立春、立秋、立冬。何となく聞くけど夏は無いの?いいえ、あります。立夏。
春は始まりの季節。秋は意欲の季節。冬は身を寄せ合い団らんを営む季節。では夏は?―――
季節はもう夏だと言うのにまだ春先の暖かさを保っている。けれど紫外線は容赦なく降り注ぎじわじわと人肌を焼いた。
例年では夏の熱い日差しに、日の下では肌を焼かれ小麦色になった人々が汗を流しながら働きに出たり遊びに出かけたりしている。この年は冷夏で過ごしやすく、まだ夏の趣はない。
「もう夏だと言うのにね、今日はまた一段と冷えるね」
気温はおおよそ十五度くらい。夏にしては確かに涼しい。だが、寒いと言う程ではない。実際「冷える」と口にしながらも部屋着の黒いスウェットパンツに割と薄手のTシャツ一枚と言う春の装いだ。陽の光を浴びると赤く輝く纏まりの悪い髪をしたこの人こそこの部屋の主、複数のボーカロイドを所持するボーカロイドマスターの朱木楓(あかぎかえで)である。朱木なんて珍しい名字なので本人は気に入っているらしいがよく『赤木』と間違われるそうだ。‥‥気持ちは分かる。
「そうですね、楓さん。近頃は気温を読みにくいから人間の身体では気候についていけないでしょう。風邪を引かないようにして下さいね?」
青い短髪を靡かせて爽やかに声をかけるのは楓の所持するボーカロイドの一人、カイト。
カイトは楓が購入した最初のボーカロイドで、季節問わず白いロングコートと青いロングマフラーをしている。冷えると言ってもこの日にしては厚着過ぎる、真冬の格好だ。ボーカロイドは人間ではないので気温の変化などほとんど関係ない。もちろん汗もかかない。時折熱暴走が心配な白肌の見目麗しき好青年だ。
「そうだね‥‥ヘックシ。うぅ‥‥」
「‥‥もう遅いみたいですね。大丈夫ですか?」
カイトは自ら羽織っていた白いロングコートを自分の主人の肩にかけながらそっと顔を覗き見た。頬がほんのり赤く染まっている。カイトはそっと楓の額に手を当てた。
「熱があるようですね。少し休んで下さい」
そう言ってカイトは楓の肩を抱くと寝室へ連れて行った。途中ぐずる楓を苦笑いしながらかわすと何とか寝かしつけて寝室を後にした。
「さて、何か消化の良い物でも作ろうか」
カイトは一人キッチンに立った。手慣れた物でなかなか手早い包丁さばき。あれよあれよと言う間に食材を切って鍋に入れた。カイトは楓の作った自分の為の新曲を口ずさみながら機嫌良く鍋を揺らした。
「お兄ちゃん、何作ってるの?」
まだ香り立つような事は何一つしていないが小気味良い調理音に誘われて次女のミクがどこからともなく顔を出した。
「鍋の中を見てご覧?何が入ってるかな?」
「にんじん、たまねぎ、じゃがいも‥‥わかった!カレーだぁ!」
優しく問えば嬉しそうに答えるミク。ボーカロイドの火付け役となった彼女は今やトップアイドル顔負けの人気ボーカロイドだ。その人懐っこい表情と爽やかな新緑色の長いツインテールが特徴的。方向転換する時にひらりとなびく短すぎるスカートにどきりとする男は少なく無いだろう。
「あ、待って。何処へ行くの?」
「マスターのとこだよ!今日はカレーだよって教えてあげるの!」
元気の良いミク。機嫌良さそうに振り返り、ステップを踏んで前屈みににこりと笑う。長いツインテールが地に着きそうだが本人はあまり気にならないらしい。グレーのYシャツから谷間が覗けそうな格好だが緑のネクタイで固く閉ざされており、さほどふくよかでも無い為全く見えない。本人もあまりふくよかではない事を気にしているらしく、時折長女の豊満な胸を羨ましそうに眺めている。触れないでおこう。
「ダメだよミク。マスターは具合が悪いんだ。今部屋で寝ているから起こさないであげて、ね?」
「マスター熱だしちゃったの?!大変!!マスターマスター!」
止めようと思って言ったが逆効果だった。『マスターを気遣いそっとしておけ』と言ったつもりがミクには『マスターが大変だから看病してやれ』と聞こえてしまったようだ。こうなってはもう止められない。ミクもミクなりにマスターを気遣っているのだ。
「マスターマスター!」
バタン。
駆け込み飛び込みドアを閉めて、ミクは何をしてるだろう?マスターの静養の邪魔をしてはいないだろうか?
