ヤダマ電気の裏手にある北斗製菓の工場は、看板も見落としそうなほどこじんまりとしていた。
コンクリート建てで築年数はそれほど古くなさそうだが、住宅と工場が一緒になっている。
一階の三分の二が工場、一階の残りと二階が住居のようだ。住居としては立派な方だが、工場としては零細の部類に入る。
工場用の出入り口と住居用の出入り口が別になっている。ミクは工場用の出入り口に向かった。
アルミの格子戸の向こうは、四畳半ほどの事務所になっているようだ。呼び鈴もないのでミクは軽くノックして戸を開いた。
小さなカウンターの向こうに、事務机が二つ。電話に出たと思われる女性と、同じくらいの年代の男性が座っていた。
戸を開ける音で二人は顔を上げた。机の上にはたくさんの伝票やら書類やらが積み重なっている。
工場を閉めるに当っての手続きに追われているのだろう。
「いらっしゃいませ。どちら様で…」
女性の方が声をかける。電話と同じ穏やかな声だ。
「初めまして、初音ミクといいます。先ほどお電話を…」
そういうと女性は嬉しそうに微笑んだ。
「あらまあ、わざわざいらして下さったんですか。あなた、さっき電話をくれたお嬢さんよ。どうしましょう、事務所にはテーブルもありませんから、どうぞ自宅の方へ…」
面識もないというのに、ミクとレンは自宅のリビングに通された。
自己紹介されて、男性が社長兼工場長の鶴田正道さん、女性は妻で事務の幸子さんと分かった。
ミクたちも自己紹介する。歌手なのだといった。
「ほう、歌手をされてらっしゃる。どうりで派手な髪の色をされているわけですな。お似合いです」
ミクやレンのような子供相手にもちゃんと敬語で話す。夫人同様温和な人柄らしい。
幸子夫人がお茶とネギ煎餅を持ってきた。ミクの眼が餌を狙う猫の眼になる。
「どうぞ召し上がってください。在庫は残りわずかなので、これが最後になるでしょう」
ミクが手を伸ばし、煎餅を一枚取る。パリっと音を立てて齧ると、香ばしいネギの香りが鼻腔を抜けていく。
「美味しい…。あたし、このお煎餅大好きなんです…」
「お嬢さん、美味しそうに食べなさるねえ。このネギは北斗産の…」
「『元蔵』ですよね」
ミクが先回りしてネギの品種を言った。社長が驚きの表情を浮かべる。
「一番作付面積が大きいのは『白羽一本太』ですけど、見た目の良い白羽より元蔵の方が、太くて香りが強いのでお煎餅に合っていると思います。よく研究されたのでしょう? こんなに丹精込めて作ったお煎餅なのに、どうして工場を閉めてしまうんですか?」
レンはびっくりした。ネギ好きなのは知っていたが、ここまで詳しいとは思わなかった。
鶴田社長も感心している。
「いやあ、お見それしました。お嬢さん、あなた只者ではありませんね。おっしゃるとおり、これは私の半生をつぎ込んで作った、大切な煎餅です。私もできれば工場を続けたいんですが、ここらへんが引き際かと…」
鶴田社長の話はこうだった。
半年ほど前に煎餅を焼く機械の調子が悪くなり、銀行から金を借りて新しいものに更新することにした。
しかし、新しい機械も入り、これからという時に、出荷の大部分を取り扱っていた問屋が突然倒産してしまった。
手形の返済期限が迫っているが、資金繰りに行き詰まってしまった。金を借りれる親類縁者もなく、工場を閉めることにしたのだ。
「じゃあ、資金繰りさえどうにかなれば、工場は続けられるんですね?」
そうもいかんのですよ、と鶴田社長は言った。
「機械の寿命ってのはだいたい同じくらいなもんですから、練り機とか包装機とかも最近調子が悪くなってるんです。それに、後を継いでくれると思っていた長男も、何を思ったかミュージシャンになるって家を飛び出してしまい、後継者もおらんのです。今回の危機を乗り切っても、いずれ設備更新のため借金しなくてはならないし、私もいつまで丈夫でいられるか分かりません。今工場を畳んでしまった方が、人様の迷惑にならないんじゃないかと…」
