伊波さんが来て三週間と少しが立った。
彼の足はだいぶ治ってきていて、ほとんど松葉杖なしでも歩けるようになっていた。いいことではあるのだが、少しさみしい気もする。
病に侵されてからこれまで、渡会以外の人とはほとんど話す機会がなかった私にとって伊波さんの存在はとても大きなものだった。話す相手が常にいるというのは気力も増したように感じられ、笑顔であることも多くなり、病魔にも勝てる気さえしてくる。
本当に会えてよかった。
だって伊波さんは……
「薫さん。どこまで行くのですか?」
私の後ろを歩く伊波さんがそう話しかけてきた。
今私と伊波さんは森林の小道を歩いている。小道とは言っても獣道みたいなもので、歩きにくいし、周りが木々に覆われていて昼間だと言うのに薄暗い。時折鳴く烏の声が不気味に感じられなくもない。とはいっても、私には慣れたものなので怖がることはできないのだが。
「すぐそこまでですよ。伊波さんも知っているところです」
私は両腕を広げ、右足を軸にしてくるっと半回転して伊波さんの方を向いて答えた。いつもと同じ白い浴衣着が少しなびく。
この動作は私の幼いころからの癖のようなものだ。何となく始めて何となく続けている。幼いころから続けているもの、ともにしているものはなかなか離れないものである。
私が急に回ったにも関わらず、伊波さんはほほえましそうに私を見て、「そうですか」と言ってくれた。それがうれしくて仕方がなかったが、少し恥ずかしくも思えて私はまた前を向いて歩きだしてしまった。自然と歩みが速くなる。
それでも、伊波さんは何も言わずそれに合わせて歩いてくれる。それがまた、うれしかった。
少し木々がまばらなところに出てきた。そろそろ目的地である。
伊波さんが納得言った風に「あ~」と声を出した。
「この辺りでしたね。私が着陸したのは」
「そうですよ。でも、伊波さんが墜落したのはもう少し先ですね」
「わざと『墜落』と言いましたね?」
「いえ、滅相もありません」
「「あははははは」」
こんな会話ができるのも伊波さんのおかげである。そんな彼だからこそここに来てほしかった。
「はい、到着です」
伊波さんの驚いた顔を見ることができた。
「本当にここに連れてこられるとは思いませんでしたよ」
私が伊波さんを連れてきた場所はまさしく、彼が落ちてきた場所、つまり、御神木のところだった。
御神木は桜の木で、話によると樹齢千五百年を超えるらしい。昔からこの辺りに住む人たちに御神木としてあがめられ、うちの神社はここの神様を祭るためにある。春には未だに満開の花を咲かせ、夏には生き生きとした青い葉をいっぱいに広げ、秋には真っ紅に葉を紅葉させきれいな桜紅葉を見せてくれる。
そして、ちょうど今、桜紅葉がきれいな時期である。
「残念ながら今年の桜紅葉は穴があいてしまっていますけどね」
「御神木とは知りませんでしたから、許していただけると嬉しいです」
「それもそうですね」
「ありがとうございます」
そう伊波さんが言ってから、私たちは耐えきれなくなって笑った。
充分笑ってから私は伊波さんに提案を一つした。
「御神木の前に座ってくれませんか?」
私のこの提案に伊波さんは不思議そうな顔をした。どうしてこんな提案を受けるのかわからないと言った感じだ。
私自身もどう言っていいのかわからなくなってしまった。ただ、そこに座ってほしかったのだ。
「あ……あの、変なこと言ってすみません。別に……」
私の言葉を伊波さんは言葉で遮った。満面の笑みを添えて、だ。
「いいですよ。断る理由がありませんし。でもいいんですか? 御神木に座ったりして……」
「あ、え、はい。大丈夫です」
「そうですか。では」
そう言って少し恥ずかしそうにいそいそと伊波さんは御神木の前に行き、その場に座ってくれた。
