41.ネルの意地
ネルとハクは王宮を出て夜の町を走っていた。
「ネルちゃん、ネルちゃん……待って」
ハクの足がもつれ、ネルがもどかしげに引っ張る。
「何よ! 急いでどこかに隠れないと! 黄の国の軍が押し寄せてくるわよ! 」
「待って! 」
強くハクが引っ張り、ネルはつんのめるように振り向く。
「何よ! 」
「ミク様が! 」
ハクの叫びに、ネルはたしなめるようにその肩を抱いてやる。
「大丈夫よ。だって、ミク様だもの」
「大丈夫なわけ、ないじゃない! だって……だって」
「お黙り! 」
ネルがぴしゃりと言い切った。
「あなた、死にたいの? ミク様は、あたしに、あなたを頼むって言ったのよ? それなのに、ハク本人は王宮に戻って死にたいってわけ? 」
ハクが唇をかみしめてうつむく。
「……いい? ミクは女王なの。あたしはその家来。そしてあんたは、凄腕の刺繍職人。
ミクは王宮で踏ん張って、あたしはその命令を忠実に聞いて、そしてあんたはこの騒ぎが収まったら刺繍を作るのが役目。
いい、あんたは戻っても、何もできない。役割を、間違えるんじゃないわよ」
「う……」
目にいっぱい涙をためたハクが、ネルのほうに一歩歩み寄る。ネルはよろしいとばかりにうなずいて再び手をとり走り出す。
「出来るなら、あたしの方が戻りたいわよ」
ネルが走りながらつぶやいた。
「あたしが、黄の女王をあの場に連れてきた。……あたしが、もっと早く、奴らのたくらみに気づいていれば……」
前を走るネルの顔は、ハクには隠れて見えない。
「大概情けないのは、あたしのほうよ……」
ハクは、もう戻りたいとは言わなかった。ただひたすらに、ネルに合わせて走った。
夏は終りに近づき、長い夜の夜明けは何倍にも遠く感じられた。
あたりはまだ暗いが、ネルとハクは王宮を丘ひとつ遠ざかり、郊外の村まで逃げてきた。
「ここまで来れば……大丈夫かしらね」
しばらく郊外に隠れて黄の軍をやりすごし、そのあとどうにか港に抜け、青の国まで亡命する。これがネルの計画であった。
「この村はもう、海に近いわ。山側にいるよりも、いざとなったらいくらでもやりようがある」
ところが。
ネルが村の中心部にさしかかったとき、ネルは驚いた。鍬や鎌、鋤やわずかな刀剣で武装した農民たちが、物々しく警戒していた。
「ネルちゃん……」
ハクが不安気にあたりを見回す。
「とりあえず、……あまり余所者が近づける雰囲気じゃないわね」
緑の国は湾を抱え、山に三方を囲まれ、その外側は黄の国だ。山寄りの王宮の町が黄の軍に襲われた知らせが届いているのだろう、その警戒は尋常ではなかった。
「……すこし様子を見ようか」
本来なら王宮の町から逃げてきたと言ってかくまってもらうつもりでいたネルだが、
「不安に駆られた人の集団は何をするか分からない」
密使として他国の町にまぎれこんで、さまざまな情報を集めていたネルにとっては、人が集団で人を疑うときの質の悪さを、体で知っていた。
「あたしとハクの髪は緑じゃないからね。面倒は避けたいわ。ごめんハク、今日は野宿になるよ……でも念のため、しっかり隠して」
ハクもうなずいて、目深に上着のフードをかぶりなおす。そっと村の中心部を離れようとしたその時、ネルたちの来た道から馬が一頭走りこんできた。
「情報だ! 」
馬に乗った男が叫んだ。
「ミク女王が死んだ! 」
「えっ! 」
思わず声を上げたハクに、集まっていた村人が全員振り返った。
ネルがとっさにハクを背後にかばう。袖にこっそり、相棒の鷹を呼ぶ笛を忍ばせた。
