悪食娘コンチータ 第二章 コンチータの館(パート7)

 思わず毀れた溜息は、誰もいない厨房の壁にどことなく消えていった。
 あれから一週間程度の時間が過ぎ、朝晩がすっかりと冷え込むようになった早秋の晩。ヴァンヌは心底疲れ果てた、という様子で大きな吐息を漏らした。本日の晩餐はレヴィンとリリスがどこからか手に入れた、気色悪い黒色な昆虫の揚げ物であった。その吐き気を覚える食事をしかし、バニカは大層気に入った様子で、皿をも食べんという勢いで喰らい尽くしたのである。その表情は最早狂人。食に心を失った狂人の様相を示していた。元来が純朴に成長したヴァンヌがその表情を、何処ともない場所を凝視しながら喰らい尽くすバニカに対してただ受け流すという器量があるわけもない。ヴァンヌは今一度その様子を思い起こしながら、胃の中から酸性の液体が込み上がってくるような感覚を覚えた。
 「こんな所、来るんじゃなかった・・。」
 割の良い求人に深く考えずに飛びついた自分自身を恨みながら、ヴァンヌはそう呟いた。もう逃げ出したいと思いながら、ヴァンヌはぼんやりと厨房の中央にある、老朽化の為にぎしぎしと酷い音を鳴らす木造の丸椅子に座り込んでいた。最近、自分自身の食も細った。当然だろう。毎日のように珍味と称する、食材にあらざる不気味なものを調理され続け、挙句その料理を目の前で狂人が食い尽くしている様を見続けなければならないのだから。
 「どうしよう・・。」
 四方八方塞がりきった、という様子でヴァンヌはもう一度溜息を漏らすと、ただ見るものもなく視線だけを軽く動かした。その時、不意に視界に留まったものがある。
 ワイン樽であった。
 毎晩、バニカが楽しみにしているワイン樽を見据えて、ヴァンヌはふらり、と立ち上がった。少し、酔わなければ身が持たない。ふと、そう考えたのである。途中でマグカップを手にしてヴァンヌは、少し身体を曲げて丁寧にワイン樽のコルクを抜き取った。直後に、とろとろと、ワインが毀れてくる。それをこぼさぬように受け止めながら、ヴァンヌは奇妙なことに気が付いた。
 妙な匂いがする。
 ワインはそれまでも、リリスが用意することが常であったから、ヴァンヌ自身がワイン樽を開封するのはこれが初めてのことであった。一体なんの匂いだろう。まるで何かが発酵しているような。
 ヴァンヌがそう考えた時、黒い糸がマグカップに注がれた。それも、複数が束になって。
 「何か混じっているのかしら?」
 ワイン樽へとコルクを戻して、流水の勢いを止めたヴァンヌはマグカップに浮かぶ黒い糸をまじまじと眺めた。それはどうやら、髪の毛である様子であった。ワインの製造中に、何らかの間違いで混ざったのだろうか。ヴァンヌは第一にそう考えた。もしかしたら、他にも髪の毛が入っているかも知れない。そうなれば流石のバニカも極度の怒りを示すかもしれない。瞬時にそう考えたヴァンヌは、力いっぱいを込めて、ワイン蓋へと手をかけた。女一人の腕力でワイン蓋を開けることは相当な労力が必要ではあったが、どうにか僅かな隙間を造り、そして。
 悲鳴。
 金切り声よりも鋭く、自身がこんな大声が出せたことをどこか冷静に驚く程度に。夜の闇を突き破るように、強く。
 「見てしまいましたね。」
 背後に、冷たい声が響いた。季節からは少し早く感じる、凍結した氷河のような声に今一度悲鳴を上げかけ、ヴァンヌは振り返る。そこにいたのはレヴィンであった。
 「今見たことは忘れてください。その方が、貴女の為です。」
 悲鳴を途切らせ、ただ絶句する以外の方法を持たないヴァンヌに向かって、レヴィンが言葉を続けた。
 「レ、レヴィンさん、こ、これ・・!」
 漸くヴァンヌが搾り出した言葉に、しかしレヴィンは軽く鼻を鳴らしながら、事務的な口調で答えた。
 「裏切り者は、そうなります。」
 その時のレヴィンの瞳を、ヴァンヌはきっと、一生涯忘れることが出来ないだろう。
 その瞳は、バニカと同じように、ただ一点、狂気だけが支配していたのだから。
 
