その日は顔が綻ぶのを抑えられそうになく、できるだけ父さんと顔を合わせないように過ごすことを心がけた。僕は嘘が下手で、どうやら顔にも正直に出やすいらしく、気分が高揚した今の状態ではとてもじゃないが誤魔化しきれる気がしなかったのだ。期末試験が近いから勉強すると伝えて部屋に篭り、ようやく安堵できたほどに自信がない。
「父さん、変に思わなかったかな……」
気にはかかるが、父さんも大概大ざっぱな人で、ちょっとしたことならまるで無頓着に振舞うから、おそらく大丈夫だろう。そんな父さんにさえも看破される僕が、どれだけ情けないか考えるだに落ち込んでくる。アンチ秘密主義というわけでもないはずなのに。
とりあえず父さんに言った手前、実際に勉強を始めようと鞄を開けた所で、はたと思い浮かんだことがあった。そこでまだ着たままだった制服から、高校に入ってようやく持たせてもらえるようになった携帯を取り出す。普段滅多に着信はないし、こちらからかけることも稀な、機種だけ数世代前の真新しい携帯だ。
「明日、姉さんに携帯の番号とアドレス聞いとこう」
姉の名前をアドレスの一部に入れているから流石に恥ずかしいが、今更変更するのも面倒だし、正直変えたくない。このままで姉に……笑われないだろうか。それだけが不安の種だ。
まだ電気はいいだろう、と卓上スタンドだけ点けて取り出した教科書を広げる。窓から見える冬の景色はどこか物悲しく、何だか姉の横顔と重なった。夏の太陽の化身にも思えた昔の姉は、一体どこへ行ってしまったんだろう。勉強を進めていた僕だったが、いつの間にか別の方へと気が逸れていってしまう。
「あとは――そういえばあれ、どこにやったかな……」
そうして僕の意識は、目の前の教科書から徐々に過去の回想へと陥っていった。
『……そうだ。ねえ、レン』
『……なぁに?』
『レンが、あたしがいなくなっても寂しくないように、これあげる』
『これ……いつもリンがしてるリボン。大切なものなのに、いいの?』
『白いリボンなら他にも持ってるもの。だから、あげる』
『……うん。ありがとう』
『……じゃあ。今度こそ、行くから』
『……うん』
『あたしのこと、忘れたら承知しないんだからね!』
『うん。リンも、僕のこと忘れないでね』
『忘れるわけないじゃない!……バイバイ』
『……バイバイ』
「……おい、レン。こんな所で寝てたら風邪引くぞ」
出し抜けに響いた声でびくっと起き直ると、半開きの扉に軽くもたれるようにして父さんがこちらを見つめていた。
「勉強にしろ何にしろ、根を詰めすぎると元も子もなくすぞ。お前は昔から、やると決めたらとことんやるからなぁ。真面目に育ってくれたのは嬉しいが、程ほどにしとけよ」
「あ……父さん。まだ、仕事行かなくていいの?」
今が何時か、目蓋の裏の暗闇から復帰したばかりの僕には、卓上スタンドの光すら眩しくてなかなか読めない。居間からの明かりに照らされた父さんは、何かに気付いたような顔をして部屋に入ってくると、僕が何とか視界を回復しようと目をこする隣に立ち、所感を述べた。
「何だ、レン。泣いてたのか」
その盛大な勘違いに、僕は思わず声が裏返りそうになりながらも否定した。
「え……!?う、ううん、違う違う!ちょっと居眠りしてたら、何か夢見ちゃって……。悲しいっていうんじゃなくて、懐かしいっていうか……。だから、泣いてなんか――」
言葉を重ねれば重ねるほど、ますます胡散臭くなって説得力がない。父さんも同じ気持ちなのか、気にしていない風情ながらも追求してこようとする。
「へぇ……どんな夢を見たんだ?」
「えっと……どんなのだったっけ」
夢の内容をどうにか手繰り寄せ、羞恥の誤解を払拭しようと必死に頭を回転させる。そして浮かんできた情景をそのまま言葉にした。
「リンと別れる時の夢、だったかな……」
その時、僕の意識は思い出すことに集中していたから、口にした内容を吟味するのにしばしの時間を要した。その間に父さんの表情が苦いものに変わり、僕がしまったと感じる隙もなく改まった口調で答えを返してくる。
「……そうか。済まなかったと思ってるよ。お前にも、勿論リンにも。出来ることなら、両方を引き取りたかった。でもお前たちの母さんがそれでは一人になってしまう。俺も、お前たちの母さんに二人とも託してしまえば一人になる。だから、こうして姉弟を引き離すことになってしまった――。大人の身勝手に巻き込んで、本当に悪かった。いくら謝ったところで、贖えるはずもないが……」
