目の前の十音は口の周りを血で汚したまま、眠るように横たわっていた。
サイレンを鳴らしながら走る救急車の中は、ひどく時間の進みが遅い。救急隊員が慌ただしく処置を施そうとするが、原因がわからず対処できずにいた。
まるで何時間も揺られていたかのような道程の果て、病院へ着くと十音は担架で運ばれていった。
ライブの後、十音は吐血し意識を失った。それは今に始まったことではなかった。
両親と決別し、歌で生きていくと宣言した十音。しかし彼女の喉はとうの昔に病魔に侵されていた。それはレーザーや投薬では治療できないほどに進行していた。
彼女の声の美しさは、散り際の花の儚さと同じ。文字通り命を削る魂の叫びが人々の心に突き刺さり、多くの支持を得ていた。それは寿命を縮める両刃の剣だった。
両親は声帯を切除してでも十音に生きていてほしいと願った。だから十音を自宅へ監禁し、手術の準備を進めていた。
しかし手術の前夜、窓を突き破って十音は外の世界へ飛び出した。財布も靴も持たないまま。
そんな少女が生きていくために罪を犯した。それは必然だった。そうしてでも彼女は歌と共に生きたいと願った。
治療室の扉の向こうにいる十音に問いかける。
「これで本当にいいのか……?」
それは自問でもあった。このまま歌い続ければ十音は確実に死ぬ。たとえそれが彼女の強い希望だとしても、それを止めることはできないのだろうか。
でも、以前にも増して美しくなるその声は、まるで麻薬のように俺の思考を停止させ、酔い痴れさせる。
だから俺は尋常でないペースで新曲を作り、十音が歌い、魅了されていく無限ループ。
出口は見えない。いや、見ないようにしているだけ。すぐそこに迫った現実を受け入れたくないから。
本当にそれでいいのだろうか?
午前二時すぎ。病院からパジャマ姿の十音が姿を現す。もう四度目になる深夜の脱走。
彼女が病院へ運び込まれる度に両親が訪れ、それが十音にとっては苦痛だった。なにより、眠っている間に手術室へ連れていかれ、声帯を切除されるのではないかと恐怖していた。それほどまでに親子関係は破綻していた。
だからこうして病院を抜け出し、夜の街へ戻る。そしてまた倒れる。その繰り返し。ただ確実に少しずつ彼女の容体は悪化していった。
「本当に死ぬのは怖くないの?」
ネカフェへ向かう道すがら、俺は尋ねた。そう訊いておいて、自分自身が死ぬことは大して怖くないと思っていた。たぶんそれは、実感がわかないから。
「怖くない」
予想通りの言葉が返ってくる。それを聞いて、気付いたことがある。
俺も自分が死ぬことは怖くない。でも、十音が死ぬことは怖い。心の大半を占める彼女がいなくなったら、俺はどうなるんだろう。一日の行動パターンは? 休日の過ごし方は?
今までと全く違うものになるだろう。そこに幸せはあるだろうか。
「でも、俺は怖いよ。十音が死ぬことが」
「どうして初が怖がるの?」
「十音は、俺が死んでも何とも思わない?」
「それは……」
死の痛みや悲しみは自分にくるのではなくて、残された者の心にくるものなのかもしれない。独りのときには決して気付けなかったことに、今だから気付けた。
そして、十音も同じ気持ちでいてくれると信じている。
「俺は十音に生きていてほしい」
「イヤ。初は歌えなくなった私を捨てる」
「いつそんなことを言った?」
「きっとそう。歌のない私に価値なんてないから」
「誰がそんなことを言った?」
語気を強めると、十音はポロポロと涙を零した。
「だって、わかんないんだもん。こんな私に、どうして優しくするの? 早く見捨てればいいのに。初が何を考えてるのか全然わかんない!」
そうだ。俺の言動には一貫性がないし合理的でもない。
だけど、たった一言でその混沌を説明することもできる。
「十音が好きだからだよ」
「ウソ……」
最初は同情だったかもしれない。でも今は確かに十音を好きだと言える。相棒や友達としてではない。ひとりの女性として愛している。だから。
「自分のためじゃなくていい、俺のために生きていてほしい」
「初の……ために……?」
「ああそうだ、俺のエゴだよ。だけど俺も誓う。俺も十音のために生きるって」
十音はただ泣きじゃくるだけだった。そんな彼女を抱きしめて、心から声を絞り出した。
「だから、俺のために生きろ!」
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