鶴田社長は寂しそうな表情を浮かべた。ネギ煎餅を愛しているのは、誰よりも社長自身だろう。考え抜いたすえの、苦渋の決断に違いない。
ミクにもそれは分かるのだが、こうして目の前に煎餅があると、もう食べられなくなってしまうことにどうしても納得がいかない。
「後を継がれるはずだったご長男は、お煎餅作りに携わったことはあるんですか?」
「ええ、工学系の専門学校を卒業してから、三年ばかり工場を手伝っておったのですが、若気のいたりですかねえ。ギターを買ったり、パソコンで音楽を作り出して。あいつは子供の頃から音痴だし、とても才能があるとは思えません。あなたの方がよくご存知でしょうが、芸能界ってのは、生半可な才能でやってけるようなところじゃないんでしょう?」
そうですね、とミクは答えた。
ミクには三万曲の持ち歌があり、千人近い楽曲提供者がいる。しかし、メジャーでCDを出せるのは、ほんの一握りだ。
「ご事情はよく分かりました。でも、ネギ煎餅が消えてしまうのは耐えられません。あたしにお手伝いをさせてください。不渡りになりそうな手形って、幾らなんですか?」
鶴田社長は困惑した顔をした。
「300万円ですが、初音さん、あなた歌手をなさってると言っても、そんな大金…」
ミクは紙袋から札束を鷲づかみにして取り出すと、テーブルの上にドサッと置いた。
ひい、ふう、みいと数える。ちょうど十束あった。
「他にも買わなきゃならない機械があるんでしょう? とりあえず1000万お貸しします。全部で2000万持って来てますから、必要ならおっしゃってください」
鶴田社長と幸子夫人は目を丸くした。レンはあごが外れたように口をあんぐり開いている。
CDやDVDの売り上げに伴う印税には、作詞・作曲者に支払われる印税の他に歌唱印税というのがあって、レコード会社やカラオケチェーンからは毎月相当額がミクたちに支払われている。
ミクたちはあまり贅沢をしないので、その金は預金口座に積もり積もってとっくに億を越えている。
リンとレンはまだ自分達で口座を自由にさせてもらっていないので、その額すらよく知らない。
「は、初音さん…あなた、こんな大金…。いけません、今日出会ったばかりのお方から、こんな大金はお借りできません」
喉から手が出るほど欲しい金だろうが、鶴田社長は毅然と断った。
男気がある。ミクはますます鶴田社長が好きになった。
「あたしは三年前から毎日のようにネギ煎餅を食べています。あたしにとって北斗製菓は、昨日今日知った会社じゃないんです。こんな美味しいお煎餅を途絶えさせてはいけません。後継者のことを気にされていましたが、それはあたしが何とかできると思います」
鶴田社長の目がすっと細くなった。
「正史を何とかできると…。初音さん、あなた歌手をされているとおっしゃったが、正史をご存知なのですか?」
「正史さんというお名前なのですね。息子さんのことは何も知りません。でも、ミュージシャンをあきらめさせることはできると思います。もし本当に才能がないのなら…」
ミクは真っ直ぐに彼の目を見つめた。
鶴田社長は考えた。今日あったばかりの年端もいかない娘が、私の会社を救おうと言っている。
普通なら冗談かペテンかどちらかだろう。しかし、目の前の少女は、疑いもなく真剣そのものである。
煎餅をかじっている初音さんの表情は、本当に美味しそうだった。
こんなにネギ煎餅を愛してくれている人がいる。それに報いることができなけば、私の半生は何だったというのか。
「…初音さん、ありがとう。あなたを信じます。このお金は、ありがたく借りさせていただきます。たとえ会社が立ち行かなくなっても、このお金だけは必ず返します。正史のことを、よろしくお願いします…」
☆
(後編に続きます)
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