「おい、あんたら」
村人の一人が、鋤を片手にネルとハクに歩み寄った。
「このあたりじゃ見かけない顔だな」
ネルがうなずいた。
「……あたしたちも、逃げてきたの。王都も王宮も、ひどい状態よ」
ネルの言葉に、ハクもうなずく。村人の注目が集まった。
「このあたりは、初めてかい」
ネルは首を振った。
「いいえ。港に行くときに、たまに通ったわ。果物の季節なんかにね」
村人たちが、一歩、ネルたちの方へ近づいた。武器の輪が一段狭まった。
「……あんた」
村人の一人がハクを指さした。
「髪の色、緑じゃねぇな」
ぎょっとハクはびくついた。ネルが声を通す。
「し、知らないの? この子、王宮の街では有名よ? 布織りの町ヨワネから来たハク。刺繍がすっごく上手いんだから」
知っているぞ、と馬に乗った男が地面に飛び降りて、ハクに歩み寄った。
「その腕前で女王のお付きになったんだよな」
「そうそう! 」
ネルがほっとしたようにうなずいた。ハクもほっと笑みを漏らした瞬間、男の腕がいきなりハクを殴り倒した。
「あっ」
ハクが思い切り地面に倒れこむ。
「ちょっと! 何するのあんた! 」
「じゃあなぜここにいる! 女王を守らなかったのか! 」
ハクの背がガチリと固まったのをネルは見た。
「ミク様があたしにハクを守って逃げろって言ったのよ! ハクは、緑の国の宝だからって! 」
「貴様もか! 」
男の手がネルに迫った。ネルは身を翻して一撃を避けた。男も一旦引く。そして叫んだ。
「貴様も、女王のおつきのくせに、女王を見捨てて逃げたんだな! しかも、こんなに早く、こんなところまで! 」
……違う!
ハクの悲鳴が高く上がるのと、村人が一斉にネルに襲いかかるのは同時だった。
「見ろ! この女、黄色い髪だぞ! 」
「いやあああ! ネルちゃん! ネルちゃあああん! 」
ハクが叫ぶ。ハク自身も、人の足に蹴られ、突き飛ばされ、ネルの姿さえ見ることもままならない。
「まさか、黄の国の間諜か! 」
「いやあああああ! 」
ハクの悲鳴が響き渡った。
「違う! 違うの! 私、ヨワネのハクよ! 本当よ! ネルちゃんは、私よりずっと前からミク様と仲が良かったわ! 」
何とか立ち上がったハクの背を誰かが小突いた。よろめきかかったところに、腹を強く何かで突かれた。
「うあッ! 」
再びハクは地面に倒れこむ。砂の味が切れた唇の端から口に押し込まれ、顔を上げようとしたところで誰かに頭を踏みつけられた。
集団はすでに何も言わない。夜明け前の暗い闇の中から、無数の腕と足がハクを蹴り、ハクを殴った。
「やめて、違うの、ネルちゃんは本当に緑の国の人よ! 」
ハクの声は弱く、その声もすぐに背中から踏まれて肺がつぶされ途切れる。
「助けて、誰か、ネルちゃんを、助けて……」
不安に駆られた人の集団ほど、質の悪いものはないわ。
ネルはそのことをよく知っていた。ミクもだ。ネルの外国で出会った話、ミクの国王候補者の学校生活の話を、ハクもよく聞かされた。
「まったく、人は一人だけなら優しいかもしれないけれど、集団になると本当に恐いわ」
でもね、そういうもんなのよ、知っておくと、意外とうまくやれるわ、とミクもネルも笑って言った。
「……私が」
ハクの声が弱々しく響く。
「私が、あのとき、悲鳴を上げなかったら」
ミク様が死んだ。
そのことに、驚きさえしなければ。
でも、どうして、驚かずにいられよう。
どうして……取り乱さずにいられよう?
