「君の足はもうすぐ治るんだよ」
「えっ?」

 魔法使いの少年の言葉に、少女は青い目を大きく見開いた。
 当然の反応だ。それは余りにも突然の言葉だったのだから。
 そして、更に続けられた言葉に彼女は息を詰まらせる。

「それだけじゃない。戦争は終わり、君のお父さんも無事に帰ってくるんだ」

 告げられたそれは、望み得る最高の未来。

 …本当に?
 心が沸き立つ。ずっと望んできたことが―――叶えられる。だとしたら嬉しくない筈がない。
 けれど、少女はその反面で、拭い去れない不安をも感じた。

「…どうして?」

 だから、口をついて出たのはそんな言葉。

 ―――どうしてそんなに私に良くしてくれるの?

 何度も聞こうとした問いが溢れそうになる。
 でも、少女は言葉を途切らせてしまう。それを聞くことで、全ての魔法が解けてしまいそうな気がしたから。
 眉を下げた少女を見て、少年は小さく微笑んだ。
 愛しさ。切なさ。罪悪感、期待、そして諦めと希望。様々な感情が混ざりすぎて曖昧になった笑顔を浮かべ、彼は少女へと爽やかに告げる。



「だって僕は、魔法使いだからね」



<魔法の鏡の物語.10>



 この家に閉じ籠って、数週間が経った。
 いや、正確に言うなら「閉じ込められて」なんだろう。流石にこれで気づけない程鈍感じゃない。

 今や僕と外界との交流は、完全に途切れていた。
 まず、お隣さんが訪ねてくることがなくなった。
 思えば、あの日家に帰りついたときにはもう家に居なかった。あの時既に引き上げさせられていたんだろう。その後は何処かから圧力でも掛かったのかもね。
 でも、変に巻き込むことがないなら、それはよかったと思う。
 そして、僕自身はといえば、完全に家に閉じ込められている。もし外に出ようとしたとしても厳つい男の人に止められてしまうし、庭に出るのさえ止められるなんて、ほんと、笑っちゃうよ。
 普通に生活している僕の行動の一つ一つさえもさりげなくチェックされているような気がする。だから、迂闊な行動はできない。
 あー…よく考えたら、初めの一週と少しの間にはもう、彼らが警備と称して家の中に入り込んでいたっけ。しかもさりげなくあちこち引っ掻き回していたようだし。バレバレだったけど。
 でもそうして僕に注意を払ってるって事は、僕のことも警戒しているんだろうな。例えば、何かの書類を隠滅されないか、とでも考えているとか。

 確かに父さんは僕に仕事の話をすることもあったけど、重要な部分に僕みたいな子供を踏み込ませる人じゃない。そういうとこしっかりしてるんだ。
 彼らも、それを知らない訳じゃないだろう。

 はあ。僕は溜め息をついた。
 怖いというより馬鹿らしい。フィクションの中にいるみたいだ。
 …父さんのことがなければ、いっそ楽しめていたかもしれない。
 そう、あれがなければ。

 どうして父さんが。
 何で、僕が。

 ―――くそっ、そんなの考えたところで分かりやしないのに!

 自分が考えても詮ないことを考えている、と自覚できてしまうのが嫌だ。
 解答のない問いかけと凝っていく閉塞感が、水に沈む小石のように緩やかに心臓の辺りに溜まっていく。ああ、息がしにくい。
 僕は服の胸あたりを握り潰す勢いで握りながら、鏡に向き合った。
 部屋の外に彼らの気配はない。今なら平気かな。
 しっかりと辺りを確かめてからそっと鏡に触れ、呟く。

「…リン」

 ―――君は、そこにいる?

 会いたくて堪らない。
 何も知らないリン、その輝くような純粋さがいつも僕を救ってくれるんだ。
 僕の声に応えるように、ほわり、とほんのりとした光が鏡から立ち上り…

「…」

 僕は鏡面に現れたリンの姿をまじまじと見詰めた。
 彼女は鏡の向こうで凭れるようにして目を閉じている。
 …あれっ、寝てるのかな?それともまさか、体調が…?