彼が“そこ”に座ると、自然と涙があふれてきた。理由はわかっている。頬を伝うしずくが熱い。
伊波さんが私の涙に気づいて声をかけてくれた。その言葉ですら今の私の涙をあふれさせる理由だった。泣いてはいけないと思っているのに涙が止まらない。
「何かあったのですか!?」
私は涙を袖で拭った。涙でどれだけぬれても白い袖は白いままだった。
それでも私は彼を見るのをやめなかった。
「以前祭りのときにお話しましたよね。私には兄が二人いると。そして、一人の兄は戦争に行っていると」
「えぇ、そうでしたね」
私は話しながら彼のもとへ向かっていた。そして、そっと彼の横に寄り添うように座った。懐かしい感じがした。
「その兄があなたによく似ているんです。……ごめんなさい変なことを言ってしまって。でも、あなたを見ていると、本当に兄が帰ってきたようでうれしかった。バカですよね、私。伊波さんは伊波さんですのに。私のこと変な女だと思ったでしょう? いいんですよ、正直に言ってくださって」
私の重く、けれども投げやりな告白を伊波さんは黙って聞いていた。触れる肩から、伊波さんのぬくもりを感じる。
さぁっと少し肌寒い秋風が吹いた。それに吹かれた御神木が枝葉を揺らした。秋らしいすがすがしい空気が、音が、匂いが、私たちの周りを吹き抜けた。ひとひらの桜紅葉が彼の肩越しに落ちていくのが見えた。
そのまま時が止まってほしいとさえ感じた。このままでいたい。このまま伊波さんの返事を聞かなければ、ずっとここでこうやって過ごすことができる気がした。
紅く染まった葉の間を縫う、紅い木漏れ日を見ている私には今の伊波さんの表情はわからない。でも、勝手な妄想だが彼は笑ってくれていると思った。
けれど伊波さんの表情は私の思っているものとは違った。
「……どうして、伊波さんまで泣いているのですか?」
伊波さんは泣いていた。彼の頬を伝う涙は色がついているように見えた。
「ん? 私まで泣いたつもりはなかったのに…………わからない。でも、薫さんの話、聞けてうれしかったのは確かです」
私はそう言った伊波さんの涙を私の袖で拭った。やはり伊波さんの涙も白の袖を他の色にはしなかった。
「そう言ってもらえると本当に救われた気がします。ありがとうございます」
私は首を傾け伊波さんの肩の上に頭を乗せた。そしてゆっくりと目を閉じた。
「……しばらくこうさせてください」
伊波さんは黙って肩を私に預けてくれた。
私は話の続きをした。
「私、兄が出兵してから毎日ここに来て兄の無事を祈っていたんです。そんなある日、あなたがこの御神木の下にいた。初めは兄が帰ってきたのだと、祈りが通じたと思ったんです。でも、あなたは私の兄ではなかった。それでも兄が帰ってきたようでうれしかった………………ごめんなさい」
私の涙が伊波さんの肩に落ちた。
私のこの懺悔を伊波さんがどうとらえたかは私にはわからない。それでも、伊波さんは私の気が済むまでそのままでいてくれたことだけは確かだった。
落ち着いた私が顔を上げ、伊波さんの方を向くと肩越しに紅く色づいた桜の葉が落ちていくのが見えた。伊波さんは私の視線の先に気づいたのか背の方を見た。が、もう葉は落ちた後だった。
そのまま二人で見上げた空は夕日の色で真っ紅だった。
────────────────────
ついに俺がここに来てひと月がたった。今、渡会医師の最後の診察を受けている。
「もう大丈夫だな。傷も完全にふさがったし、また開くことはないだろう」
「ありがとうございました」
俺は深々と礼をした。最後まで多くのことを言いあったが、この人なしでは助からなかったのも事実だ。
「フン、礼ならお嬢様に言え。わしはお嬢様の命に従ったまでだからな」
「そう言うところが人として素直でないというのです」
「うるせぇ、とっととお嬢様探して来い!」
