- 一章乃一 -
ベー……ベベゥー……
耳をくすぐる音が風と共にやってくる。
外に出るにはまだ薄着では寒かったが、変わりやすくなった天候の影響で雨に濡れる大地は恵みの力を内部に蓄えつつある。地肌むき出しの道はぬかるんで歩きにくくはあったものの、運ぶ足を跳ね除ける冷たい氷の表情をすることは無くなった。
晴れ間が覗く午後の一時を利用して、村外れに暮らす少女は人の集まる場所へと向かっていた。
少女の名は『ラズベリッド』という。すぐ脇を歩くロバの背に自身が丹精こめて育てた野菜や薬草を載せて、月に二度村の広場で開かれるささやかな市で売りさばく為の道中にあった。
ベーィ、ベーベゥーリ……
はっきりと聞こえるようになった音は、葦で作られた簡易な笛の奏で。それに混じって金属がきしむ音や木材どうしが叩き合う甲高い音が響いてくる。
市には大きな町から日用品や衣料、雑貨等を持ち込もうとする旅商人もやってくるのだ。そのかさ張る荷を運ぶため荷馬車は必要不可欠。
草笛も道を行く者に存在を知らせる警笛の意味があるのだ。
「ほーらハク、邪魔になるから避けようねー」
少女は引き綱でロバに指示を出し後方間近に迫った馬車を避けるべく道を脇へ逸れた。
立派な体格を誇る馬に引かれ、荷馬車は少女とロバを追い越しに掛かる。決して乱暴な動きでもなくゆっくりとした速度でもって道を進む荷馬車であったが、決して平坦とはいえない道の作りとぬかるんだ道を行き交う馬車によって刻まれた轍(わだち)の影響を受け思わぬ動きをしてしまう。
段差で軽く跳ねた車輪が轍に溜まった泥水へと落下し、結構な勢いで泥の飛沫を周囲へと散らされた。
当然、近い場所に退避していたラズベリッドにも容赦なく襲い掛っていく。
「っ、おっと……はっう」
即座に反応して身軽なステップを踏む少女。あわせてロバに合図して共に泥の一撃をかわしていた。
「ぉーい、嬢ちゃん大丈夫か?」
停止した荷馬車からがっしりとした体格の男が顔を覗かせる。目元に年季の入った深い皺を何本も走らせ、そこより下からは立派に蓄えられた髭に覆われていた。危険と隣り合わせの局面も経験する旅商人にしては穏やかで人が良すぎる雰囲気を持つ男だった。
「悪りぃかったなぁ。服は荷物は汚れちまわなかったかい?」
「うん……大丈夫……だったよ。はぅ」
別段心配される程の出来事ではないのだが、どうやら少女が息を切らせ屈みこんだことで余計な不安を与えてしまったらしい。
「弾いた石ころにでも当たっちまったとか、避けた拍子に転げちまったとかそんなとかか? 顔も青っちろくなって辛そうじゃないか」
「あはは……結構長く歩いてきたから疲れちゃったんだと思うわ。身体動かすのも得意じゃないからねぇ……うん、もう大丈夫よ」
呼吸を整えて身体を起こした少女は、心配顔の商人へ笑顔を返した。
あまり不安にさせてしまうのは彼女にとっても本意ではないのだ。被害と呼べるのは少し足を捻りそうになったこと位であるし、直接的な関係がない部分で自身の体調についてあれこれ追求されたくはない事情もあった。
目的地も同じであるから荷馬車に乗せてくれるという善意の提案もやんわりと辞退すると、せめてものお詫びとのことで幾つかのオレンジを手渡された。喉を潤せるのは素直に有り難かったのでそれを受け取り感謝を述べた。
「そいじゃぁ、俺はいくさ。と、なあ嬢ちゃん……大層身が軽いようだったが、村で踊りだの手ほどきでも受けたことあるのかい?」
「踊り子じゃないけど、歌はやるわ」
口にしてしまってから後悔の表情になる少女。
伊達に命を張る商人を続けてきた人物ではなかった。真心も武器に相手の心をほぐし秘密の情報も引き出してしまう術も心得ているのである。
「あの村で歌を任されるってぇと……ふむ、まっいいわな」
「…… ……っ」
身構える彼女を他所に、商人は追及を止めて顔をほころばせると手綱を振るう。片手を上げ別れの挨拶に代えると、彼はそのまま去っていった。
「町の男は場馴れしてるから油断していると口説かれるわよって、母さまも昔言ってたけど本当だったんだなぁ」
多少ずれた解釈のまま納得したラズベリッドは手にしたオレンジにナイフを入れる。柑橘系のしぶきが弾け、さわやかな香りが嗅覚を刺激する。それ以外にも空気に混じって水の匂いが強くなっていることに気が付いた。どうやら雨が降るのも近いらしい。
「甘ずっぱぁーい。えっへへ、幸せしあわせ。これ食べて元気でたら先を急がないとねー」
呑気に草を食むハクにも疲れは見受けられず、これなら何時出発しても問題なさそうだ。
仕事の相棒であり、唯一の家族でもある彼女の存在はとても頼もしいが、少し妬ましくもあった。
このロバのように自分もたくましくあったら、どんなに良いだろう。
「今年こそ成果を見せるんだ。そうしないと……もう私には後がないもの」
たちこめる暗雲さえも何時かは晴れるもの。それならば、その機会を絶対に逃さなければいい。
少女は決意を新たに村へと続く道へと視線を走らせるのであった。
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こんな...君の神様になりたい。
kurogaki
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