『RENT』が始まると、巡音さんは真剣な表情で、画面に見入っていた。実を言うとちょっとばかり、巡音さんには刺激が強すぎるんじゃないかなあと心配していたんだが――何せドラッグやエイズや同性愛が題材の作品だ――杞憂だったらしい。
『RENT』が終了した後、巡音さんは黙って画面を見ていた。集中しすぎて気が抜けたらしい。……こういう時は、そっとしておこう。俺は立ち上がって、お茶のお代わりを淹れに行くことにした。……全部最初にこっちに持ってきておけば良かったかなあ。今更そんなことを考えても仕方ないか。俺は急須にお湯を入れて、居間へと戻った。
新しくお茶を入れた茶碗を目の前に置くと、巡音さんははっとした表情になって、こっちを見た。
「……ありがとう」
「どういたしまして。で、どうだった? 『RENT』」
訊いてみると、巡音さんは考え込む表情になった。
「その……すごく、力強い作品なのね」
あ、巡音さんもそう思ったんだ。
「そう思う?」
「ええ」
『RENT』は、エネルギーに満ちた作品だと、俺は思う。ラーソンの最初の大掛かりな作品だから、ラーソンはこの作品に、ありったけのエネルギーを詰め込んだんだろう。そのせいで、寿命が縮まったのかもしれないけど。
「『ラ・ボエーム』とは、同じようで全然違うから、ちょっと驚いたけど」
確かにそうとも言えるなあ。話の流れは基本的に一緒なんだけれど。
「『ラ・ボエーム』は恋愛だけに話を集中させていた感じがするけど、『RENT』では、生きていくことに焦点が当たってるから」
俺がそう言うと、巡音さんはまた考え込む表情になった。
「でも、今日だけをみつめて生きて行くっていうのは、何だか悲しい感じがするわ」
「そうかな?」
それだけ、ラーソンが生きていくことに前向きだったんだと思うけど。
「だって、過去も未来も見なくて、ただ、ここにある今だけを見つめて生きるんでしょう? そうやって刹那の生に意識を集中させてしまえば、過去のことも未来のことも、思い煩うことはないわ。でも、そうしないと生きていけないっていう、その事実自体が辛い気がするの。そうやっても結局、日々は過ぎて行くんだもの。積み重なってできた過去という時間を、全部見ないようにしちゃっていいの? 無かったことにできるの? その人を形作るのが、過去なんじゃない? それを忘れて生きられるものなの? 未来だってそうよ。見ないようにしたって、いつかは来てしまうわ」
巡音さんがこんなに喋ったのって初めて聞いた気がする。……それはさておき、俺は、巡音さんに言われたことを考えてみた。言いたいことはわからなくもないが……。
「確かにそういう側面もあるんだろうけど……ロジャーもミミもエイズだし、ああいう『死が目の前にぶら下がっている』状態だと、それこそ、今、巡音さんが言ったように、その日一日一日だけに、意識を集中させていかないと辛いのかも」
自分の人生が終わる音が、聞こえてくるようなもんだろうし。でも、それだけじゃあないと思う。
「でも、ラーソン――あ、このミュージカルを作った人なんだけど――が考えていたことは、それだけじゃあないと思うな。このフレーズは最初、部屋に閉じこもっているロジャーをミミが誘いに来るシーンで使われるし。『悔やんでばかりだと人生を逃す』という歌詞にもあるとおり、過ぎた時間に囚われないことを訴えたかったんじゃないのかな」
そう言うと、巡音さんはまた考え込んだ。それからしばらくして、巡音さんはぽつんとこう言った。
「ロドルフォは、結局、見たくなかったのよね」
「何を?」
「ミミがもうすぐ死ぬっていう現実。ロジャーも、きっとそう。自分もミミも、そんなにしないうちに死んでしまう。だからロドルフォは第三幕でミミと別れるし――春が来るのに別れるなんて、変だもの――ロジャーはギターを売ってサンタフェに引っ越すんだわ」
『ラ・ボエーム』のロドルフォは、ミミを想いながらも探そうとはしない。一方、『RENT』では、ロジャーはミミこそが探し求めていた存在だと気づき、ニューヨークに帰ってきてミミを探す。
ロドルフォは最後まで現実を見なかったけれど、ロジャーは現実に向き合ったんだ。だから、一度握ったミミの手を離そうとしないロジャーに対し、ロドルフォはミミが死んでしまったことに気づかない。
じゃあ、最後でミミが死なないのは、現実に向き合ったロジャーの為に、ラーソンが用意したハッピーエンドってことか? そう考えると、つじつまがあうような気がする。
