事務所に行く準備をして、いつも乗っている列車の時間より少し早めに玄関を出る。案件の説明に必要な図解を入れた大きなケースを持って、貴重品を入れたバッグを肩にかけて。
長い白い髪をひとまとまりの三つ編みに結い、オフィスカジュアルに身を包んだイアは、バーに出かけた華やかな姿とは一転して、非常に生真面目そうに見える。
エレベーターを待っていると、下の階から上がってきた籠の中に、見覚えのある女の子が立っていた。リンと名乗っていた少女だ。
ガラス戸が開くと、リンはひらひらと手を振って、「おはよう」と挨拶をする。
「おはよう。護衛はありがたいけど…玄関を出て30秒後に護衛されるとは思わなかったわ」と言って、イアはエレベーターに乗り込む。
「今は2分でご飯が食べれる時代だから」と、リンは冗談を飛ばしながら、1階のボタンを押す。「それより、大荷物だね。イアさんは、何の仕事してるの?」
「デザイナー…と言いたいところだけど、仕事は事務のほうが多いわ」と言って、イアは黒いプラスチックのケースを、少し持ち上げる。「これは、久しぶりにもらったデザインの仕事の案件」
「ふーん。何をデザインして…って、それは企業秘密か」と、リン。
「そうね。出来上がって売りだすまで、秘密厳守なの」と、イア。
エレベーターが1階に着く。扉の前には、レンと名乗っていた少年が待機していた。
「レン。状況は?」と、リンが籠から出て聞く。
「異常なし。唯…」と、レンは言葉を濁す。「ちょっと育ってる。ああ、リンの胸の事じゃないよ?」
それを聞いて、リンはフルパワーでレンの頭をぶん殴った。
「余計なこと言ってないで、真面目に説明しろ!」
「いって~。せめてガードする暇くれよ…」と、恐らくグワングワン言っているのであろう、後ろ頭を押さえながら、レンはしばらくうずくまっていた。
レンが説明するに、イアの左肩にある「悪魔の気配」が、昨日より成長してきているらしい。
リンは、歩きながらイアに説明した。
「何かが原因で、あなたを守っているものの力が弱まって来てる。『悪魔』は、そこに付け入って来てるんだ」と言う。
「病気と同じだと思うと分かりやすいかも。『守護者』は抗体、『悪魔』はウイルスだと思って。
世の中には、抗体である『守護者』を持たない人もいるの。そう言う人は、ウイルスである『悪魔』に操られやすい。
私達は、『守護者』が居ないけど、自分達の能力で身を守れる。あなたは子供の頃から抗体を持ってたから、ウイルスにも感染しなかった。
だけど、抗体の力が段々弱くなって行ってる。その原因が分かれば、ウイルスも撃退できるはずだけど…」
人の多い通りに近づいたことを察して、リンは話をやめた。
往来で抗体だのウイルスだの言っていたら、おかしな人だと思われかねない。
ラッシュの時間をさけた電車に乗り、イアの勤めている事務所に向かう。
レンは少し離れた場所に立って常に周囲に気を配り、リンはイアの横に座り、窓越しにイアの様子を…正確には、窓に映っているイアの『守護者』の様子を見ている。
イアは気づいた。容姿の目立つ双子に、周りの視線がちらちらと向いているのに。
これは、私のほうが大人としてこの二人を保護しなければならないのでは…と考えたが、さっきのリンの拳さばきを思い出し、どうやらこの二人は普通の中学生ではないようだ、とも認識した。
事務所での、何人かのプレゼンテーションの後、イアの持ってきた案件を煮詰める方向で進めようと言う話になった。
自分のデザインが採用されて、イアは少し有頂天になった。が、左肩に少し重みを感じ、ハッとして肩を見た。誰かの手が左肩に乗っている。
イアは悪寒を覚えたが、それがさっき会議に同席していた同僚の手であることに気づいて、胸をなでおろした。
「イアさん。採用おめでとう。今日、飲みに行かない?」と、その同僚は言う。
「ごめんなさい。親戚の子達が、遊びに来てるから、ちょっと無理かな」イアはソフトに断った。
