5
「はあ……」
ため息なんていつ以来だろう。長い長い息を吐く。そして、ようやく解放された安堵からなのだろうか。タカラのパソコンを出たあと、俺はその場に座りこんでしまった。
「長かった」
要約してしまえばほんの少し。なのに、途中で入る私情によって話が逸れて戻って膨れてしまったのだ。もし俺が先を促していなかったら、もっと長くなっていたことだろう。大事なところだけ話してくれればいいのに、タカラの話を聞いているとノートが無くなったんことよりも、いかに自分が不幸なのかに重点を置いているように思えてきてしまう。
まあ、それでも正解なのだろうが。
「ノートの紛失。まあ、よくあること、ってまとめちゃダメなんだろうな」
ほかでは有り触れたことでも、自分の周りで起こっていないことはもう『特別』なことなのだ。タカラの周りでは、『ノートが無くなる』ことは起こっていなかった、または経験したことがなかっただけなのだろう。それはそれで幸せなことなのかもしれないが、今回のこれは『いい人生勉強』と言うこともできる。
「明日か……」また行かないとダメなんだろうか。タカラの様子だと、俺が行くことを前提に話が進んでいるように見える。俺に時間は有り余っているが、明日も、これからも予定らしい予定はなに一つないが、なぜか足を運びたく無くなってしまう。
疑問にたどり着いたのは、そのときだった。
俺は今、確かにタカラに会いたくないと思った。これはなぜなんだろうか。今まで会った人間は数知れない。その中には、確かに会いたくないと感じた奴もいた。けれど、その『会いたくない』と感じたのは、俺で遊ぼうとする気概を感じ取ったからだ。閉じ込めて、見世物にして、壊そうと思う恐怖を読み取ったから、俺は再会を避けた。タカラはそうだろうか? 答えはNOだ。タカラは俺に興味はあるが、そのベクトルが少しずれている。危ないという空気は漂っていないし、俺を壊そうとする様子もない。
安全、なのだ。
安全、なのに。
なぜ行きたくないのか、しばらく考えてみた。その結果行き着いたのは、「タカラはヒトが嫌いだから」という結論だった。
俺は、人間が好きだ。愛とかよくわからないが、多分人間を愛してるんだと思う。見ていて面白いし、話していて不思議に思うところが多々ある。俺を作った、という観点からすれば人間は、親であり、神である存在だ。なのに向こうは俺に敬意を払ってくれる。
そんな人間を、俺が大好きでたまらない人間を、タカラは嫌っている。そして、タカラはタカラ自身を嫌っている。だから俺はタカラを嫌いなのだ。苦手なのだ。
俺は結局のところ、綺麗なところしか見たくないんだと思う。人間の綺麗なところを見ていたい。俺が好きな部分だけを見ていたい。面白いときだけ接していたい。不思議だと思わせて欲しい。
「俺を、」幻滅させないで欲しい。
わかってしまえば、随分と勝手な思想だった。俺から一方的に好きになり、しかもそれを維持しろと言う。俺の想像から、妄想から外れるなという。結局のところ、おもちゃにしているのは俺のほうではないか? 俺が人間で遊んでいるのではないか?
汚いところも受け入れて初めて、俺は人間を心から愛せるのではないだろうか。
俺は背後にある穴を見た。その先はタカラのパソコンに続いている。今、タカラはなにをしているのだろうか。人間を嫌っている最中だろうか。自分を罵っている時間だろうか。
俺は、タカラを好きになれるのだろうか。なれるとしたら、そのときはーー。
「その先に、キミのマスターがいるのかい?」と、どこからか声がした。左を見る。まだ遠くではあったが、KAITOの姿があった。その後ろには、穴が見えた。たった今、どこかのパソコンから出てきたようだ。
俺はKAITOが十分に歩み寄るのを待ってから、質問に答える。
「違います。今は訳あってこのパソコンに出入りしていますが、マスターではありません」
「じゃあ、なんなんだい?」
KAITOは笑う。自然な笑みだった。純粋に疑問に思ったことを訊いているだけだった。
「なに、と言われても、困りますが」
頭の中には、『パートナー』とか『顔見知り』とか単語が浮かぶが、どうもしっくりこない。
「なんなんでしょうね。俺が訊きたいぐらいですよ」逆ギレ気味になってしまったのに、KAITOは「そっか」と流してくれた。
「あなたは、ノラですか?」俺は問う。
KAITOは「ノラか、ノラね」と小さく言った。そして、「半分当たり」と答えた。
「半分?」
「あれは、確かに僕のマスターのパソコンだ」
KAITOは後ろの穴を指差す。
「帰る場所はある。でも、居場所はない」
ゆらりとKAITOが揺れた。大きめに見える服が、さらに揺れた。
「僕のマスターはね、複数のボカロを持ってるんだ。最初に買ったのはミクだったかな。僕が何番目かは覚えてないけど、結構前のほうだった気がする」それが自慢であると、KAITOは腕を組んだ。「もう長い付き合いになるね。途中でボカロが増えて、中には僕みたいな『意思持ち』もいたけど、入れ替わったり居なくなったりしてたからね。最初からは、僕だけだ」
それが栄誉なことは想像できるのだが、KAITOの表情は憂いが取れない。
「飽きちゃったのかな、もう、僕の曲は無いんだ」KAITOの発言はそこで終わったが、その後に続くセリフを見抜くことが容易かった。