……こうやって、一つの――あ、この場合二つか――作品について、意見を交換しあえるのっていいな。
俺がそんなことを考えていると、階段を下りてくる足音が聞こえてきた。……姉貴だな。邪魔はしないんじゃなかったっけ。
「ちょっといい?」
部屋のドアを開ける前に、外からそう訊いてくる辺り、気は使ってくれているらしい。
「いいよ」
俺がそう言うと、姉貴は居間に入ってきた。
「姉貴、何か用?」
「あんたたち、お昼はどうするつもりなのかって訊きに来たのよ」
言われて俺は時計を見た。そういやもう十二時を回ってしまっている。
「何、姉貴、作ってくれるとでもいうわけ?」
「……あんたねえ。まあ、そのつもりで下りて来たんだけどね。スパゲッティでいい?」
「作ってくれるんなら、なんでも」
この際、贅沢は言えない。
「巡音さんもそれでいい? 姉貴の飯、一応それなりに食えるから」
「あのねえ……それが、作ってもらう側の言う台詞?」
呆れた声で姉貴がそう言ってくる。だって姉貴の料理って、下手すると野菜ばっかりどかーっと入ってるし。姉貴の主張するところによると「あんたが作ると動物性タンパク質ばっかりになるから、こうやってバランスを取ってるの!」だそうだが……。
「あ……わたし、自分の分はお弁当持ってきたんですけど……」
おずおずと巡音さんが割って入った。
「お弁当? そういやハクちゃんのお弁当は、いつも手が込んでたわね……」
姉貴は唐突に回想モードになった。えーと、参ったな。巡音さんは、お姉さんの話はあんまりしたくないみたいなんだが……姉貴、察してくれよ。よくわからないけど、何か洒落にならない状況かもしれないんだから。
「でも折角来たんだから、少しは食べて行ってちょうだい」
「あ……はい」
姉貴は台所に行ってしまった。巡音さんは見るからにほっとした様子。やっぱり、お姉さんのことは話したくないらしい。
「巡音さん、ちょっと待ってて」
俺は立ち上がると、姉貴の後を追って台所に行き、境の戸を閉めた。姉貴は、ちょうどお湯を沸かしているところだった。当然、換気扇がついている。……これなら、多分巡音さんには聞こえないな。
「姉貴」
「何? 忙しいんだけど」
言いながら、姉気は冷蔵庫からキャベツを取り出した。
「キャベツか。キャベツならいいけど、ブロッコリーはやめてくれ」
「あんた、わざわざそんなこと言いに来たの?」
あ……いけね。こんなこと言いに来たんじゃなかった。
「いや違う。今のはついで。巡音さんのお姉さんのことだけど、なんか話したくない事情があるみたいだから、あんまり詮索しないであげてくれる?」
一応、声を潜めて俺はそう言った。
「レンもそう思う? どうも、何かあるみたいよね」
なんだよ、気づいてたのかよ。
「気づいていたんなら、唐突にお弁当のこと持ち出さなくてもいいじゃないか」
「あれは口が滑った……というか、別のこと言いかけたのよ。でも、それは訊くともっとまずいことになりそうだったから、咄嗟に違うことを言おうとして、そうしたら口から出てきたのが、さっきのだったの」
キャベツをざくざく刻みながら、そんなことを言う姉貴。それにしたって、もうちょっとどうにかならなかったんだろうか。
「しまったと思ったから、すぐに話を打ち切ったんだけど。とにかく、わかったから、もう戻りなさい。お客さんを一人にしておくもんじゃないわ」
へいへいと答えて、俺は居間に戻った。巡音さんがこっちを見ている。
「とりあえずブロッコリーを入れるのは阻止した」
俺がそう言うと、巡音さんは首を傾げた。
「嫌いなの?」
「ああ」
正直、どこが美味しいのかよくわからん。何故か姉貴は好きなんだよな……。
「緑黄色野菜は身体に良いはずだけど」
「姉貴と同じようなこと言わないでくれよ。不味いもんは不味い」
一度料理にあれがでかいまま大量に入っていた時は、さすがに箸をつけるの躊躇ったぞ。姉貴がうるさいからなんとか食ったけど。
「パン粉とチーズをかけて、オーブンで焼くと美味しいと思うけど」
「絶対にパス! それ、姉貴に言わないでくれよ。聞いたら試すから」
「そんなに嫌わなくてもいいのに」
呆れられてしまった。
「巡音さんだって、食べられないものの一つ二つぐらいあるだろ」
「それは、あるけど……」
「それと一緒。ちなみに、嫌いなのって何?」
「納豆とか……オクラとか……」
どうもネバネバ系が苦手らしい。オクラは俺もパスかなあ。姉貴が「雑誌に載っていた料理を試してみた」と言って、オクラとトマトにスパイスをどっさり入れて煮込んだ料理を作った時は、何の嫌がらせかと思ったっけ。