ぐっとハクの髪がつかまれた。うつぶせに倒れていたハクの体が、上体だけ引き起こされる。
腫れた目の端に、真っ暗な夜空と、降りあげられた鍬を見た。
そして、重い鉄の刃物が、まっすぐにハクの顔をめがけて振り下ろされようとした瞬間、
ピィ――――――ィ、と鋭い笛の音が響き、「うわ」という男の悲鳴が重なった。
ハクの体が再び重力に引かれて地面に落ちる。
「うわっ! 何だこの鳥! 痛! つ、爪にひっかかれた! 」
バサバサっと大きな茶色の鳥が羽ばたいて、ハクの周囲の人間を襲っていた。
「ネルちゃんの、相棒! 」
翼に追われた人間が顔を覆って逃げ出したそのとき、鳥がまっすぐにハクに向かった。
そして、どうにか立ち上がったハクの後頭部をくちばしで小突いた。
「!」
これは。逃げろと言うことか。
村人が近づこうとすると、鳥は再び荒っぽく羽ばたく。そして、ハクの頭をせっつく。
ネルの姿は、人に囲まれて見えない。土埃と悲鳴とさらなる罵声と、何かを蹴飛ばし殴りつける音が聞こえてくる。
「ネルちゃん……」
「このっ」
気づいた時には、闇の中から男がやみくもに振り上げた鎌が迫っていた。
「っ! 」
ハクがとっさに抜いた短剣が、男の鎌を奇跡的にはじいた。
高い金属音にはじかれたように、ハクは全速力で走りだした。それをネルの相棒の鷹が追う。
村人はハクを追いかける鳥を恐れて、ハクには近づいてこなかった。
ハクは必死で来た道との反対方向、ネルが目指した海へ抜ける道を走った。
痛む足は、止まることを許さなかった。腫れた顔と瞼は、泣くことを許さなかった。
ネルの相棒の鷹は、ハクをどこまでも追いかけてくる。
ハクはひたすらに鷹に追い立てられて未明の道を走った。
いやあああ、痛い苦しいやめて、死んじゃう。
ネルは叫び続けた。胸と腹と背中、顔と足と手首。体のすべての場所で痛みが白く爆発する。髪を引っ張られ束でもがれた。激痛に喉から聞いたことのない悲鳴が走り出た。
その中で、ネルは相棒の鷹を呼ぶ笛を咥え、吹いた。一番闇の濃い時間帯だというのに、相棒はすぐさまやってきて、ネルの命令に従った。
「ハクを守れ」
言った瞬間、ネルは後悔した。
「痛っ! やだ、苦しい、いやあっ! 」
先ほどとは比べ物にならない衝撃がネルを襲う。ハクを襲うことを鷹に邪魔され、いらだった者たちがネルに向かったのだ。
足や手で殴るとは段違いの、農具の柄での攻撃が始まる。
「苦しいよ痛いよ助けて、助けて、」
人間の足の林の向こうに、ハクの白い姿が鳥に追われていくのをネルは見た。
「まって、ハクちゃん! あたしも……
バカ、ばかばか、あたしを、置いて行かないでえええええっ……!!」
思い切り絶叫したそのとき、ネルは髪をつかまれ引き起こされ、がつんと重い衝撃を受けた。
「……」
ネルの体が、地面に落ちた。固く石ころだらけで冷たい筈の地面が、まるで暖かなベッドのように感じた。
違うの、ハクちゃん。
薄れゆく意識と、依然収まらぬ激しい痛みの中で、ネルは思った。
さっきのは、嘘よ。
ネルの口が、ふわりと笑う。
ちょっと、余裕が無かっただけなのよ。本気にしないでね?
