第一章 逃亡 パート7
「逃したか。」
カイトはアクの姿を見ると、何事も無かったかのようにそう告げた。そのまま、沈黙する。アクはそのまま、小さく頷くと視線を床に落とした。まるで悪戯が見つかって、叱られる事を恐れる幼子のように。
「カイト皇帝。」
恐る恐る、という様子で口を開いた者はカイトの昼食の支度を終えたジョゼフであった。アクが入室した直後に発生した、緊迫した雰囲気に自身の心持ちが掬われるような気分に陥ったのだろう。カイトはそう考えながら、ジョゼフに向かって優しく微笑むと、こう言った。
「ご苦労、ジョゼフ。アクの分も用意してくれ。」
そのカイトの声に安堵したかのようにジョゼフは僅かに瞳をほころばせると、元気のよい返事をして私室から立ち去っていった。そのまだ成熟していない小柄な身体が音も立てずに閉じられた扉の向こうに消えると、カイトはアクにしては珍しい、何かを恐れているような態度を見つめながら、アクに向かってこう告げた。
「怪我はないか?」
その言葉に、アクは驚いた様子で視線をカイトに向けた。カイトの視界に、今にも泣き出してしまいそうな紫がかった淡い瞳が写る。
「・・どうして。」
アクは小さくそう言った。珍しく、感情の篭った声で。そのまま、言葉を続ける。
「私は、カイトの指示を果たすことが出来なかったのに。」
それを気にしていたのか、とカイトは考えながら、アクに向かってこう答えた。
「気にすることはない。戦には時の運と言うものがある。それに、今のリンが生きていたところで、我々に反旗を翻すような力はないだろう。」
違う。アクはそう考えた。カイトに求めているのはそのような優しさではない。私がカイトを愛している唯一の証。それを私は達成することができなかった。その事実に対してカイトは何も感じてくれていないのだろうか。もっと私の気持ちを理解して欲しい。そして、その気持ちに応えて欲しい。そう思うのに、それを口に出すことが出来ない。どのようにして伝えればいいのか分からない。アクは悶えるようにそう考えると、まるで自身を抱きしめるかのように両腕を組んだ。寂しかった。カイトに漸く会えたのに、一人でいるときよりも何倍も寂しい。アクがそう感じて一人小さく唇をかみ締めたとき、カイトはいつもよりも優しい口調でこう言った。
「アク、少し気晴らしをしよう。戦に敗れて気が立っているのだろう。」
違うの。アクはそう考えた。戦に敗れた事を気にしている訳ではないの。ただ、貴方の愛情を確かめたいの。心ではそう感じていても、それを口に出すことは憚れた。もし、もしカイトが。口では愛していると言っても、私がそう訊ねた瞬間に僅かでも戸惑うような気配を見せたら。愛情を疑うような態度を垣間見てしまうことになったら。その想像はアクにとって恐怖以外の何者でもなかった。だが、カイトはそのアクを、あくまで敗戦を恥らう一人の将軍として扱おうとしている様子であった。カイトは続いて、アクに向かってこう告げたのである。
「アクが旅に出ている間に、新宮殿の造営場所が決定した。昼食の後に二人で視察に行こう。豪奢な、ミルドガルド大陸一を誇る宮殿が出来上がることだろう。」
私は昔のままがいい。青の国と呼称していた頃のままでいい。アクはそう感じた。あの時は装飾品など見る影もなかったが、その代わりに人の愛情があった。カイトももっと私に近い場所にいてくれた。なのに、今のカイトは私とはどんどん離れていっているような気がする。私の好きだった質素で静かな空間は年を減るごとに少なくなり、代わりに華美で騒がしい調度品ばかりが集められている。昔の質素と武芸を好んだカイトの姿はもうここにはいない。そのカイトが、私の好きなカイトだったのに。
「カイト皇帝、皇妃様のお食事をお持ちいたしました。」
私室の扉の向こうで、ジョゼフの声が響いた。その声にアクは何故か救われる様な気分を味わいながら、ジョゼフの入室を促すために扉に向かって声をかけた。
「そろそろ、出立するか。」
カイトがそう告げたのは一時間程度の時間をかけてゆったりと食事を取った後の出来事であった。一体何を口にしたのか、どうにもはっきりしない。アクはそう考えながら同意を示すように小さくカイトに向かって頷いてみせた。カイト自身はそのアクの心境を深く気に留めてもいない様子で立ち上がると、ジョゼフを呼び出すために部屋の呼び鈴を打ち鳴らした。その後すぐに駆けつけたジョゼフに向かって、何点か指示を出すとアクに向かってこう告げる。
「今女官も呼んだ。着替えて来るといい。」