 どうしよう、どうしよう。
 レヴィンの冷たい言葉が、今も脳裏に響き渡っている。頭の内部が痺れるような感覚を拭うことが出来ないままに、ヴァンヌは頭から被ったシーツの端をきつく、千切れるほどにきつく握り締めた。厨房仕事を終えて、自室に戻った後、ヴァンヌはそのまま、夕食を食べる気力すらも失ってベッドの中に潜り込んだのである。当然、ワインはそのまま捨てた。
 このままじゃ、私もあんな風に。
 ワイン樽の中に沈められた、初めに眼に入ったものはワイン樽一面に浮かび上がる髪の束。そしてその奥、きらりと光るものは瞳。生気を失った、アルコールにふやけて皮膚が膨れ上がって崩れた、人間の、顔。
 思わずほろり、と涙を零しながら、ただヴァンヌは恐怖にその身体を身震いさせた。あの人が誰なのか、どのような関係者であるのか、それは分からない。だが、レヴィンが気に喰わない何かを、あの人はしてしまったのだろう。だから、殺された。もしかしたら、私も?
 逃げなくては。
 そう、考えた。いつまでも布団に篭っている訳には行かない。もしかしたら、ワイン漬けの死体を目撃したことで、レヴィンはすでに自分を殺すために策を練っているかも知れない。そう考えるともう、止まることができなかった。ばさり、とシーツから飛び出し、ベッドから降りて靴を履く。そのまま、物音を立てぬようにそろりと、窓際へと近付いた。明かりを消した部屋に、ただ月明かりだけを頼りに、ヴァンヌは歩く。そして窓に近寄り、静かに、手を伸ばした。
 ざわり、と物音を感じてヴァンヌは心臓が硬直するような感覚を覚えた。そのまま、背後を振り向く。大丈夫、誰もいない。風でも吹いたのだろう。そう考えて、喉から飛び出してしまいそうな恐怖を、大きな呼吸と共にヴァンヌは飲み込んだ。もう一度、大丈夫、きっと見つからない。そう信じて、ヴァンヌは硝子窓を開けた。さび付いた鉄枠がぎしり、と唸り、その音にヴァンヌはもう一度神経を氷点下にまで冷やすことになった。そのまま、耳を済ませる。僅かな、些細な音でも聞き逃さないために。大丈夫、聞こえる音は木の葉が擦れる音と、秋虫が鳴く、少し不気味な音色だけだ。
 もう一度、ヴァンヌは呼吸を整えた。落ち着いて、ヴァンヌ。
 そう自らに言い聞かせてから、ヴァンヌは窓から外を覗き込んだ。この場所は二階にある。飛び降りるには、僅かながら位置が高すぎる。もし飛び降りて、脚でも挫けば最悪だ。逃亡の意図を疑われれば、どのような処分を受けるか、わかったものではない。
 多分、私もワイン樽に。
 そう考えてヴァンヌは、心の奥底から身体を奮わせた。失敗は許されない。縄でもあれば、と考えてヴァンヌは背後を振り返った。縄の類は部屋にはない。屋敷の何処かにはあるのだろうが、今自室を出ることはそれこそ自殺行為だ。考えて、ヴァンヌ。
 シーツ。
 そうだ、シーツを細かく切って、強く結べばいい。幸い、体重は軽いほうだ。多少の不安はあるものの、降りるだけなら手助けになるだろう。ヴァンヌはそう考え、先程まで自らが包まっていたシーツと、裁縫用にと持ち込んでいた鋏を手に取った。視界が悪い上に、恐怖に震えているものだから真っ直ぐに鋏を動かすことができなかったが、ただ降りるだけの道具にするならば上等だ。結局、ヴァンヌはシーツを縦に四分割して、先端同士をきつく、何度も確かめながら片結びに縛り付けた。そうして出来上がった、縄状のシーツをヴァンヌはもう一度、左右に強く引っ張る。長さは四メートル程度にはなっただろうか。なんとか、地上まで届くだろう。ヴァンヌはそう考え、一方の端をベッドの脚に括りつけた。同じように硬く縛り、何度か両手で引っ張る。解れる様子が見えないことにヴァンヌは安堵し、ベッドから伸びるシーツ紐を窓の外からするり、と垂らした。そこでもう一度、ヴァンヌは周囲を見渡した。窓の外から顔を出し、誰か見ている者がいないか、慎重に確認する。ここで見つかったら最悪だ、間違いなく、ワイン樽行き。