そう言われて俺は逃げるように部屋を出た。幸い、走るのにも何ら支障はない。
確か薫さんは御神木の前にいると言っていたはずだ。
俺は最後まで伝えられなかった想いを薫さんに伝えようとしている。自然と全速力で走ってしまう。
御神木まではあっという間だった。そして、薫さんはそこで待ってくれていた。
「すみません遅くなって。少し検査に時間がかかってしまって……」
薫さんの手に握られているものが剣のたぐいだとわかった瞬間、俺は薫さんに腹部をひと突きにされていた。
────────────────────
殺した。この手で彼を殺した。突き立てた宝剣から彼の鼓動が伝わってくる。
「なん……で……」
さすがに腹部ひと突きではすぐに絶命しないらしい。だが時間の問題。しばらくしたら出血多量で死ぬだろう。
この際、理由ぐらい言うべきか。
「伊波さん。あなた、米国の軍人でしょう? それも航空部隊所属の」
私は笑顔で尋ねた。これが彼の見る最期の笑顔になるだろう。
「………………」
彼は黙ったままである。痛みで何も言えないのか、答えたくないのかはわからないが、ただ黙ったままである。それでも、私がこのことを知っていることに驚いているのは確からしかった。
「どうしてかって顔していますね。まぁ、私もついさっき知ったんですけどね。ある航空部隊所属の日本兵がこの村の上空で戦闘機同士の戦闘を行ったらしいんです。演習じゃありませんよ? 米国の戦闘機との戦闘です。機銃士の彼は勇敢に戦いました。しかし、同乗者の操縦士はその米軍機の銃弾のため絶命し、彼自身も瀕死の重傷を負いました。それでも、彼はその真っ紅に染まる操縦席からなんとか脱出を試みたようでした。そしてそれは成功し、ここから村二つ分くらい離れたある民家に降りたそうです。ですが、住民が手当てをしようとしたころにはもう手遅れ、死ぬのは時間の問題だったらしいです。ほとんど意識のない中、彼はずっとうわ言のようにつぶやいていたそうです。……少し語弊があるかもしれません住民に頼みごとをしていたようです。『気をつけてください、俺とよく似た米軍兵が……気を付けてください、…………』そろそろ何の話をしているかわかってきました? この兵隊さんが民家に降りてきたのはちょうどひと月前なんだそうです。そう、あなたがひと月前墜落させた日本軍の戦闘機に搭乗していたのは私の兄。つまりはそういうことです。私は兄の敵をとったというわけです。わかりました? 米国軍人伊波一さん?」
伊波さんは納得のいった表情をしていた。そして血の気が失せていく中、彼は……微笑んだ。
「どうして、どうして笑ってなんかいるの!?」
彼に笑ってほしくなかった。どうしても、つらい思いがあふれてくる。
「薫さんこそ、せっかく敵がとれたのになぜ泣いているのですか?」
彼は、私の問いかけに答えずそう言った。
私は、答えなかった。
「そうか……なら、最期に一ついいかな?……君のこと愛s……」
最後まで言葉を継ぐことなく伊波さんは絶命した。ちょうど私を抱きかかえるようにして。
私の涙は止まらなかった。
「ごめんなさい、伊波さん。うそついて、ごめんなさい……」
ひたすらに謝った。それでも、許されることはないとわかっている。
不意に私の肩にかかっていた重みが滑るのを感じた。力が抜け、崩れ落ちかけた伊波さんの体を私は膝をついて抱きかかえた。いとしい彼の笑顔を私のもとへと引き寄せた。
「私もそちらに行きます。もし、そちらで再会することができたらさっきの言葉の続き、聞かせてください」
私は左手で伊波さんの頭を抱き抱えたまま、右手の宝剣を自らののど元に突き刺した。
視界は紅一色に染まっていった。
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