パパ、ママ、ありがとう。
そして、ごめんなさい。
もう、こんな家には、一秒も居たくない――。
短い手紙を残し、私は黒いコートを羽織って、外に出た。
真夜中とはいえ、もう春だから、そこまで寒くはないのだけれど、体中の傷跡を隠すためには、コートが必要不可欠だった。
最後に一度だけ、パパとママの眠る家を振り向き、私は真夜中の町を一人、走り出した。
* * *
小さな頃から、夜が来るのがずっと怖かった。
だって、昼間は優しいパパとママなのに…。
なのに夜になると、昼間私を優しくなでてくれた手で、私を殴る。
夜の間だけはパパとママがすごく憎らしかった。
死んでしまえとも思っていた。
でも、朝を迎えるたび、涙を流しながらごめんねと謝ってくるパパとママを、どうして恨んだり、憎んだりできるだろう。
それでも、そんな夜と昼のギャップに長く耐えられるはずもなく、私の神経はゆっくりと、けれど確実に、ずたずたに切り裂かれていった。
そんなときに出会ったのが、「きみ」だ。
私は「きみ」の名前を知らない。
教えてもらったのかもしれないけれど、今ではどうしても思い出せない。
けれど、あのやわらかい微笑みと、昼でも夜でも私を優しく慰めてくれていた手のひらは、しっかりと記憶にのこっていた。
毎日、毎日、昼でも夜でも、時間を問わず遊んだ。
遊ぶのはいつも、私達が『神様の木』と呼んでいた、大きな桜の木の下。
パパとママに殴られて逃げてきた日はいつも、優しく慰めてくれて、「きみ」に、『大丈夫だよ』と言われた後は、安心して家に帰ることができた。
「きみ」さえいれば、夜のパパとママが優しくなくても、私は我慢することができた。
なのに、私の十歳の誕生日――満開の桜の日に、きみは、遠くへ行ってしまった。
幼い私は、「きみ」が何処かへ行ってしまうなんて、前日まで全然理解してなかったから、いつものように遊んだ後、哀しそうに私を見る君の顔を不思議に思っていた。
『ねぇ』
幼い私が、舌ったらずな声で、「きみ」に話しかける。
『何?』
優しく聞き返してくれた「きみ」は、たぶん私よりも少し年上だった。
『どうして、そんなかおしてるの?』
『そんなかお?』
『うんっ――えーと、えーとねえ、なきそうなかおしてるの』
そういうと、きみはやっぱり哀しそうに微笑んで、それから、
『ゴメンね』
といった。
『どーしてあやまるのっ』
『…僕はもう、ここにはいられないから。遠くに行っちゃうんだよ、――わかる?』
ふるふると首を横に振る私。
『わかんない。わかんないけど――いなくなっちゃうのは、いや』
泣き出す私に、やわらかく微笑んで、君は言った。
『大丈夫。ちょっとの間だけいなくなっちゃうけど――おとなになったら…そう、僕ときみが大人になったら、また会えるから。そうしたら、ずっと一緒にいよう』
そのときだけ、きみの頭の上ではらはら散る桜の花びらがすごく綺麗に見えて――。
『おとなって、なんさい?』
『ええっと…20歳くらい、かな』
『やだっ。あと10年も会えないなんて、いや』
『ええ――それじゃあ、……14。あと四年だけ、我慢して。四年後の、今日、「桜が咲く前の晩」――あの、神様の木の下で待ってる』
『――うんっ。分かった!』
あれが、君と交わした最後の約束で、最後の会話で、私の最後の笑顔だった。
* * *
あれから四年。
あたしは昨日で14歳の誕生日を迎え、今、あの『神様の木』へ向かっている。
「っ!」
森の中を突っ切っていると、何かの木の根につまづき、転んだ。
頬がぱっくりと裂け、血が滲む。
けど、こんなもの、体中の傷に比べたら、痛くも痒くもない。
と、周りの空気が急に密度を増し、冷たくなった。暗い闇が容赦なく牙をむく。
怖くて足が震える。
誰もいない夜の町に一人だけだと、町中の人間に置いてけぼりにされたような感覚に襲われる。
でもたとえ、ここで引き返したって、何も残らない。
私は、自分の笑顔を、幸せを、きみを、取り戻しに行くんだ。
立ち上がると、私はもう一度駆け出した。
もうすぐで、もうすぐで、たどり着く。
もうすぐで、何もかも、終わるんだ。
君と一緒なら、なんだってできる――。
私を傷つけた、あの家も、この町とも、お別れ――。
道路を横切る。
目の前に、神様の木があった。
星が、輝いていた。
月が、綺麗だった。
――さくらが、咲いて、いた。
あなたは、
いなかった。
「…そりゃ、そうだよね」
熱い液体が頬を伝い落ちてきた。
「いるわけ、ないよね…」
「もう、いいよ」
最初から分かってた、そんなこと。
どこにも、いけないと。
体中から力が抜ける。
「…は、ははっ」
乾いた笑いは、子供っぽく夢を見ていた自分を哂っていた。
家へ、帰ろう。
帰らないと。
パパとママが心配している、なんてことはありえないけれど、結局、助けは来なかった。
そういうことだ。
それに、「きみ」も言っていた。
おとなになったら、また会おうって。
おとなになるとは、現状を見つめるとか――こういうことなんでしょう?ねえ?
もと来た道を振り返る。
遠くの方に、私を傷つけたあの家の明かりが、見えた気がした。
* * *
「…ただいま…」
ドアを開けると、鈍い音が響いた。
またパパとママが喧嘩してるのかな。
そして、私はまた、殴られるのかな。
ぼんやりとした頭で考える。
けど、予想は外れた。
「な、なんなんだ、お前は…っ!!??」
殴られるパパと、
「やめて、やめてええええええ!」
悲鳴を上げる、ママ。
――大人になったとき、助けに来るから。
「……ウソ」
きみの、優しい声が響く。
「おかえり」
それは記憶の中じゃない、現実に響いた声だった。
大好きな笑顔が、
私の手をとった。
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