終章 雨降って地固まる
「きゅ、休暇取り消し!?」
二日後の夕食後、アズリの泣きそうな悲鳴が部屋に響いた。そのまま蹲って地面に向かって呪いの言葉を吐き出し始めた恋人を見て、極大の疲労感を覚えつつ頭を掻く。
認める。レンが悪い。
他の女性と一週間も現を抜かし、その我慢代として提示していた休暇をこちらの都合で取り消してしまったのだから、いくら人間ができていても物申したくなるだろう。
「あんまりです。酷いです。せっかく仕事詰めてましたのに。確かに色惚けで謹慎喰らった私も悪かったですけど、でも次の日からは頑張りました」
休暇のために菓子屋巡りを計画していたらしく、その為の専用地図をコツコツと自作していたのは知っていた。申し訳ないのだが、イルにもいったん了承してしまった以上は後には引けないし、今回の事件で仕事も増えてしまったのだ。
「心底悪かったって思ってるよ。来週中には一日は休みとれると思うから、ね?」
床にのの字を書きながら永続的に不満を吐き出し続けている、黄緑色の少女を後ろから引き上げて抱きしめる。普段ならこれで大抵機嫌を直してくれるのだが、やはり今回はそうもいかなかった。
引き続き頬を膨らませて抗議の視線を送るアズリに、レンは最後の手札を出すしかない。片腕でアズリを抱きしめたまま、懐から輝く鎖を取り出した。意外に光物好きの恋人が注目するが、すぐに黄緑色の瞳に『誤魔化されるもんか』と睨みつけられた。
それを軽く受け流しつつ首にかけてやり、派手ではないが飾り付けられた鎖のトップとなる一つの鍵を付けてやった。貴金属と宝石で造られたそれに、アズリの目がプレゼントにも負けない輝きを放ち始める。
「これで手を打たない?」
「……なんですか? これ」
まだまだご機嫌とは程遠い反応だが、多少は怒りを納めてくれたらしい。
「僕の寝室の鍵。本当はこんなに豪華じゃないんだけどね、職人に頼んで作り直してもらったんだよ」
レンの用心深さを知っているアズリは、無くすのを危惧するようにぎゅっと握りしめた。
「いいん、ですか? これ、私が持って」
「うん、持ってて」
いつでもおいで。と頬に唇を押し付けると、単純、もとい素直な恋人は赤面しながらも嬉しそうに笑い、振り返ってレンの頬にキスをした。
抱きしめて今度は唇を重ねながら、何とか危機的状況を回避したと内心で溜息をついた。本当は初めて寝た次の朝に渡すつもりだったのだが、宇宙遊泳から帰還していない彼女に渡すとあっという間に鍵を付け変える羽目になりそうだったので、何日か間を置くことにしたのだ。
それが思わず形で役に立った。抱えた恋人を寝室のベッドに運んで服に手を掛けながら、この偶然に感謝した。
「結婚して下さい」
お楽しみが終わって風呂に入って寝間着を来てアズリの髪を乾かしてやっていると、恋人がこんなこと言いだした。唐突だったのできょとんとしていると、鏡越しに移る黄緑色の目は真剣そのものだ。
「もう今回みたいなこと、二度とごめんです。いっくらなんでもちゃんと婚姻を結んでおけば、こんな嫌な仕事もう来ないじゃないですか」
レンにとって、今回の仕事が嫌だったかと聞かれればそれ程でもないのだが、当然そんな事を言ってもせっかく治った機嫌を損ねるだけだ。そもそも提案に異論は無かった。
「それもそうか。忙しいから挙式とか上げられるか分かんないけど、それでもいい?」
「構いません。でもウェディングドレス来て、ヴィンセント様に絵を描いてもらいたいです。ほら、レンさんとリンネア王女様みたいに!」
研究所に保管してある肖像画は一度か二度見せた事があるので、それと似たようなものが欲しいらしい。
「それもいいね。少し後になるかもしれないけど、描いてもらおうか」
恋人の発想に素直に賛成するとぶんぶんと首を縦に振られ、せっかく梳かしていた髪がまたばらばらになった。
「書類は明日提出しとくよ。婚約指輪とか、どんなのが欲しい?」
お互いの署名は必要だが、アズリの筆跡を偽造するなどレンにとって児戯に等しい。
「それはいらないです」
「え、いいの?」
きっぱりと断られ、さっきも言った通り光物好きのアズリの反応に驚いた。
「このブローチと鍵があれば十分です。これ以上は要りません」
ずっと付けっ放しだった鍵をい通し愛おしそうに撫で、またしまりのないにやけ顔をする。鍵ごときでそんなに嬉しいものだろうか。
「その分だと心配ないと思うけど、無くさないようにするんだよ。もちろん他人に渡すのも連れて入るのも論外だよ。どんな親しい人であってもね」
「もちろんです!」
元気の良い返事だが、彼女の性格所多少の不安は拭えない。けれど、その僅かな危険と引き換えにアズリが笑ってくれるなら、安い代償な気がした。
「それと、万が一無くしたらすぐに言うこと。怒らないから」
頭を撫でながら言うと、子供扱いに不満らしく口がへの字に曲がった。
「それくらいは分かりますよ」
「うん、よろしくね。……これから一生」
二人で顔を合わせて微笑んだ。
「よろしくお願いします、レンさん」
レンに配偶者ができた瞬間だった。
報告するとイルもヴィンセントも喜んでくれ、特にあの優しき軍人は涙を流して抱きつかれた。二メートルを超える身長と長年の従軍で鍛え上げられた筋肉を持つ巨漢の抱擁に、レンは人生で五指に入る命の危機を覚えた。
忙しいからいいと言ったのに、イルの計らいにより小規模ながらも挙式は行われて、何故かカイル王子まで来る事態になった。それ以上呼ぶとただの接待になるので、彼が唯一外国の政治に関わる賓客となった。
