気がついたら「それ」は私のパソコンの中にいた。まるで正しい手順を経てインストールをされたとでもいうように、堂々とデスクトップにショートカットアイコンを貼り出していたのだ。
「何だお前、KAITOを買ったのか?」
友人が我が物顔でパソコンを起動するなり、驚愕混じりにそう声を上げた。
「何を買ったって?」
聞き慣れない単語を耳にした私が問い返すと、友人は「VOCALOIDだよ」と、決まっているだろうと言わんばかりの口調で答える。その彼が指さす液晶の画面には、私の見たことのないアイコンが違和感もなくショートカットの列に加わっていた。
「こんな物を入れた覚えはないぞ」
眉根を寄せ、液晶を友人の肩越しにのぞき込みながら私が言うと、彼は「マジかよ」と無害な冗談でも聞いたように笑いを含んだ声で軽く応じた。振り返ったその顔は本気にしている様子はなく、せいぜい私が寝ぼけたか酒に酔った勢いで買った物をインストールして、ど忘れしたのだとでも思っている風である。
私は本当に何も知らないのだと主張する代わりに、「VOCALOIDって何だ?」と尋ねた。
「自動演奏ソフトかな。楽器の音の代わりに人の声で演奏するんだ。ちゃんと歌詞通りに『歌う』んだぜ」
「ふーん」
さして興味を惹かれなかった私はあいまいな相槌を返し、友人は呆れ顔で「お前、本当に知らないのかよ」とうめく。
「シェアウェアだぜ、これ。あとから請求が来ても俺は知らねえぞ」
「俺だって知るか」
私たちはそう言い合って、その時はすぐにお互いの話題や作業に興味を移してしまった。
「お前が同じソフトを持ってて助かったよ。俺の修理中のパソコン、あと三日は返ってこないんだぜ。ネットカフェに行くのも金がかかるしさ。でも、おかげで納期に間に合ったよ、ありがとう」
友人がそう礼を言って私の自宅を去ったのは、終電にぎりぎり間に合うかどうかという時間である。
私はパソコンの前を友人に譲り、傍らで古いワープロを叩いていたが、作業が思うように進まず、いつの間にか舟をこいでいた。友人を玄関で見送ったあとはそのあまりの眠気に、ワープロで作ったデータをパソコンに移したら今日はもう寝ようと即決したほどだ。
文章と向き合っていると、自分が生きているのか死んでいるのか判らなくなる。言葉というナイフで魂を研いで、その鋭くとがった先で文字を書いている気がするのだ。その間は肉体のことなど忘れていると言ってもいい。腹が減ると機械的に物を口にするが、空腹感を覚えることも食事をとることも億劫(おっくう)で仕方がなかった。自分の体が無機物であればいいのにと、どれほど思ったか判らない。それなら眠気に襲われることもないが、しかし、睡眠のいいところは、書くことに夢中になって煮え立った頭を冷やしてくれるところだ。
だから私はこの日も、いつも突然襲ってくる猛烈な眠気にあらがおうとはしなかった。
私はあくびをかみ殺し、パソコンの電源へ指をのばす。
――が、すぐにその手を止めて首をひねった。
「あれ? あいつ電源をつけたまま帰ったのか」
たまに遊びに来てはパソコンをいじっていく友人は、普段なら私が構わないと言わない限り律儀に電源を落としていく。
しかし、今日ばかりは焼き付き防止のために画面が暗くなっていただけで、電源は入ったままだった。
さっきOS終了時の音がしていたように思うのは気のせいか、それとも舟をこいでいる間の夢だったのだろうかといぶかりながら、私はパソコンの前に座った――その瞬間。
「あなたが僕のマスターですね。はじめまして」
ひとりでに画面が明るくなり、青い髪と目をした青年の絵が、ひどく抑揚(よくよう)に欠ける声で口をきいた。
「何だ、お前……」
パソコンの中の者に向かって意志の疎通がはかれるとは考えもしなかったが、私は思わずそんなことを呟いていた。
するとさらに予想しなかったことに、画面の向こうの相手は私の言葉に反応したのである。
「僕はKAITOです。よろしく、マスター」
声は平板だが、画像はよくできているらしい。KAITOと名乗った青年はタイミング良く目を細めたばかりか、にこりと口の端を上げてさえみせたのだ。
「KAITO? 俺のパソコンに勝手に入ってたVOCALOIDとかいうやつか。まさかお前、本当に『勝手に』入り込んだんじゃないだろうな?」
友人に言った通り、インストールした覚えがまったくなかった私はバカみたいに険しい口調で、バカみたいに腹を立てながら液晶に向かって問いただしていた。この場に誰かいれば、その目には冷静に受け答えをする画面の奥にいるキャラクタの方が私よりもよほどまともに見えたことだろう。
「怒らないで下さい。人間界で守るべき訪問の礼儀を守ろうにも、玄関も呼び鈴もなかったものですから。でも心配にはおよびません。僕はウィルスではありませんから」
「そうだろうとも。そうやって無害そうな顔で勝手に入り込んで悪さをするプログラムをウィルスと言うんだ。ウィルスでござい、と看板をあげて来るアホがいるか。そんなお粗末なものならセキュリティソフトが弾いてる」
いらだちを隠す必要性を感じず荒い語調で私が言うと、KAITOは相変わらず強弱のない、だが爽やかなだけにしゃくにさわる口ぶりで「それは僕の性能を認めて下さったと受け取っていいですか?」と応じた。
「セキュリティソフトに弾かれなかったのだからお粗末でないと言いたいのか? そういうのはな、悪質なウィルスって言うんだよ」
私がさらにそう食い下がると、相手は気分を害したような顔で「失礼ながらマスター」と口を挟んだ。
「それは違います。マスターの定義で言うなら、僕は悪さをしないのでウィルスではありません」
