なのか茶色っぽい色をしており、薄っぺら過ぎてめくるのが心許ない。とはいえ、探せば何十と山を作れそうなほどにはありふれたものである。特別なところなど一つもない。
ただ、その内容が問題であった。まぁ、本と言うものは往々にしてそういうものであるかもしれないが、なんにしてもこの本は特別だ。何せ、ページを埋める黒いインクは一定ではない。私がこうと思えばこうと、ああと思えばああと記されていくのだ。つまり私が考えたことが、即座にで紙の上に表示されていくのである。まさに今この文字列だ。
まったく不思議な本だ。そもそも、これは現なのかと疑ってしまう。私は幽霊も金縛りも呪いも信じない質だ。世界は、明確な法則と、それによる明確な現象によって更生されるものだと信じている。はずだ。
だから、この本の存在は私にとってどのように扱えばいいのか戸惑うものだ。だが、確かに今もこうして私の思考がうすっぺらい再生紙の上に記述されているのである。明朝体かゴシック体か、フォトンの種類はよくわからないがよくあるようなそれで記述されるのだ。
そもそも、この本はどこからやってきたのか、それがわからない。今日、家の掃除ついでに段ボール箱の中の古本の山を整理していたところ見覚えのない表紙を見つけ、手にしてみたのがこれであった。タイトルにも見覚えがなかったから、内容を見てみようと思って適当なページを開いてみたら、その白紙の上に電源を入れたテレビか何かのように突然文字が浮かび上がってきたのである。液晶か何かかと疑ったが、どう見てもこれはただの紙である。
それにしても不思議なもだ。こうして自分の思考が文字として浮かんでくるのを見ていると、普段漠然としているはずの自分の思考の全てがひどく整洗されたモノとなる。別に意識して何かしているわけではない。手紙や日記を書いたりしているわけではない。ただ目の前に言語化される自分の内の声を見ているだけであるのにだ。
こうして今も浮かび続ける。
一体どんな技術が使われればこんなものが作れるのだろうか。そもそも私はこれをどこで手に入れたのだろう。知らぬ間に、本が勝手にやってきたとでもいうのだろうか。けれどこの本を見ているとそれもありえそうな気がしてくる。私は幽霊なんて信じない質のはずだ。いや、単に信じない振りをしているだけなのかもしれない。私はただ生まれてこのかた幽霊を見たことがないだけなのだから。ある日幽霊が見えるようになれば私は幽霊を信じるようになっていた。それだけの話ではないだろうか。しかしそういうことなら私はやはり幽霊を今も信じていないのではなかろうか。見ていないのだから。
私が目にしているのは、この自分の考えが勝手に文字になって浮かんでくる。本だけなのだから。
そういえばこの本、私が何も考えなかったらどうなるのだろう。やはり文字が浮かばずそこで止まるのだろうか。パソコンのスペースキーを押すように白紙のページが出来上がるのだろうか。試してみよう。何も考えないように頭の中を空っぽにして数十秒待ってみるのだ。それから再び思考を開始すればどういう風になるのか分かるはずだ。そうしよう。真っ白に。しかし、どうすればいいのか。頭を空っぽと言う行為は意識的にできるものなのだろうか。いや、今そうしようとしているはずなのだが上手くいっていない気がする。文字が本から次々に浮かんでくるせいでそれを追ってしまうのも問題か。しかし、空っぽ、ボーっとする、普段何気なくやっているはずなのだが、そういった感覚と言うのは存外覚えていないものである。ボーっとしているのだから当然と言えば当然なのだろうが。いや、けれど人間が脳をまったく働かせていない状態というのは死んでいるときくらいではなかろうか。脳死と言う奴か。だとすればやはりこれは上手くいかないのかもしれない。
ページをめくる度、古本特有のにおいが微かに鼻をくすぐる。この本は途中のページから読み始めた。大体百ページかそこらではないだろうか。そして、そこから私の考えが白紙の上に文字として浮かんだ。と言うことはそれより前のページと言うのは全て白紙なのだろうか。気になる。
そういえば昨日は上嶋さんがかなりやばそうなことになっていたが、あれは収拾がついたのだろうか。こっちの担当とは被っていなかったし、面倒くさかったから何もしなかったがすこしは気に掛けてあげるべきだっただろうか。あぁ、今頃あいつ無視しやがってとか思われているのだろうか。それはいやだなぁ。今度何かしたほうがいいだろか。けど下手に何かしたってしょうがない気もするし、余計なお世話だろうか。
というか、今日は大掃除のはずなのにちっとも片付かない。やはり本を買いすぎなのだろうかもう段ボール箱何箱になるのやら。いい加減本棚を買うべきなのだろうけれど、結局入りきらないだろうし。どうしよう。やはりいくらか処分するべきなのだろうか。
取り留めのない思考ばかりが続いている気がする。そういえばこの本に書かれている文字はずっと残るものなのだろうか。だとすればいつか誰かがこの本を手にしたら、この私の薬毒も無い思考を読むことになるのだろうか。それはどうなのだろう。恥ずかしい気もするし、最早こんな形になってしまっては恥ずかしいと思うほどのものではなくなっているようにも感じる。それ以前に読んだところで大して面白くも無いこんな文字列など、誰が読むと言うのだろうという気もする。つまらない本ほど眠気を誘うものは無いだろう。けれどこれを目にし続けている私に眠気など来る気配は少しも無いわけで、つまり私はこの文章を楽しんでいるとでもいうのだろうか。それはかなりの自己愛者である気がする。何だかいたたまれない。
自己愛者といえば、木口さんがこの前の飲み会で随分と自分のことについて饒舌に語っていたのを思い出す。彼と飲みに行ったのはあの日が初めてで、普段の彼とは随分違う有様に驚くのと、止まらない彼の自分話に辟易したのだった。酒を飲むと人の変わる人というのはいるものだが、彼ほど落差の激しい人を見たのは初めてかもしれない。
そういえば大口の顧客への今度のキャンペーン告知、木口さんはやってくれただろうか。今回のは今までといくらが勝手が違うようになるら普段より丁寧にしなければならないだろうけれど……。まぁ、素面の彼のことだ、きちんとやってくれているだろう。
それより来週発売の夏雨の最新刊、散々延期を繰り返して待ちくたびれてしまった。全巻の内容もあやしくなっている、あとで探して出しておこうか。明日の電車の中で読む本はあれにしよう。確か今は主人公が
<中略>
《続く?》
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