「……。…………。………………。…………………おめでとうございます、悪ノ召使」
恐らくはイルから半強制的に参加させられていただろうディーにこう言われて、口を開けたまま数秒間眺めてしまった。
「ありがとうございます、ディーさん」
これも親友が言わせているのだろうが、挙式で言われた言葉の中で一番の祝辞だった。足早に去って行った総務大臣を見送ってから、気遣いに対する礼のために紅髪の王に近づく。
「ディーさんに無理させたらだめだよ。でも、ありがとう」
「あ、何が?」
料理を食べ漁っているイルに声をかけるが、意味不明と首を傾げられた。
「え、だから言ってくれたんでしょ? 僕にお祝い言えって」
「いや、参加しろとは言ったけどそこまで指図してねえよ。あいつ、なんかしたのか?」
好奇心と期待の入り混じった目で探られる。話してしまえばディーさんをこの天真爛漫な王様はからかいに、いや本人にとってはそのつもりは無いのだろうが、とにかく反応を見に行くに違いない。
少なくとも、素直じゃない総務大臣はそれを喜びはしないはずだ。
「別に? おめでとうって言ってくれただけだよ」
だから極力どうでもいい事のように口にしたのだが、そんな振りが付き合いの長い義弟に通用するはずもなかった。
「全然、別にって顔してねえぞ。良かったな」
にやりと笑ってぽんと肩を叩かれる。
「ディーだって、レンに感謝してる所たくさんあるんだ。ま、過去が過去だから時間はかかると思うけど、ちゃんと仲直りできると思うぞ」
「うん、だといいな」
また一つ、心の重荷が減った気がした。
「レンさん、この鶏肉美味しいですよ!」
ウェディングドレスの手袋を式の開始十分で脱ぎ捨て、その五秒後には袖をまくって摂食行動に集中している恋人が、皿に山のように載せてある料理の一つを指差しながら近づいて来る。持参してきた紙ナプキンにグラスの水を染み込ませて、ソースで汚れたアズリの口元を拭った。
「せっかくいい格好してるんだからね」
やんわりとした注意を聞いているのかいないのか、いや、聞いてないだろう。
「この照り焼き具合が絶品なのですよ。こっちは塩加減が……」
延々料理の豆知識、それも味に関するものだけを解説していく数日前から同じ名字を持つ女性を眺めているだけで、心からの充足を味わえるようだった。
人生でこう思うのは、初めてかもしれない。
これからの未来が楽しみだ――と。
悪ノ召使 番外編(終章
これにて悪ノ召使番外編は終了とさせていただきます。このレンとイルを書くのは大好きなので、外伝は思いついたら書こうかとは思っています。
本編が重い内容なので、番外編は笑える内容にしようと心がけていたのですが、意外に黒い内容になってしまいました。もっと酷くするとまたお涙頂戴になってしまうので、そこは黒くても強い彼ら書くよう努めていました。
今ぼんやりと頭に浮かんでいる外伝は、レンがアズリのご両親に結婚前のご挨拶に向かう。なんてのです。序盤は思いつくのですが、落ちが思い付かないのでまだ執筆には至っておりません。
気長に待って頂けたら幸いです。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。もしよければ、ほんの一言感想を頂けたならと思います。
さて、実は次の今シリーズはもう執筆がほぼ完了しておりますので、時間ができ次第投稿いたします。内容は革命十七年後、簡単に言いますとレンとイルが父親になってからの話です。
近日中に投稿しますので、そちらもよろしくお願いいたします。
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ご意見・ご感想
matatab1
ご意見・ご感想
「ディー、なんだかんだ言いつつ良い奴だよな……」
読み終わって真っ先に思ったのはそれでした。多忙すぎて余裕は無いでしょうが、彼にも幸せになって欲しいです、本当に。それだけ貧乏クジ引いてますし。
というかレン、婚姻の署名まで偽装しようとするのはやめましょう(笑)アズリは気にしなさそうだけれど、乙女心を無視しちゃいけませんw
ヴィンセントとサリーは番外編で結構弾けてましたね。書類上だけでなく、本当に結婚しちゃえばいいのに。レンの事を気にかけたり、からかったりする辺り結構似た者同士ですし。
レンが父親になってどうなっているのか楽しみです。
2011/04/04 23:06:57
星蛇
早速ありがとうございます!
ディーの評価を上げてくださったのはとても嬉しいです! 完全無欠の唯我独尊主義のキャラが大半を占めるこの物語の中で、彼は唯一己の欲求と戦い続けている方だと思っています。うん、貧乏籤ばっかりですね。
効率主義のレンには一つの書類に二人も取りかかるのが許せないのでしょう(笑)
サリーは意外に唯一レンが逆らえない子だと思います。リンのことでも負い目がありますからw ヴィンセントは、なんだかボケキャラに近い位置になっていましたね。本ルートの番外編といい、もう少し活躍させたかったのですが間が取れなかったのですよね><
父親編ではレンはヘタレンです。
当初、またたびさんの書くような優しき物語を目指してテーマは『牙の抜けた狂犬』のはずだったんです。しかし、やはり魔王は降臨してしまいました。……どうしてこうなった? とにかく近日投稿いたしますので、その時にまた読んで頂ければと思います。
2011/04/05 05:22:39