ミクと鶴田社長、幸子夫人は固い握手を交わし、工場を後にした。
社長と夫人はミクとレンの姿が見えなくなるまで、何度も頭を下げ、手を振っていた。
「ミク姉、いいの? あんな大金貸しちゃって?」
大通りでタクシーを待ちながら、レンが聞いた。
「大丈夫よ。鶴田社長、いい人だったでしょ」
「いい人だとは思うけどさ…。ていうか、どうすんだよ、正史さんのこと。あんな安請け合いしちゃって、説得できなかったら鶴田社長に何て言うのさ?」
口を尖らしてレンは言った。空車のタクシーにミクが手を上げる。
「説得なんてしないわよ。ちゃんと考えてるんだから、心配しないで」
☆
二人が向かった先は、正史の住むアパートだ。住所は鶴田社長から聞いた。
ぼろっちくて、いかにも売れないミュージシャンが住み着きそうなアパートだった。
社長から聞いた部屋番号は203号室。窓も開いていないし、下から見上げているだけでは居るのか居ないのかも分からない。
すると、若い男がミクたちの横をすり抜けて、アパートの階段を登って行った。
金色に染めた長い髪と、ラフなのか汚らしいのか判別に苦しむ服装。
いかにも「音楽やってます」的ないでたちの男は、ポケットから鍵を取り出すと203号室に入っていった。
「あれが正史ね…。お手並み拝見といくわよ」
ミクはバッグから携帯と接続コードを取り出すと、ヘッドセットにつないだ。
「…ミク姉、何する気…?」
不安そうな顔でレンが聞く。ミクは答えない。
「ミク姉…! ハッキングする気!? ダメだよ! クリプトンに止められてるでしょ!」
青い顔をしてレンが叫び、ミクの腕を揺さぶる。それでもミクは目を閉じ、携帯を通じてネットにアクセスする――。
クリプトン社のボーカロイドに歌ってもらうには三つの方法がある。
一つはソフトを買って、パソコン上で歌ってもらう方法。一般のユーザーがそれだ。
二つ目は、ボーカロイドを家やスタジオに呼んで歌ってもらう方法。これは札幌近郊に住んでいる有名Pだけに許されている。
三つ目は、ネットを通じてボーカロイドをパソコンに呼び出し、歌ってもらう方法。これは主に北海道以外の都府県に住んでいる有名Pが利用している。
三つ目の方法を可能にするため、ボーカロイドのヘッドセットにはネットにアクセスする機能が付いており、思念による操作で自由にネットの世界を行き来できる。
実はこれを悪用すると、高度なハッキングが可能なのだ。
そのためボーカロイドを発売している各社は、ハッキングに対し厳しい禁止令を布いている。
悪質な場合は電脳をフォーマットする規定になっているが、危険を冒してまでハッキングしようとするボーカロイドはおらず、未だその例はない。
心配そうに見守るレンをよそに、ミクは目を閉じてバーチャルの世界を泳いでいる。
☆
十五分ほど経ってから、ミクは目を開けた。
「…ミク姉、やばすぎるよ…。クリプトンにばれたらどうすんのさ…」
「足跡残すようなヘマはしないわよ。正史Pは鶴田社長の言う通りね、全然才能無いわ」
接続コードを巻き取りながらミクは言った。
「DTMやってるようだけど、ソフトに遊ばれてるだけね。音楽理論が分かってないのよ。センスもからっきし。パソコンにボカロは入ってなかったわ。動画に投稿したことが無いから、叩かれたことも無いのよ」
パソコンに入っていたソフトやMP3ファイルをチェックしたらしい。
携帯を開くと、また電話をかける。
「もしもし、佐々木さんですか? ミクです。いつもお世話になってます。ちょっとお願いがあるんですけど…」
クリプトンの初音ミク開発担当者、佐々木渉氏に電話しているようだ。
「今から言う住所に、あたしのソフトと入門書をセットで送ってください。懸賞か何かに当たったことにしてもらえますか? 本人が『応募した覚えが無い』とか連絡してきたら、『誰かがあなたの名前で応募したのでしょう。賞品はそのままもらっていいです』と答えてください」
レンは、ははーんという顔をした。携帯から佐々木氏の当惑した声が漏れ聞こえる。
「ちょっと込み入った話なんで、札幌に帰ってから詳しく話しますね。え、ここですか? 北斗市です」