護衛されているので遊びに行けません、なんて、とてもじゃないが言えたものではない。
「そっか。じゃぁ、また次の機会に」
「ええ。ありがとう」と言って、その場の会話は終わった。
リンはイアの会社のあるビルの前で、レンは向かいのビルの屋上に待機し、2ヶ所からイアの勤めているデザイン事務所の様子を観察して居た。
「今の所、『ウイルス』は外部に影響を与えてない」と、スマホでレンがリンに通信を送る。「『抗体』の様子は?」
「だいぶ弱まってる。彼女に『囁く』のが限界みたい。ミク姉の仕事が空くのっていつだっけ」と、リンもスマホで応答する。
「ちゃんと覚えてろよ。明後日。その日に連れて行こう」
「それまで拮抗状態が持てば良いけどね…」
「電車の中では『守護者』と話せたのか?」
「ううん。外部と連絡を取る力も失われてる。もっとも、私の能力じゃ、詳しい事は聴けない」
「ミク姉と話してもらうまで、真相はわからないか」
「うん。イアさんが何か心当たりがあれば良いんだけど」
そんなやり取りをしていると、「リン! 後ろ…。2つ向こうの路地。女の人が引っ張り込まれた!」と、レンの声がスマホから響いてきた。
グミは、こんな昼間の往来で悪漢につかまるなんて、と、自分の運の無さを呪いながら、腕を引っ張る男に、噛みつかんばかりの顔で「離せよ!」と怒号を飛ばしていた。
「金渡せば歌うって言ったのお前だろ? ちゃんと歌ってもらおうじゃねぇか」と言って、グミを路地に引き込んだ男は、いびつな笑みを浮かべる。
路地には、もう一人男がいた。「ほー。中々の上玉じゃねーか。こんなのが毎晩歌ってんだって?」
「ああ。歌だけな。まだ手つかずだ。どんな悲鳴上げるか楽しみじゃねぇか」と、グミの腕を引っ張ってる男が言う。
2人係になられたらお終いだ。グミは、抵抗をやめた。自分の腕をつかんでいる男にとびかかり、顎先を殴り、蹴りで金的を食らわせる。
引っ張られていた腕が緩んだ。グミは手を振りほどき、仲間の男が近づいてこないうちに、身をひるがえし、路地からダッシュで逃げ出した。
路地に入ろうとしていたリンと鉢合わせ、ぶつかってリンを押し倒してしまった。
「ごめん! だー、けど。それどころじゃない!」と言って、グミはリンを放ったまま、脱兎のごとく交番のほうに逃げて行く。
「いたたた…。なんなの?」と言いながら、リンは体を起こし、地面にしたたか打ち付けた後ろ頭を撫でる。
「ちっ。逃げられたか」と、路地の奥で毒づいている男が2人いる。
男達の周りに、赤黒い蛇が見えた。こんなものに『守護』されている者が、まともなわけが無い。
「置き土産は置いてってくれたが、胸も出っ張ってねぇお子様じゃ、その気にならねぇぜ」と言って苦い顔をしている二人に、リンは「制裁」が必要だと判断した。
グミが交番から警官を連れてくる頃には、リンは路地から姿を消していた。
その代わりに、ぼこぼこ…ではないが、的確に、顎先、こめかみ、人中など、「殴られるとめちゃくちゃ痛い箇所」をしばき倒され、胸骨の上の急所に一撃を食わされて、息も絶え絶えになって居る悪漢が2名、路地に転がっていた。
その日の護衛を終え、リンとレンは家に帰った。仕事に行く前のミクが、衣装を着てメイクをし、髪をいつも通りツインテールに結っている。今日の髪飾りは赤いリボンだ。
「ただいま」とリンは鏡の前のミクに声をかけた。レンは何も言わない。ミクの仕事着姿を見ると、レンはいつも無口になる。
「ミク姉。時間大丈夫? 遅刻しない?」と、リンが聞く。
「今日はゆっくり出かけたほうが良いみたい。出勤はギリギリになるけど」と、ミク。
「そう。イアさんの件だけど、今日は何も起こらなかった。けど、別件の仕事が増えそうな予感かな。ね、レン」と、リン。話を促そうと、レンのほうを向いたが、レンはミクから目をそらしている。
