風が、優しく吹いて木の葉をそよがせる。
此処に来たのは、ずっとずっと前。
私が、まだ小さかった頃。父様も、母様もいた頃。
父様のお気に入り遺跡。お弁当を用意して遊びに来た。
忙しかった父様が、珍しく私を膝に乗せて。
楽しそうに、子どもみたいに目をキラキラさせて、お話をしてくれた。
遠い遠い昔の街の、素敵なお話。
あまりにもそれは長くて、母様はあきれた顔をしておいでだったけれど。
私はそのお話も、その舞台である此処も。
話してくれた父様も、見守ってた母様も。
三人で過ごす、その時間も。
本当に……大好き、だった。
まだ、追っ手は見えない。
私は逸る気持ちと胸を押さえて立ち止まり、上がった息を飲み込んだ。
苦しくて、喉から口の辺りに少し金気の味がする。
少し滲んだ涙を、手の甲で一息に拭った。
手に握っているのは、父様の形見の短剣。
目の前には、小さな塔の入り口。
薄闇の中に、崩れそうな螺旋の階段。
一つに足を掛けて、壁に手を沿わせて。
あの頃は、父様に抱えられて上った階段を。
一段ずつ、上った。
今は、ひとりで。
父様と母様は、あれから間もなく、世を去った。
事故だと、聞いた。
表向きは。
私は親戚に引き取られ、養女として育てられた。
長じて知ったのは、父様と母様が亡くなった本当の理由と。
強欲で汚れきった世界だった。
螺旋の階段が、終わりに近付いて。
薄暗い闇に、そこだけ繰り抜いた様な。
眩しい、光のアーチ。
耳の奥に、父様の声が聞こえる。
「ほら、ご覧。あの先に、とっておきの景色が待ってるよ。」
思わず、涙が一粒零れて。
強く強く瞼を閉じた。
昨晩、私は養父母に呼び出された。
真相を知ってから、二人の前では微笑むことも忘れた。
そんな私を、二人は疎んでいたけれど。
あの時は、いやに嬉しそうで。
重苦しい予感を振り払えないまま。
名を呼んだ二人は、私を奈落の底へ落とした。
父様と母様が、一番嫌がっていたことの為に。
父様と母様を、闇へ葬った者の利益の為に。
私は、花嫁という名で売られていく。
相手の名など、覚える気にもなれなかった。
二人の前を辞して。
部屋に戻って。
声を押し殺して泣いた。
泣き疲れて、眠って。
夢に出てきたのは、この遺跡だった。
父様と母様との、思い出の場所。
無性に行きたくなった。
捕まれば、きっと手酷い罰を受けるだろうけれど。
そんなことはもう、どうでもよかった。
私は、部屋に隠していた形見の短剣だけを持って。
夜明け前に、屋敷を抜け出し馬を駆った。
屋敷を出る時に、何人かが私を指差したのを覚えてる。
多分、跡を追われてるはずだった。
無我夢中で、馬を急かして。
日が山の端を離れて明るく輝くまで。
私は休まず走り通した。
塔の下から、風が吹き上げて。
スカートを煽って、アーチの向こうへ抜けていく。
「綺麗だろう? 私はこの場所の眺めが、一番好きなんだ。」
父様の嬉しそうな声が、朧気に響く。
ここへ私を連れて来た時、父様はきっと思ってもみなかったろう。
娘が死に場所に選ぶなど。
ごめんなさい。父様。
何故か、どうしても。
死ぬなら此処がよかった。
あの景色を、最後に見たかったから。
私は涙をまた拭って。
光のアーチの向こうへ進んだ。
注ぐ日の光と、照らされた木々の緑と。
崩れた古い街並み。辛うじて遺った壁の彫刻。
幼い頃に見たそのままの。
美しく、哀しい景色が広がっていた。
もう、これで思い残すこともない。
私は短剣を引き抜いて、鞘を手から滑らせた。
足元で硬い音を立て、小さく跳ねて、途切れた足場の向こうへ消えた。