早めにお願いしますよ、と念を押してミクは電話を切った。
「ミク姉のソフトで曲を作らせて、ニコニコ動画に投稿させる。で、ボッコボコに叩いてミュージシャンになる夢をあきらめさせる、そういう作戦?」
ミクはニッと笑った。
「そ。パソコンのIPアドレスは分かってるから、ニコニコでもピアプロでも投稿すれば調べがつくわよ。さ、ここでできることは終わったわ。札幌に帰るわよ」
ミクがアパートを背にして歩き出す。レンも慌てて後を追った。
☆
さすがに帰りにヘリは使わない。駅のベンチで特急列車スーパー北斗の到着を待つ。
事が全て順調に進んだのでミクは上機嫌だが、振り回されたレンはくたくたに疲れてしまった。
ホームは涼しい風が吹いている。レンは風の心地良さに救われる思いがした。
ふと横を見ると、ミクがスイカを品定めするような顔でレンを見つめていた。
「何だよ、その顔…。何か言いたいの?」
「レン、あなた男のくせに今回の件何にも役に立たなかったわね。リンよりは使えるかと思って連れてきたのに」
あんまりな言われように、レンは口をパクパクさせた。とっさに言葉が出ない。
「…ミ、ミク姉が無茶すぎんだよ! ボクにヘリの操縦士脅したりハッキングの手伝いしろって言うの!?」
憤慨しているレンを気にする風もなく、ミクはまた携帯をいじりだした。
「いざというとき頼れる男じゃないとモテないよ。まあレンはまだ十四歳だし、これからね」
レンは言い返そうとしたが、ミクが携帯で話し出したので、何も言えなかった。
「あ、もしもし、死球P? ミクよ」
死球PはメジャーでCDも出している有名Pなのだが、削除覚悟で卑猥な歌詞の曲を歌わせることが多く、ミクは嫌っている。
「元気~じゃないのよ。用があって電話してるんだから、今からあたしが言うこと耳の穴かっぽじってよく聞きなさい」
有名Pの中で唯一死球Pにだけ、ミクは敬語を使わない。
「今から三時間以内に、北斗製菓のネギ煎餅のCMソングを作りなさい。あたしとレンのデュエットよ。 …あたしの話聞いてるの? メモしなさいよ。ホ・ク・ト・セ・イ・カ・ノ・ネ・ギ・セ・ン・ベ・イ。何それって? ググレカス。今何時よ? 三時? 六時にはあんたの家着くからね。それまでにできてなかったら二度とあんたの曲歌わないから。一度聞いたら耳から離れないような、キャッチーなやつよ。分かったわね」
電話の向こうから何か叫ぶ声が聞こえたが、ミクは構わず切った。
「死球Pの家に着くのは七時ごろね。一時間猶予を上げるなんて、あたしって何て優しいのかしら。レン、もう一仕事付き合ってね」
疲れ果てたレンは、ダリの描く時計のようにぐにゃりとベンチにもたれている。
「レン、頑張ってよ。鶴田社長のためだと思って」
ミク姉の煎餅のためでしょ…。疲れたので突っ込むのもやめ、レンはハーイと生返事をした。
☆
二週間後、ニコニコ動画に正史の作った曲が投稿された。P名は三毛犬Pと訳の分からない名前だった。
投稿に気付いたミクとレンは、早速けなしてやろうと勇んで動画を再生したが、すでに気の毒になるほど酷評されていた。
三毛犬Pは一度では懲りず、その後三日おきに二曲を投稿したが、同じようにボロクソに扱き下ろされた。
それを最後に、三毛犬Pの投稿は途絶えた。
☆
煎餅騒動から二ヶ月後、ミクたちのマンションに人が入れるほど大きなダンボールが届いた。北斗製菓からだ。
中にはネギ煎餅がギッシリと入っていて、ミクは幸せのあまり卒倒しそうになった。
白い封筒の手紙も一緒に入っていた。
宛名も中の便箋も毛筆で書かれている。驚くほどの達筆で、こんな手紙をもらったことのないミクはそれだけで感激した。
達筆すぎて読めない字があるので、ルカに朗読してもらうことにした。
リビングにレンとリンも集まり、テーブルを囲んだ。ルカがゆっくりと手紙を読み上げる。
拝啓
雪も溶け日毎に春の訪れが感じられるようになりました。
初音ミク様も変わらずお元気なこととお慶び申し上げます。
先だっては弊社を倒産の危機から救っていただき、誠にありがとうございました。