「リン?」
「ひあっ!?」
 
 心配になってそっと呼び掛けてみると、リンは跳ねるように鏡面から身を離した。

 あ、元気だ。

 思ったよりも過敏な反応に、僕は少しだけほっとした。

「え、リン?…どうかした?」
「び、びっくりした…だけ」
「ならいいんだけど。凄い顔してる」

 具体的には指摘しないけど、顔が赤みを帯びて微かに体が震えている。
 なんだか驚いた小動物みたいな反応だ。そっと掌で包んでみたくなる。思わず笑みが零れてしまうのは許してほしい。

 胸が暖かくなるのと同時に、さっきまでの苦しさが瞬間的に吹き飛んだ。
 ああ、なんだよもう。本当に可愛いんだからなあ、反則だよ。見ているだけでも幸せになれる。
 締まりのないにやけ顔になりそうなのを必死で耐えていると、リンの頬が小さく膨れた。青い大きな目の色が、少しだけ滲む。

「…レンのばか」

 …ぐっ!

 ちょっ、ちょっと待って!上目遣いとか止めて。ああもう頑張れ僕、負けるな僕。ポーカーフェイスが得意で本当に良かった。
 僕の内心など露知らず、少しだけ不満そうに僕を見るリン。華奢な手がスカートをぎゅっと握り締めているのがいとおしい。

「そんなに笑うことないじゃない…」

 非難を含んだ声で言われて、反射的に謝りそうになる。
 …いやいやいや、でも駄目。もうちょっと苛めたい気分です。

 笑ってないよ、可愛いよ。そんな甘ったるい本音を告げていくと、リンは段々と涙目になってきた。
 嬉しいけど恥ずかしさが勝っちゃってるんだろうな。そんな顔してる。
 この辺、大体加減が分かってきた。恥ずかしさが許容範囲を越えて泣きそうになるリンってことのほか可愛いと思う。ああ、でも、勿論一番は笑顔だけどね。
 リンが真っ赤になって俯いたところで僕はやっと言葉を止めた。

 ―――怒られちゃうかな?

 にやにやを止められないまま、頭の隅の方で考える。意地悪しすぎた感はあるし、怒った顔も可愛いから良いけどさ。

 でも、顔を上げたリンは―――微かに、顔をほころばせた。

 はにかむように、恥じらうように、仄かな笑みを浮かべる…それがあまりにも衝撃的だったから、僕は一瞬思考停止してしまった。
 だってリンが可憐だとか、いじらしいとか、それだけじゃなくて…なんか、もしかして僕ってリンに凄く愛されてるんじゃないかって思ってしまったから。
 自意識過剰にも程があるだろうけど、大好きだってまっすぐに伝えられたような気がした。
 鼓動が早まる。

「…ね、レン、体調はいいの?熱とかないの?」
「…大丈夫だよ」

 いかにも疑ってます、と言わんばかりの目線を返されて、ちょっと困る。
 でも体調自体は実際に悪くないし、罪悪感を感じる必要なんてないはずなんだよね。
 それでもなんとなく目を合わせ辛くて、さりげなく目線を外す。
 すると、リンが視界の端でぱっと表情を輝かせたのが見えた。

 ん?

「…あ、そうだレン!ちょっと鏡におでこ当ててみて!」

 名案!とでも言いたげなその提案。
 初め、僕はリンが何をしたいのかわからなかった。

「はい?」
「本当に熱がないか、確認!」
「確認?」

 ええと、熱の話をしていて…おでこを当てて、確認?
 …ん?
 ええと、待った、それって。

「ってちょっ、まさか!?本気!?」

 それはちょっとどうだろう!
 急いで鏡から身を引くと、リンはとても寂しそうな顔で僕を見た。

「…レン」



 …………ひ、ひ、卑怯だあぁ…!