「『今はしゃべりたくありません』だって」と、リンが適当にレンの心を代弁した。
リンとレンのこの後の生活は、風呂に入った後、食事を摂って眠るのがお決まりのコースだ。
しかし、レンが風呂に入ってる間に、リンが冷蔵庫を覗くと、残りの食料は、魚肉ソーセージ1本とおにぎりが3つ、1リットル入り野菜ジュースがパックに半分だった。
「何をどうしても、足りない」とリンは言い切った。
成長期の上、毎日体力をフルで使っている二人は、恐らくこの後、魚肉ソーセージの争奪戦を繰り広げることになるだろう。
リンは、レンが風呂から上がってこないうちに、魚肉ソーセージを、一気に食った。そして、ゴミを隠蔽し、おにぎりを1個だけ目の前に置き、レンの席には2個のおにぎりを置いた。
ハーフパンツとフード付きTシャツの姿になったレンが、髪を拭きながら脱衣所から出てくる。髪を下ろしているレンは、リンとほとんど見分けがつかない。
「あれ? 飯、おにぎりだけ?」と、レン。
「うん。これしかなかったから、レンは2個食べても良いよ」と、リン。
「ありがとう…と言うと思ったか?」と、レンはリンの口を指さす。「お前の口から魚肉ソーセージのにおいがするのは分かっている!」
「な、何言ってんの。お茶しか飲んでないよ」と、リンは言い訳をする。
「お茶が切れていることも、俺は知っている。そしてお前の『悪意』が囁いている。『働いたほうが多く食うのは当たり前だ』とかなんとか」
「あんたの能力はそんなところだけ秀でてるわけ?」
「やっぱり、食ったんじゃないか」
「う…」と、リンは言葉を詰まらせる。
「おにぎりを全部よこせば許してやる」
「やだ。私だってお腹減ってるんだもん」
「『食べ物は均等に』が、家訓だろ! 良いからよこせ! あ。よりによって、俺に梅干しでお前は明太子か?!」
「私、大人二人相手に戦ったんだよ?!」
「仕事は分担! 飯も分配!」
「この家は二次大戦中なの?!」
双子はギャーギャー言い合いながら、おにぎり争奪戦を繰り広げた。
寝室に布団を並べ、眠る前にリンはレンに聞いた。
「ねぇ。なんで、仕事に行く前のミク姉と話したくないの?」
「別に。話したくないわけじゃない」と、レンは布団の中で目を閉じたまま答える。「話しにくいだけだ」
「少年は、色っぽい服装はお嫌いですか」と、リンはからかう。
「俺が2年遅く産まれたのを、恨んでるだけだよ」と、レン。「俺も、16になったら金の稼げる仕事を始める」
「今の『仕事』を賃金制にしても良いんじゃない?」と、リン。「私立探偵ってものがあるなら、私立護衛って仕事もあって良いと思う」
「なんにせよ、新しい仕事を始めるなら資金が必要だろ?」レンは人生設計についてしっかり考えているようだ。「体が鍛えられて、なおかつ俺達3人が食べて行けて、貯金もできるだけの職…」
「それなら、土木作業員が良いんじゃない? あれ、資格も要らないし、中卒でも始められるし」
「俺達は学校に通ってないだろ?」
「そっか。それじゃぁ…職人? 絵皿の絵描く人に成れば?」
「お前、本当に真面目に考えてるか?」
「ああ、レンは結構真剣に考えてるんだ」と言い、リンは笑ってごまかす。「大人になったらかぁ…。そりゃ、ミク姉の稼ぎにだけ頼るわけにいかないしね」
「その通り。俺達は自分の飯代くらい、ちゃんと稼げるように…」
そこまで言いかけて、レンは眠ってしまった。
リンは、ミクの仕事が「歌を歌うこと」であることは分かっているが、夜のバーに出入りする以上、完全に安全な仕事でないことも承知している。
今日遇った知らないお姉さんも、もう少しでひどい目に遭う所だったんだろう。
悪意のはびこる街。リンはそんな言葉を思い浮かべて、自分達は何処まで戦い抜けるのかを、ぼんやりと考えるのだった。
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