目を伏せる父さんに、僕の方が面食らってしまった。僕はそういうつもりで言ったわけではない。もうそのことについては何とも思っていない。姉に会えたからというわけではなく、父さんも父さんなりに一所懸命だったことに気付いたからだ。今のこの状況は、まるでかつての再現だ。泣いて責める僕と、怒りもせずひたすら謝り続ける父さん。進んで悪者であろうとするように、叱責されることを受け入れていた――。
僕が言葉を発せずにいると、父さんの方から話題を戻した。ぎこちない感じはなく、大人は違うなとこんな時に実感させられる。
「とにかく、もう今日は休め。ちゃんとベッドで寝るんだぞ。俺はこれから仕事に行って来る。晩飯は昨日のカレーの残りがあるから。じゃあ、後は頼んだぞ」
「う、うん……。いってらっしゃい……」
僕の方がよっぽどぎこちない。謝りたい衝動を必死にこらえて、僕は父さんを見送った。その背中を見て思い返す。父さんをただただ責めたてていたのは、本当に幼い頃だけだ。少し大きくなると、つい詰ってしまってもその後で我に返り言い過ぎを詫びた。そんな時、父さんは怖い顔でこちらを睨んだものだ。僕が言い募っている時にはそんな様子は微塵も見せないのに、少しでも弱気な素振りを見せると即座に指摘された。
幾度も告げられることになる主張ではあったが、その初回を僕は今でもはっきりと思い出せる。九歳の僕に、父さんは今までになく怖いくらいの真剣な顔で対した。それなのに、口調はあくまで静かに、諭し聞かせるようだったことも。
『どうして謝るんだ?お前に悪いところは全くない。悪いのは父さんや母さんだ』
『でも、僕、言い過ぎちゃったから……』
『お前にはその権利がある。悪いと思ったら、嫌だと思ったら、そうやって感情を剥き出しにしていけばいい。それを許せるのが家族なんだ』
『父さん……』
『赦さなくていい。認めなくていい。ずっと恨んでくれて構わない。ただ、自分を誤魔化して阿(おもね)るようなことはするな』
『……』
『……いいか、レン。自分に悪いところがないのに、意味もわからず謝るような男にはなるな。たとえ周りの人間がお前に反対したとしても、それが正しいと思うならお前はそれを貫き通せ。父さんは――……俺は、そんなお前を出来る限り支えてやる』
その日から、父さんは自分のことを“俺”と言うようになった。これまでは“父親”であるために懸命だったのを、一人の男として僕を認めようとしてくれている。それをどこかで感じて嬉しかったから、言葉の意味はきちんとわかってなどいなかったものの、こうして覚えているのだ。
『まあ、お前はわかってるよな』
そして父さんは決まってそう付け加えると、手荒く僕の頭を撫でたものだ。跳ね除ける力がなかった時も、その力をつけた後も、僕はその手だけは決して振り払う気にはなれなかった。照れ臭さと誇らしさがミックスされたむず痒い感覚が、度々同じ会話を繰り返してしまう反省に勝っていた数年間。無論意識はしていなかったが、もしかしたら僕は望んで父さんとの問答を続けていたのかもしれない。
ちなみにその手は、そんな己の甘えを克服した今でも時々登場する。大抵は僕がつい父さんのだらしなさに声を上げ、そこまで怒鳴ることでもなかったかと反省した際に出てくるものだ。方向性が何だか子ども扱いの方に流れている感も多々受けるが、僕にとっては尊敬する“父親の手”である。それは僕の中で“男の背中”と同じくらい感銘ある位置づけだった。
「……僕も、早く大人にならないと」
昔は、泣き虫と弱虫が改善すれば自然と大人になれるものだと思っていた。今では、それだけじゃ足りないことが何となくわかる。もっと抽象的で、大切な何か。それを自分のものにしなければ、父さんのような大人の男にはなれないのだろう。
「まずは……自分を貫くって所から、かな……」
あまりの難敵に、僕がまず取った作戦は非常にわかりやすいものだった。
「……まずは腹ごしらえが大事、大事」
腹が減っては戦は出来ぬ。これから長い間戦うことになる宿敵に、逃げの一手から入るのが僕流だ。……なんて、全く誇れることじゃないけど。少しずつ変えていけばいい。今は姉だっているのだから。そう自分を慰めつつ、僕の思考は晩ごはんへと移行していった。
(続く)
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