 我ながら、リンからの押しに弱すぎる。
 惚れた弱味っていうか、なんかもう、本当に僕ってバカだなあ。分かってたけど。それに、リンに我が儘言って貰えて嬉しいっていうのは確かだし。
 仕方なく鏡に額をくっつけると、リンは嬉しそうに顔を近づけてきた。
 うわ、近っ…!唇柔らかそう…うわあああ、どこ見てるんだ僕!!
 耐えきれなくて慌てて目を閉じる。
 でも、すぐに触れると思っていた温もりはなかなか感じなかった。
 どうしたんだろう。
 でもそれを考える間もなく、予測していたとおりの温かさが額に触れた。

 人の温もりに触れるのが久しぶりだってことを、僕は静かな気分で思い出した。
 彼らの見張りのせいで、このところ、ろくにリンと会えなかった。
 鏡に向かって独り言を洩らす図なんて見つかったら、どう思われるか分かったものじゃない。
 それに、鏡の向こうのリンに気付かれたら最悪だ。珍しがられて奪われてしまうかもしれない。
 だから最近はなかなか話し掛けられなくて、話ができても短時間で切り上げなければいけないときが何度もあった。その度にリンは、何も言わず微かに瞳を揺らして…

 …多分、心配させてしまっているんだろう。

 なんとなく鏡から額を離す。
 僕が離れたのに気づいていないのか、律儀に瞳を閉じたままのリン。睫毛が綺麗だな、なんてことをぼんやりと考えた。



 ―――心配かけてごめんね。



 硝子越しにその額に口付ける。
 触感なんて分かる筈がないのに、唇にひどく繊細な柔らかさと、控えめな温もりを感じた。



 ―――リン……



 …ん?

 すぐに我に返って、僕は鏡からすぐさま唇を離した。

 うわっ、何してるんだ僕は!なんか、その、騙すみたいな事をして!
 ごめんリンごめんリンごめんリン…!
 胸の中で念仏みたいに謝る。
 でもそんなつもりじゃなくて、いやそんなつもりだったけど下心とかはなくて…あ、うん、下心もゼロではなかったね…
 …なんか落ち込んできた。

「…レン?」

 無垢な瞳が、痛い。

「い、いや…なんていうか…ごめん」
「へ?」
「…ごめん」

 理由を話す事なんて出来ずにただ謝り続けていると、リンは不思議そうな顔をして話を変えてくれた。

「うん、…えと、熱はないみたいだね。良かった」
「だから大丈夫だってば。本当にリンは心配性なんだから」
「だって、レンが体を壊したりなんてこと、考えるだけで嫌だもの。…おかしい?」
おかしくない。嬉しい、んだけど、…
「…い、いや、おかしくない…っていうか上目遣いやめて…」

 さっきからもう僕の精神が違う方向に崩壊しそうです。
 なんでかな。前はもうちょっと耐性あった筈なんだけど。
 もしかして、最近他の人と前々接触してないから余計に強烈に感じるのかもしれない。空っぽになったお腹に、急にご馳走が入って来たような感じだ。
 沈黙が二つの部屋を満たす。
 そして、ようやく僕が落ち着いて来た頃、ぽつりとリンが声を漏らした。

「…ねえレン、ずっと側にいてくれるよね?」



 ―――突然、心臓を思い切り掴まれたような気がした。

 …それは…

「何?どうしたの、急に」

 努めて落ち着いた声を繕う。
 リンが気付かなければいいんだけど…

「何となく…不安になって」

 心細げに微笑するリン。
 すぐに肯定したい。でもそれが、嘘になってしまったら?
 …そうしたらリンは…?

「それは…約束、できるかどうか、わからない」

 悩んだ末に、僕は結局そんな言葉を選んだ。
 こんな奇妙な生活がそう長く続くとは思えない。
 「警護」に割いた人員もそろそろ別の仕事に回したいだろうし、何ヵ月もこんな形で僕を監視している意味はないだろう。何らかの結末が訪れるのは、きっとそう遠くない。
 そして、僕はそれをここでじっと待つんだろう。

 本気で逃げようと…生き延びようとするのなら、身一つで脱出するという選択肢もあった。頼るあてなんてないにしても、少なくとも数日は猶予を作れるだろう。

 だけど、それをしたら―――僕はリンを失ってしまう。

 同じような鏡が世界に幾つもあるとは思えない。
 あったとしても、きっとそれはリンと繋がる鏡ではない。
 だから、僕はずっとこの鏡の側にいる。
 一つだけ、今、これだけは確かな感情を優先するって決めたんだ。

 出来るなら、最後まで君の隣に―――

 それをどう伝えようか迷い、僕は言葉を切った。

 …その時の僕は忘れていた。
 リンは何も知らないってことを。

「そ…だよね。…ごめんなさい、変なこと言って…」



 …あっ…!