カイトは少しの間調理の手を止めて聞き耳を立てた。‥‥特に何か聞こえるわけでもない。
立ち聞きも良くない。カイトはふと我に返り再び調理し始めた。
炒めた野菜を煮込んでルーを溶かし、ぐるりとかき混ぜて軽く温めればカレーのできあがり。ご飯にかけてカイトはふと思った。
これは消化の良い食べ物だろうか?栄養ある物を食べさせないといけないのでは?夏野菜カレーにでもしておけば良かったか‥‥
盆にカレーと水と薬、それとおやつのカップアイスを沿えて楓の部屋へ。
ドアの前に立ち、ノックしようとした時中から声が聞こえた。
楽しそうな女子の会話。カイトは前置き無しにいきなりドアを開けた。
バンッ。
「ん?カイト?」
「どうしたの?お兄ちゃん。顔、怖いよ?‥‥」
どうしたではない。病人は休ませないといけないと言うのにミクの奴、ちゃっかり話し込んで。マスターもマスターだ。上体を起こして楽しそうに‥‥まったく、人の気も知らないで‥‥
「ダメですよマスター。横になってないと。ほらミク、おいで。マスターは風邪を引いているのだからあまり無理をさせてはいけないよ」
ミクの手を掴んで楓から離すとカイトはすぐ脇にあった小さなテーブルに盆を乗せた。
「ご自分で食べられますか?」
カレー皿を手に取り、スプーンで少しすくって聞くとそんな質問をする意図が掴めないと言う様子でカイトを見返す楓。ほのかに赤く染まる頬、とろんとした目。かなり熱が上がってきている事が予想される。
「‥‥少し、食べましょう?少しだけ。そしたら薬を飲んで、少し寝ましょう?ね?」
カイトは優しく語りかけた。楓はどこか焦点の合わぬ目で小さくコクリと頷いた。声は聞こえているがカイトを見ていない。
「あ、ずるい!私だってマスターのお世話したいもん!」
ぷくぅと顔を膨らませるミク。やれやれ仕方がないとカイトは立ち上がって場所を譲った。
「いいかい?少しずつだよ。あまり多いと口に入りきらないし、熱くてやけどしてしまうからね」
注意する声さえ鬱陶しいらしい。ミクは「わかってる!」と顔で答えた。
ふぅっと息を吹きかけてスプーンの上のアツアツのカレーを少し冷ますとミクは自分の主人の口元へそれを運んだ。
順調だ。何も問題はない‥‥なのに何故だろう?
カイトはどこか寂しさを覚えた。
大事な主人の世話を妹に任せるとカイトは独り自室へ向かった。ぼんやりと自分の楽譜を眺めながらカイトはふと独り言を漏らした。
「そう言えばこの曲、合唱だったな‥‥」
いつからだろう?自分はコーラス担当になっている気がする。カイトは自分の楽譜の束をいくつか見直して、その始まりを見つめた。
「これは確か、ミクの来た日の‥‥」
最初の楽譜を見つけた。コーラス担当になった最初の楽譜だ。それはミクが初めてこの家にやって来た時の歓迎用の楽譜。ミクの為に作られた、ミクの為の曲。そのコーラスをカイトが担当している。やがて人が増え、増える度にどんどん後ろへ追いやられたカイト。気付いてはいたが、気付きたくはなかった現実。もしかしたら、マスターは‥‥――
カイトの思考は一時停止した。
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