地面につけた耳に、太鼓のような音が響いてきた。
大勢の人と、馬だ。海の方からやってくる。
そして、自分の周りにいた足音が急速に遠ざかるのを感じだ。
よかった、誰かが迎えに、来てくれた……
「セベク隊長! あれを見てください! 」
朝日に照らされて、黄の国の一部隊、セベクの率いる隊が村の中の道を進んでいた。小さな広場の真ん中に、古い雑巾のような塊が落ちていた。
「なんだ、ありゃ……」
試しに歩兵に石を投げさせる。何の音沙汰もない。
「本当にただのゴミのようだな」
行軍の真ん中にある障害物をどかそうと、先頭を行く隊長騎の両脇から二人の兵士と一人の騎馬兵が走り出た。
「うわ! ひ、人だぞ! 」
その物体を引き起こした人間の顔が歪んだ。
「! こいつは」
セベクが馬から降りた。そして、裏返されたその物体を受け取った。
「……お前は、緑の国の使者じゃないか……」
手足は裂かれ、腹はへこみ、ちいさな顔は見る影もなく腫れ上がっているが、乱暴に刻まれた金色の髪は、たしかに、セベクの知る者だった。
セベクは無言で背のマントを外し、そっとその者の体を包んだ。
「……不運だったな。おい、適当なところまで運んでやるぞ。丁重に扱ってやれ! 」
兵士が沈痛な面持ちで、隊長の紅いマントに包まれたその体を受け取り、荷車の空いた場所に乗せた。
そして、セベクは静まり返った村を見回し、部隊に向かって声を張った。
「この村で、接収を行う! ……不安に駆られて無実の人間を殺す集団だ、食糧も武器もきれいに召し上げることが我々の今後の危険を減らすだろう!」
わあっと声が響く。
「ぬかるなよ! 」
隊長の一声とともに、部隊が小班に分かれて散った。
建物の扉を叩く音と村人の悲鳴と非難を、セベクは黙って受け止めた。
未明の闇の中でハクとネルの血を吸った広場が、嘘のように太陽に照らされていた。
続く!
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ご意見・ご感想
Aki-rA
ご意見・ご感想
初めまして。
悪ノ娘と呼ばれた娘、5日かけてゆっくりじっくり全て楽しく読ませていただきました。
今回はネルが逝ってしまわれましたね‥(ネル好きなんで余計に涙が‥)
黄の国の行く末とハクのその後が気になる所存です。
これからもよろしくお願いします。
2010/11/17 07:32:25
wanita
>朔夜さま
はじめまして。お楽しみいただけて嬉しいです!
ネルがこんなに活躍しようとは、こんなに長い話になろうとは思いもよりませんでした。
ネルとハク、書き始めたら意外とキャラが立って、可愛く思えてきました。
恐らくこの時点で精神的にもボロボロになっているハクに、何とか白の娘のタームで「生きていて良かった」と言わせたいです。
ミクの遺言にもなっていますし。
では、今後も頑張って上げていきますので、お付き合い頂けたら幸いです(^-^)
2010/11/17 20:57:56
matatab1
ご意見・ご感想
ネルが……(泣)自国の民と敵国の兵士からの扱いの差が切ないです。最後は丁重に扱われてたのが救いでした。
ハクがネルの言葉をそのままの意味でとらえて、自分を責めるのではないかと不安です。
2010/11/14 21:59:47
wanita
>matatab1さま
まさか、ネルがこういう結末を迎えるとは、書いている側も予想外でした。
この話に盛り込もうと思うのはその名の通り「悪」だと思って書いています。
余裕が無いゆえの「悪」、よかれと思って進んだ結果の「悪」、仕方なく選択した「悪」、他人をいじめる人の性(さが)としての「悪」、そしてあえて「悪」になる時。
自国の民と敵国の兵士からの扱いの差で、余裕がなく、不安にかられ、なおかつ何かを守ろうとしたときの人の集団の恐ろしさを感じてもらえたらなと思って書いていました。
殺されはしないまでも、現実でも起こりうることだと思います。こういうことがあるのだと理解しておくのとおかないのとでは、実際その場に置かれたときの自身の行動の余裕さに、違いが出るかもしれません。なんて☆
そして、ハクですが☆ ネルの相棒の鷹が思い切り頭の上で羽ばたいていたので、おそらく……ネルの最期の言葉は聞こえていません。でも、ずっと気にすることになるでしょう。そのあたりはまた、今後の展開で♪
2010/11/17 00:58:29
音坂@ついった
ご意見・ご感想
大泣きしました
2010/11/14 15:46:29
wanita
>音坂さま
ブックマークありがとうございます!
そのコメントを励みに、ラストまで突っ走ろうと思います。
温かく見守っていただけたら幸いです☆
2010/11/17 00:42:21