金に糸目を付けず、十音には最先端の医療を施した。以前より悪化の速度は緩やかになったが、確実に終焉へ向かっていた。
やはり金が圧倒的に足りない。今の十音を一日延命するのに三十万ほどかかる。この段階まで来ると家族ですら諦める。医者はそう言った。
十音の父親からもらった金は底を尽きた。全てを治療に回したのに。
俺は学校を抜け出してバイトをし、独りで路上ライブを行い、ネットで募金を呼びかけた。そうして集まった数百万も、一カ月で消えた。
それでも、もう満足に動かない手でキーボードを叩き、歌を作り続ける十音がいるから頑張れた。彼女が諦めない限りは俺も負けるわけにはいかなかった。
俺は安物のスーツを買って、慣れないネクタイをしめ、都内を歩き回っていた。バッグの中には一枚のCD-ROM。中身は俺が開発した音声合成ソフトだった。
このソフトを企業に売り込んで金を得る。おそらく、腎臓が一つになった俺に残された最後の手段だった。
しかし世間は甘くない。受付で追い返されるのが基本。話を聞いてくれる会社があっても、乗ってくれるところはない。
彼らは口裏を合わせたかのように「需要がない」と理由を告げた。確かにそうだ。歌手になりたい人がたくさんいて、歌ってほしい作曲家がいて、需給のバランスは成立している。そこに機械音が割って入れる余地はない。正論だ。
「ごめん、十音。今日も売れなかった」
それでも彼女は穏やかな表情で労ってくれる。
『もういいよ。頑張らなくていい』
震える文字でそう伝えてくれる。
最近は金がなくて、かろうじてベッド代を捻出している状態。治療の類は一切行っていない。
「いや、もう少しやってみるよ。もうひと押しでいけそうな会社があったんだ」
十音は不安そうな目をして、俺の手を握ってきた。ごめんねと言いたげだった。
「そんな顔をするな。絶対大丈夫だ、俺を信じろ」
そして彼女にキスをした。深く長いキス。まだ十音が生きていることを実感できるように、唇で温もりを確かめた。
まだ大丈夫。何とかなる。二人が希望を失わない限り。
十数回目になる都内での営業。もう百数社に断られ、心が折れかけていた。
日が暮れ、残業していたフロアから漏れる光さえも消えた。これ以上の売り込みは無駄だ。俺は終電に間に合うように駅へ急いだ。
「君、ちょっといい?」
スーツを着た若い男性に呼び止められる。見たことのない人だった。
「最近、この辺で話題になってる子だよね。高瀬初君だっけ? なんか面白いもの持ってるらしいじゃん。ちょっと話聞かせてもらえない?」
それからファミレスでソフトの説明をした。彼は興味深げに聞いてくれた。
後にわかったことだが、彼は大手メーカーの音楽事業部に属する菅原という若手社員だった。菅原は野心家かつやり手のようで、誰も考えないような奇抜なアイディアを取り上げるのが好きだった。そんな彼の目にこのソフトが止まった。
それから二週間後、菅原から連絡が入る。
『喜べ坊主。お前のアイディアが採用されることになったぞ。明日の十時に契約をするから、母ちゃん連れて印鑑と通帳を持ってきな』
その話を十音にすると、嬉しそうに笑った。
菅原の話だと、契約金自体は少額だが、ソフトの売り上げ金の数パーセントがこちらへバックされる仕組みになるという。また、今後研究開発を加えるため、実際に商品になるのは数カ月から数年先になるかもしれないとのことだ。
それでも、久々に十音に薬を与えてやることができる。それ以上の贅沢は言えなかった。
翌朝、母親を連れ、菅原と担当部長を交えて契約を行った。契約金は十万円。加えて、ソフトの売り上げ金額の二パーセント。企画が没になったときの違約金は二十万円。
俺は迷わずに判を押した。
「ところで、このソフトに名前ってあるの? 開発するにも何か名前がないとさ」
菅原の問い。今まで考えもしなかった。
咄嗟に思いついたのは、俺と十音の名前を足して、
「初音――」
相手としては振り込みにしたい契約金を、無理を言って現金で受け取った俺は急いで病院へ戻った。これで中断していた投薬も再開することができる。
十音の病室へ駆け込むと、ベッドの脇に医師が立っていた。普段と違う空気を瞬間的に察知した。
ベッドに駆け寄る。眠ったように動かない十音。呼びかけに反応はない。
「先生……?」
すがる思いで見上げる。医者は目を閉じ、首を横に振った。
「十音、ほら、ソフト売れたんだ。今はまだ十万だけど、そのうちたくさん入ってくるから。だから、もう少し待ってろ」
ぴくりとも動かない。苦しそうな呼吸も今は聞こえない。
手術と投薬で満身創痍のはずなのに、十音は穏やかで美しい顔のままだった。ふと二人が出会ったときを思い出していた。
「なあ、起きろって……。日本中に十音の歌声が響きわたるのを、一緒に見届けよう……」
ここまで耐えてきたのに。あと少しでよかった。数週間なんて言わない。数時間でよかった。せめて、最期は傍にいてやりたかったのに。
「最期までマイペースな奴だな、ほんとに……」
冷たい手を握り締める。涙が止まらなかった。悔しさや哀しさ、疲れや感謝、あらゆる感情が胸を満たした。それらを吐き出すように嗚咽が止まらない。
俺を宥めるように、顔見知りのナースが背中を撫でてくれた。少し落ち着いたところで、彼女が一枚のメモを差し出した。
「十音ちゃんから頼まれていたの。その時が来たら、あなたに渡してほしいって」
そのメモは何かの暗号のようだった。
『C:¥初へ¥ありがと.WAV』
すぐにわかった。十音が使っていたノートパソコンを起動する。隠しファイルを表示すると、その場所にはたった一つのファイルがあった。
開くと、歌ではなく合成された声が流れ始めた。
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