「リン、」
「忘れて!」

 鏡の向こうで、リンが身を翻した。

 泣き出しそうな顔で。

 ―――違う。違うんだよ、リン!

「リン!?」

 僕の叫びを断ち切るように、鏡の向こうの景色が消える。



 その姿に向かって伸ばしたはずの指先は、ただ硬く冷たい硝子にぶつかって痛みを返してくるだけだった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

魔法の鏡の物語.10

レン「どうせなら唇で体温測って!」
リン「そこ体温測れないんじゃ…」

↑こんなやり取りを入れたくて入れたくて仕方ありませんでした。
違うんだ!このレンはこんなレンじゃないんだ!と思って全力で自重しました。

閲覧数:399

投稿日:2011/12/13 23:58:26

文字数:5,202文字

カテゴリ:小説

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  • 鈴歌

    鈴歌

    ご意見・ご感想

    うぉ!
    ヤバイですょ…リンちゃんの上目使いとか
    本気で見たい・・・
    あ~ニヤニヤが…

    2011/12/19 18:17:01

    • 翔破

      翔破

      こんばんは、コメントありがとうございます!
      私もリンちゃんの上目遣いが見たいです。(え?
      ニヤニヤして頂けたなら本望です。シリアスなはずなのにレン君が焦れてきた結果がこれだよ!
      この連作も、あと1+1話で完結になると思います。
      最後までお付き合い頂けたなら幸いです!

      2011/12/20 21:53:13

  • 目白皐月

    目白皐月

    ご意見・ご感想

    こんにちは、こっちにも失礼します。

    あ、これが件のシーンですね。
    レンの境遇がどんどん悲惨な方向に向かっているみたいで、なんというか、悲しいというか、切なくなりますね。
    ただ……悲しくというか、切ない気分にはなるんですけど、

    >さっきからもう僕の精神が違う方向に崩壊しそうです。

    で、思わず笑っちゃいました。大丈夫か自分……。
    うん、触りたいのはよくわかったよ。というか、触りたくなるよね(だからやめなさいって)
    で、崩壊したらどうなるんでしょうか?


    ところで先生(?)、レンが暴走しそうな時ってどうすればいいんでしょうか。
    ここ数回、変な方向に行ってばっかりで何度書き直したかわかりません!
    一つご教授を……(だからやめなさいって)

    暴走、失礼しました。
    続きも頑張ってくださいね。でも、無理はなさらないで。

    2011/12/14 01:15:53

    • 翔破

      翔破

      こんにちは、こちらにもありがとうございます!
      はい、遂にここまで辿り着く事が出来ました。年内に完結させられたら、と思っているのですが、どうもフラグ臭が…うっ…無理せずのんびりやって行きたいと思います。
      しかしゆっくり進めているせいか、レン君がそろそろ焦れてきて、隙あらば話のテンションを上げよう上げようとしてきます。

      ちなみに彼の理性が崩壊したらどうなるか、考えてみてちょっとびっくりしました。
      レンが自分の欲望に忠実に振舞っていたら、そしかしたらもっと早くにハッピーエンドに辿り着けていたかもしれません。まあ、彼は鏡の設定とか全く知らないのでそうはならなかったのでしょうが…。


      …えっ、レンが暴走しそうな時ですか!?私はもう、「後で別の話でいちゃこらさせてあげるから今は落ち着け」と宥めることしかできません!うちのレンはとにかく我儘なので、とりあえず宥めすかして少し譲歩して貰うのが限界です…。
      困りはしますが、こういうところで、物語の中の登場人物って生きているんだな、と実感します。

      お気遣いありがとうございました。山は越えたので、これからまたぼちぼちやって行きたいと思います。
      それでは!

      2011/12/15 23:57:09

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