父様の短剣の一部。この場所で眠るのが一番いい。
柄を持ち替えて、その切っ先を我が身へ向けた。
私も、もうすぐ此処で眠るのだ。
「何を、してるんだい?」
突然降ってきた声に、思わず声を呑む。
振り返ると、宙に人が浮いていて。
空より青い瞳を細めて、人懐こく笑うその表情に。
私は思わずへたり込んだ。
「あ……あなたは、誰……?」
辛うじて出した声は、擦れていて。
なのにその人は、それを気にする素振りもなく、私の隣に降り立った。
「僕? 僕は魔法使いさ。」
その姿は、魔法使いと言うには軽やか過ぎて。
どこかの貴公子のようだった。
低い声が、微笑む顔に違わず穏やかで。
見下ろせば竦みそうになる縁へ、躊躇いもなく彼は腰掛けた。
「ここの眺めが好きなんだ。」
私はただ呆然と、横に座った彼を眺めた。
「物騒な物を持ってるね。どうしたの?」
視線は先を眺めたままで、静か過ぎる声音で。
一瞬、私に向けられた問いだと、気付けなかった。
今度は彼は振り向いて、真直ぐ私の瞳を見つめて言う。
「僕でよければ、訳を聞かせて。」
声と言葉の優しさが、私の心に沁み込むようで。
後から後から涙が零れた。
ぽつり、ぽつり、と。
私は話を始めた。
昔のこと。
父様と母様と、ここに来たこと。
遺跡にまつわる、古い話が好きだったこと。
二人が、戦を疎んでいたこと。民に慕われていたこと。
そして事故に見せかけて殺されたこと。
もらわれた先が、その黒幕だったこと。
彼らの思惑のまま、戦仕度の一つとして、間もなく売られていこと。
それが嫌で、最後にここを見て死のうと思ったこと。
逃げ出し、そして追われていること。
話し終えて。
私も彼も黙ったままで。
二人の間を、静かな時間が流れる。
先に口を開いたのは、彼の方だった。
「じゃあ僕と逃げようか。」
「え?」
風が木々の葉を、私と彼の髪をそよがせていく。
「追いつかれる前に、別の所へ逃げてしまえばいい。」
思ってもみないことを言われ、目を瞬かせた。
「別のって……どこへ?」
「どこへでも。君が追われることのない場所へ。」
風に煽られ舞う緑が、私を通り過ぎて彼の向こうへ流れ、消えていく。
出逢ったばかりの、全く見知らぬ魔法使い。
私の素性も何もかも話したけれど。
それだけと言えばそれだけ。
なのに。
心に浮かんだ不安も疑問も、真直ぐ向けられた青が吸い込んでしまった。
「……あなたの、名前は……?」
「僕? 僕はカイトだ。……君は?」
「……メイコ。」
「メイコか。いい名前だね。」
そう言って笑うと、彼は私に腕を差し出した。
「行こう。僕の腕につかまって。」
私の手から、短剣が滑り落ちて。
縁に当たり、一つ澄んだ高い音を立て。
柄と同じく縁の向こうへ吸い込まれて消えた。
躊躇いがちに、彼の腕を両手でそっと掴む。
すると彼は首を横に振って、私を抱き寄せた。
「もっとしっかりつかまって。」
私は、彼の腕を抱えるようにつかまる。
それを見て、彼は目を細めて言った。
「それでいい。行くよ。」
彼が抱き寄せていた腕を離して、身を乗り出すと。
全身が、不思議な感覚に包まれた。
裸足の私の足の下には、遠い遠い昔の街並み。
目の前には、美しい景色がどこまでも広がって。
何時の間にか、私の涙は止まっていた。
隣を見上げると、彼の眼差しが遥かな先を見つめていて。
私は彼となら、どこまででも飛んでいけるような気がした。
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