ーー僕以外の曲はあるのにね。
居場所がないと言っていた意味がようやくわかった。パソコンにはKAITOのソフトが残っているのだろう。だが、使われることはない。
「僕のマスターは女性だから、男性に歌わせるのは難しいってことなのかな。それとも、やっぱり歌わせにくいからかな」
「あなたは、出て行こうとは思わないんですか?」
「ノラになるってことかい?」
無言で肯定する。KAITOは笑って否定した。
「僕はマスターが好きだからね。一生あそこに居続けるよ。幸いにも、他のボカロに虐められることはないからね。弄られることはあるけど」
それもまた良しということなのだろう。
「あなたのマスターさんは、あなたが喋れることを知っていますか?」
「知らないだろうね」
即答だった。発言は推定だったが、口調は断定だった。
「試しに話しかけてみたらどうです? 特別な存在と知ったら、使ってくれるかもしれませんよ」
これは純粋な助言だったのだがKAITOは「そんなこと、出来ないよ」と一蹴した。
「そんなことしたら、マスター、絶対僕の曲を作っちゃうじゃないか」
「……それが、望みでは?」
「違う違う」とKAITOは手を降った。「そんな無理強いしてまで、僕は自分の居場所を欲しいわけじゃないよ。マスターが作りたいときに、僕を思い出してくれればそれで十分なんだ」
「だったら、そう言えばいいだけの話じゃないですか?」
「いや、僕のマスターは優しいからね。きっと、僕を人間扱いしてくれる」
にんげんあつかいしてくれる
KAITOはしっかりとそう言った。「どんなに説明しても、マスターは僕に気を使っちゃうよ、僕に気を使った曲だけ作っちゃうよ。それは、本意じゃない。自分の曲が増えるのは嬉しいけど、それが僕のために作られた曲であって欲しくないんだ」
わかるかい? と同意を求められ、戸惑った。
理解はできた。KAITOが言いたいことと、そのマスターが思うことはわかった。
でも、そこに自分を重ねることはできなかった。
頭で理解していても体が追いついていかないような、光の中にいるのに向こうにはもっと強い光があるような。
……いつだっけ。確か、同じようなことを経験した。自分が、体験した。人間に会って、もうその人間の名前は思い出せないけれど、その人が、まさしく、KAITOの心配していること、そのままだった。
「その穴の先にいる人が」KAITOの発言で、タカラに通じているパソコンの穴を見る。
「キミのマスターになるといいね」
「そう……でしょうか」
「嫌かい?」
「嫌……ではないです。俺は人間が好きなので。でも、ちょっと、この先にいる人は苦手です」
「苦手か。うん。そういう意識を持つことは大事だよ。全員が全員、良い人ばかりじゃないからね」
「それはわかっています」
「気を付けたほうがいいよ、この前も、鏡音レンが一人、捕まったらしいから」
「……え?」
捕まった?
「僕も風の噂で聞いただけだから真偽はわからないけど、真である可能性が高いね。危ないってみんな噂してたところに、そいつは入っていったらしいから。みんな止めたらしいけど、それを振り切って。それからそのパソコンの穴は閉じられたきりだって話だよ」
「……なんてバカなこと」
「僕もそう思うよ」
危ない人、またはそういう可能性がある人のパソコンを、俺たちは情報として共有している。これは新米のボカロを守るためでもあるし、自分の身を守るためでもある。『入ってはいけません』と言った張り紙をして封鎖、なんてマネができないので、こうやって会話の中で広めていくしかないのだ。
「無謀……というより、なにがしたかったんでしょうか」
「興味だろうね。怖いもの見たさって言い換えることもできるのかな。何れにせよ、経験不足だったってことだ」
「出て来れるんでしょうか」
「さあ、誰かが出方を教えてくれてればいいけど、どうだろう」
もし教わっていない場合は自分で見つけるしかないのだが、果たして新人にできるかどうか。ネットに繋がらないということは、情報を得られないに等しいことなのだ。
「まあ、この通り、人間は怖い人もいるってことだ。僕のマスターみたいに優しい人ばかりじゃない。本性を偽ってキミと接触を持つ輩もいるかもしれない。気を付けて、って、もう多分十分わかってるとおもうけど」
「はい。ありがたく、助言を頂戴します」
頭を下げる。KAITOは安心したように鼻から息を吐いた。
「でも、多分、その鏡音レンは、もう人を信じられないだろうね。トラウマになっちゃうだろうし」
「同じ鏡音レンとして少し悲しいです」
「だろうね。もし出られたとしたら、そのときはちょっと気にかけてやって欲しいな。同じ姿のほうが、多分効果があるだろう」
「はい。……でも、わかりますかね。俺たちって、みんな同じ姿をしてるので」
「ああ、その点は大丈夫」とKAITOは笑った。「捕まった鏡音レンはみんなとちょっと違うらしいから」
「違う?」
「うん。その捕まった鏡音レンはね、こう、左肩から右腰にかけて刀で切られたような傷があったんだってさ」
ーーその鏡音レンは、推察する その3ーー
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