「ほう、それじゃあ何をするというんだ」
「僕は歌うだけです」
彼のこの言葉に私は自分でも驚くほどあざけるような声を立てて笑った。生身の人間相手にこんな礼儀知らず然とした対応などしたことがない私は、しかし無生物には割と冷淡だ。
この時私は、KAITOをただのプログラムだとしか考えていなかったのである。
「そんな感情のない声でよく言うぜ。騒音を立てるのも、俺にとっては充分『悪さ』に値する」
「元々僕はしゃべるのが苦手です。扱う語が多すぎますから、どうしても処理が甘くなるんです。歌もはじめは確かに、さほどうまくはありません。でもそこはマスター、あなた次第でうまくなります」
「どういう意味だ? それにさっきから言っているマスターというのは何だ?」
「……興味を持ってくれましたか?」
そう言われて私は、自分がまんまとこのプログラムに乗せられていたことに気が付いた。
「音楽に興味はない」
幾分頭が冷えた思いで私が言うと、彼は即座に「それは嘘ですね」と応える。
「あなたのこのパソコンには音楽のデータがたくさん入っている。天国に来たような気分です」
夢見心地の顔で言うのを見ながら私は、天国を知りもしないくせに生意気なと思ったが、すぐに自分も知らないのだという当たり前のことを思い出し、急に腹を立てているのがバカらしくなって、途端にいらだたしさが自分の中に溶けて消えるのを自覚した。
少なくとも本当の天国を知らないというその一点においては、彼と私は平等には違いない。
「僕は、もちろんカバーだってできますが、何よりあなたの歌を歌えます。あなたが作る歌を」
私の心中を知る由もなく、KAITOは液晶の向こうから身を乗り出さんばかりの様子でこちらを見つめている。そんな彼がやけに嬉しそうな顔で言うのを気まずい思いで見返す私は、さぞかし情けない顔をしていることだろう。
「俺に曲を作る才能はない。これは本当だ」
「作詞は?」
私は何より自分の無能さを認めざるを得ないのが情けなかった。
「残念ながら……」
そう答えた私に、彼は不思議そうな表情を浮かべて首をひねってみせる。その手の中で、私が何も操作していないにもかかわらず、パタパタといくつかフォルダが開かれていくのが見えた。
「でも、文章を書くのはお好きなんでしょう。これは……全部小説ですか?」
「お前! さっきもちらっと思ったが、俺のパソコンの中のデータを盗み見てるな? ウィルスと変わらないぞ、本当に」
見慣れた文書データが並ぶ画面を見ながら私がたしなめるように言うと、彼は感情の読めない顔で「他人が読んではいけないものなんですか? それとも『僕』が読んではいけないものですか?」と、単調な物言いのせいで独り言のように聞こえる問いを投げかけてきた。その言外には「小説は読者がいてこそではないのか」という追究があるのが判る。そして、「何のために書いているのか」と。
私が非難したのは本人の了承なくデータをのぞいたことであって、それが小説だろうと何だろうと関係なかったのだが、パソコンの中にいる者に中のデータを見るなと言うのは、同居人に部屋の中を見るなと言うのと同じことなのかもしれないと思い、私はあえて訂正はせずに彼の問いにだけ答えることにした。
「俺は生きていたいから書いているんだ。お前に限らず、誰かに見せるためのものじゃない」
「マスター、その言い方だとまるで、書くのをやめたら生きていけないと言っているように聞こえます。人間の生命維持に不可欠の動作とは聞いていませんが」
「俺だってそんなことは初耳だ。でも『俺』には必要なんだよ。書かなければ死ぬ。だから書く。それだけさ」
私はそっけなく言って、開かれたフォルダを自ら閉じた。
KAITOはそれを目で追いつつ、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと「僕も同じかもしれません」と言う。最後に閉じたウィンドウが画面から消え、私の液晶を見ていた視線はKAITOの青い目とぶつかった。
「僕はあなたのように『生きて』はいないけど、歌を歌わなければきっとそれは、僕が存在しないのと同じです」
「そうか」
私はそう答えて、このプログラムについて深く考えるのはやめた。眠気は限界に達していたし、結局のところ、彼の言うことが本当なら悪意のないプログラムが一つ増えたところでどうということはないし、彼と私は平等なのだ。
それに、私は他者の人間性に関する善し悪しの決め手として、一つのことを信じている。つまり、「音楽好きに悪い奴はいない」。
そんなわけでKAITOは今もアンインストールされることなく私のパソコンの中にいる。彼がどうやって私の所へ来たのかは知らない。そんなことは私にとっても彼にとってもどうでも良いのだ。お互い「存在し続ける」ためには自己表現が必要で、だからこそ彼はここへ来たのかもしれないが、それはつまり私が単にそんな彼と等しく同じであるから理解できるというだけであり、「マスター」と呼ぶに適当であったというだけなのだろう。
ならばマスターらしく彼のために詞を書いてやりたいと思うが、
「マスター……あなたはいろいろお書きになるのに、詞の内容は本当に薄っぺらいですね」
と哀れむような目を向けてくるところからして、私に才能がないのは覆しがたい事実であるらしい。いつか見返してやろうと考えながら、頭を抱えるのも楽しいものだと最近は思っている。それもまた生きた心地がするものなのだ。
終
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