その言葉に、アクはもう一度小さく頷くと、自身も重たい腰を上げて私室から退出することにした。アクの更衣室は別部屋に用意されている。カイトとアクの寝室の隣にある小部屋がその更衣室として当てられていた。どうせ再び外出するなら、今身につけている旅装のままでも構わないと考えながらもアクは素直に更衣室へとその身を移す。
「皇妃様、お久しゅうございます。」
更衣室に入室した直後にそう告げたのは、青の国時代から宮殿に仕える年嵩の女官長であった。名はバラートと言う。今は亡きカイトの母親の忠実な配下として仕えていた人物である。
「今日は春色のお召し物をご用意させて頂きましたのよ。」
楽しげな口調でバラートはそう言った。そのまま、慣れた手つきでアクの旅装を解き、どうやら新品らしい外出着をアクに身につけてゆく。緑を基調とした、柔らかな色を持つ着物であった。このような服をカイトは気にいるのだろうか、とアクはなんとなく考え、そして恥らうように視線を床に落とした。今まで、服装など気にしたことがなかった。その必要がないと考えていたのである。だけど、今は。少しでもカイトの気持ちを私に引きたい。少しでも多く、カイトに愛してもらいたい。アクはそう考えながら、バラートに向かってこう訊ねた。
「カイトは気にいる?」
自身でも生まれて初めて告げたその言葉に、一番戸惑ったのはバラートであったようだ。これまでもう二年以上も皇妃として君臨していても、バラートとこのような会話をしたことがない。だが、バラードはアクのその言葉に嬉しそうな微笑みを見せると、優しい口調でこう言った。
「きっと皇妃様のお姿に瞳を奪われることになりますわ。」
悪意の無い、素直なその言葉に、アクは何かに安堵するように一つ頷いた。女性らしくありたいと感じたのはこれが初めてのことであった。
やがて着替えを終えたアクは、バラートが用意した春色の洋服を気にするように眺めながらカイトの元へ戻った。既にカイトも出立の準備を終えていたらしい。軍服に帯刀を終えたカイトはアクの姿を見ると僅かに瞳をほころばせ、そしてこう告げた。
「その衣装に剣は似合わぬな。」
そう告げられて、アクはいつものとおりに腰に佩いていた愛用の長剣を眺めた。確かに、女性らしいこの服に無骨な剣は似合わない。かといって、剣を持ち歩かないわけにもゆかないし、と考えていると、カイトが続けてアクに向かってこう言った。
「たまには剣を置いてゆくといい。」
剣を置いてゆく。その事態にかすかな不安を感じながら、アクはカイトに向かってこう答えた。
「剣がなければ、カイトを守れない。」
それこそ私の役割ではなかったか。そう考えながらのアクの言葉に対してカイトは楽しげに微笑むと、アクに向かってこう答えた。
「構わぬ。今日は俺がアクを守ろう。」
その言葉がアクの元に届いた瞬間、アクはそれまで心に溜めていたわだかまりが瞬時に霧散してゆくような気分を味わうことになった。カイトが、私を守ってくれる。その言葉が優しくアクの心を包み、ほわほわと身体が浮き上がるような感覚を味わう。嬉しい、と思い、そしてアクはカイトに向かってこう答えた。
「・・そうする。」
そう言いながらアクは寝室の片隅にその長剣を丁寧な手付きで置いた。その瞬間に自身が一剣士から一人の女性に戻ったのだという感覚が訪れる。そのアクの姿を楽しげに眺めていたカイトは、では行こうか、と優しい声で告げると、アクを先導するように私室から歩き出した。
今回新宮殿視察に同行するのは青騎士団の副隊長を務めるテューリンゲンであった。彼の直属の配下である選りすぐりの二十名も随伴している。最近は青騎士団隊長であるオズインよりもテューリンゲンのほうがカイトの外出に同行することが多い。そろそろ次代に軍を担うべき将軍の選定を開始しているという事情がその主な理由であった。
「では出発しよう。」
全員の準備が整ったことを確認すると、カイトはテューリンゲンに向かってそう声をかけた。カイトのその指示を受けて、テューリンゲンは全員に向かって進発の合図を行う。当初は皇帝随伴という緊張感からか固い部分が見受けられたが、最近は随分と慣れた様子で、落ち着いた口調で指示を出している。そのテューリンゲンの様子を視界の端に収めてから、アクは自身が騎乗している馬の手綱を僅かに緩めた。カイトもまた、アクに合わせるように馬の手綱を緩める。自身の外出の際は自ら騎乗して行くという行為は、カイトの残り少なくなった以前からの習慣の一つであった。やがてカイトはアクよりもやや前方にその身を移すと、全員を先導するようにゆったりとした歩みで馬を移動させた。
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