 大丈夫、誰も見ていない。
 それを確認すると、ヴァンヌは身の回りのものだけを簡単にポーチにまとめて、肩にかけた。ぎゅ、とポーチを握り締めて覚悟を決めると、その華奢な身体を動かして紐にぶら下がる。手を離した瞬間に大怪我、打ち所が悪ければ死ぬかも知れない。シーツを握った両手に汗がにじむ。額にも、びっしりと。ゆっくりと壁に足をつけて、ヴァンヌはその身体の全てを私室から押し出した。ぎしり、と嫌な音が鳴る。紐が解けないだろうか。改めて恐怖を覚えながら、ヴァンヌはゆっくりと、足先で壁を上手く使いながら、降りていった。
 途中でシーツが解けたら、どうなるか。
 思わずそう考えて、ヴァンヌは一度、顔を上空に上げた。降りる手も止めて、じっと静かに、上空に注視する。
 大丈夫、解ける気配はない。このまま、このまま。ゆっくりでいいから。
 シーツの長さがほんの少し不足していたため、最後は半メートル程度飛び降りることにはなったものの、軽い衝撃を感じただけで無事に地上に着地したヴァンヌは、そのまま正門に向かって駆け出した。幸い、この館には衛兵の類は存在していない。スムーズに屋敷の敷地外へと出たヴァンヌは、ここでどうしようか、と考えた。近くにいては危険だ。とにかく、誰か、信用の置ける人物に救助を。
 その様な場合に、ヴァンヌには的確な避難先を持ち合わせていなかった。だから、ヴァンヌがとった行動は、この場合、唯一の選択肢であったのだろう。
 王都へ。
 王都へ赴き、国の偉い人に訴える。
 それしかない。ヴァンヌはそう考え、闇の中たった一人、自身の危険を顧みることなく、駆け出していった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

小説版 悪食娘コンチータ 第二章(パート7)

みのり「ということで、第七弾です!」
満「漸く話が動き出したな。」
みのり「もう少しコンチータ様の場面が続くけどね!」
満「ということで、この場を借りて少し宣伝。」
みのり「この度、レイジさんがオリジナル小説の連載を開始しました!ピアプロでは規約上投稿できないので、TINAMIとpixivの二つのサイトで投稿しています。都合の良いほうで見てね!」
満「『黒髪の勇者』という題名だ。異世界ファンタジーといえばいいのかな?地球人が異世界に飛ばされて・・という、まぁ、ありがちなストーリーだな。」
みのり「URLは下に書くので、良かったら一度覗いてみてください!それでは次回もよろしく!」

URL『黒髪の勇者』
TINAMI版→http://www.tinami.com/search/list?prof_id=31591
pixiv版→http://www.pixiv.net/member.php?id=1729060

閲覧数:241

投稿日:2011/10/01 10:28:52

文字数:4,036文字

カテゴリ:小説

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