おかげさまで新しい問屋との契約もでき、気持ちを新たにして製造に励んでおります。
また、初音様に作っていただいたネギ煎餅のCMソングが大変好評で、
土産物屋での販売が急増しているだけでなく、道外からの問い合わせも殺到しております。
生産が追いつかず、嬉しい悲鳴を上げているところです。
初音様にお借りしたお金ですが、危機を乗り切ればすぐにでも返そうと思っていたのですが、
今後も好調な売れ行きが続くと予想されますので、初音様のご好意に甘えることになりますが、
工場の設備増強に使わせていただきたいと思います。
向こう三年を目処に、必ず返済いたしますので、ご無理をお許しください。
一つご報告がありまして、長男の正史がアパートを引き払い実家に帰ってまいりました。
本人は目が覚めたと言って、今は煎餅作りに一心不乱に打ち込んでおります。
元々ものを作るのが好きな性格ですので、水を得た魚のように仕事を楽しんでいます。
跡取りもでき、北斗製菓は今後も末永く皆様にご愛顧いただけそうです。
この年になってからこんなにも良いことに恵まれることがあるものかと、
家内と二人幸せを噛みしめております。
初音様への感謝は言葉では言い尽くせず、ご恩の返しようもございませんが、
精一杯ネギ煎餅の製造に打ち込むことで、少しでもご恩に報いたいと思います。
重ねて心より御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
敬具
手紙を読み終わってからも、ルカは慈しむように文面を眺めている。
一番涙腺のゆるいリンは、途中からうるうるして聞いていた。ミクも目じりの涙を拭っている。
「ぐすっ。ミク姉、1000万円貸したって聞いたときはアホかと思ったけど、いいことしたねえ」
ティッシュで涙を拭いながらリンが言った。
「本当ね。わたしもキャッシュカード取り上げようかと思ったけど。ミク、偉いわ」
「何よ、リンもルカも。あたしが北斗から帰ってきたときはしこたま怒ったくせに」
ミクがふくれる。その通りで、ミクはあの後ルカにたっぷりと油を絞られ、リンにまで散々叱られたのだ。
「まあまあ、ミク姉。怒ってないでさ、ネギ煎餅食べようよ」
レンが場をとりなす。そうねと言って、ルカが茶を入れてきた。
みんなでネギ煎餅をポリポリと齧る。
「あー、もう。このネギの香りが何ともいえない…」
ミクが目を閉じて幸せそうな顔をする。
「ねえ、ネギ煎餅の曲歌ってよ」
リンがリクエストする。ミクとレンは声を合わせて歌った。
「♪北斗の~風を思い出すのよ、この・香り・ネーギせんべ~」
明るいメロディーにネギ煎餅を賛美する歌詞が絶妙に乗る。
「ノリのいい曲よね。死球P、これ三時間で作ったんでしょ?」とルカ。
「ミク姉とレンが着いたとき、死球P、目が血走ってたらしいよ。神が降りてきたとか言って」
死球Pが凄まじい集中力を発揮して作った歌は、一度聴くと病みつきになってしまうのだった。
そう、まるで、北斗製菓のネギ煎餅のように。
おわり
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ご意見・ご感想
日枝学
ご意見・ご感想
お久しぶりです、ピーナッツさん。読みました!
作品説明欄の
>退屈はしませんので
という言葉通り、読んでいて退屈になる場所がない――どころか最初から最後まで読み手の目をひきつけて離さないような展開がとても良いと思いました。そういうの尊敬です! 面白かったです。
2011/09/15 00:06:40
ピーナッツ
日枝学様
いつも読んでいただきありがとうございます!
終始引き付けられたとのお言葉、何よりも嬉しいです。
ミクが金に物を言わせて何かやらかす話を書こうと思って出たアイデアですが、
マジ天使ミクさんのキャラクターのおかげで展開の激しい話になりました。
励みになるご感想ありがとうございます。
次回作も気合入れて書いていこうと思いますので、末永くお付き合いください。
2011/09/15 12:24:43