「オクラは俺も苦手だけど、納豆は好き」
あ、固まってる。よほど嫌いらしい。納豆は美味しいと思うんだが、嫌いな人って多いよな。
「そんなに真面目な顔して考え込まなくてもいいってば」
それからしばらく、俺たちは食べ物に関する話をした。
「レン、こっち来て」
台所から、姉貴が呼ぶ声がする。どーせ支度を手伝えとか言うんだろうな。しょうがないか。
「ちょっと行ってくる」
立ち上がって台所に向かう。スパゲッティは茹で上がったようで、ざるの中で湯気を立てていた。
「何?」
「後ちょっとだから、テーブル拭いといて」
姉貴が台拭きを投げてよこしたので、受け止める。姉貴、この癖直らないなあ。行儀悪いって言われてんのに。
「で、それが終わったらフォーク出しといて。後、飲み物のことだけど」
「俺は何でも」
「あんたじゃなくて、リンちゃんの話よ。あんたはどうせコーヒーでしょうが。とりあえず選択肢は緑茶、紅茶、コーヒーだから」
……はあ。……リンちゃんね。
「訊いてくる」
俺は居間に戻った。まずはテーブル拭きか……。でもって、飲み物の話ね。
「巡音さん、緑茶と紅茶とコーヒーと、どれにする?」
「あ……じゃあ、紅茶を……」
「紅茶ね」
台所に行って、紅茶だと言う。姉貴に渡されたフォークをつかみ、俺はもう一度居間へと戻った。そんなにしないうちに、姉貴が「お待たせ~」と言って、スパゲッティを盛った皿を乗せた盆を手に、居間にやってくる。
「はいどうぞ。飲み物を取ってくるから、ちょっと待っててね」
皿をテーブルに並べた後、姉貴はそんなことを言って、また台所に戻って行った。……キャベツとベーコンか。まともな組み合わせで良かった。
巡音さんは鞄からお弁当箱を取り出して、テーブルの上に置いている。
「はい、リンちゃんは紅茶ね。」
姉貴が戻ってきた。巡音さんの前に紅茶の入ったカップを置く。俺と姉貴はコーヒーだ。姉貴の分にはミルクが入っている。
「あ、それがお弁当?」
「ええ」
「見てもいい?」
姉貴、幾らなんでも図々しくないか?
「……どうぞ」
巡音さん……別にOKしなくてもいいと思うぞ。びしっと断っちゃっても。とはいえ巡音さんが承諾しちゃったので、姉貴はお弁当箱を開け始めた。
「わ……美味しそう」
姉貴がそんなコメントを発したので、俺はお弁当箱の中身に視線を向けた。小さめのお弁当箱の中に、お握りや色んなおかずが詰め込まれている。……確かに美味しそうだな。
「他所のお弁当見るのってなんというか、新鮮よね」
……そういうもんか? 俺には姉貴の考えていることがよくわからん。
「あの……良かったら、少し食べます? これ、全部はちょっとさすがに多くて……」
巡音さんはそんなことを言い出した。
「そんなこと言うとうちの姉貴、図に乗るよ」
「なんてこと言うのよあんたはっ!」
姉貴にはたかれた。いや、はたかれたつっても、軽くだけど。
「あの……本当に、食べてくれた方が助かるから。お弁当を残して帰ると、心配されちゃうし……」
「リンちゃんもこう言ってくれていることだし。シェアしましょうか。取り皿持ってくるわね」
「だからさあ、姉貴……」
俺の言うことを最後まで聞かずに、姉貴は台所へと行ってしまった。……ああもう。
「巡音さんとこ、残すとうるさいの?」
「うるさいというか……この前貧血で倒れたから、お母さんがちょっと過敏になってるの」
そういうことか。それは確かに心配するのも仕方ないかなあ。俺も目の前で倒れられた時はびっくりしたし。
「鏡音君のお姉さんが作ってくれたパスタ、結構量があるし、これを食べるとお弁当を全部食べるのは無理だから。食べてもらった方がわたしも助かるの」
確かに「少し」なんて言っていた割には結構量があるな。姉貴、これを見越して最初から普通の量に盛ったんだったりして。……結構ずさんなとこがあるから、深い意味はないのかもしれないけど。
そんなことを考えているところへ、取り皿を手に姉貴が戻って来た。
「じゃ、食べましょうか」
とりあえずぐだぐだ考えるのは止めにして、飯に集中しよう。腹減った。
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なつぽん
ご意見・ご感想
私はブロッコリーは普通です(`・ω・´)
給食で出た時は一部の人、嫌がってたけど←
初めて読んだのですが、とても面白いです!
ブクマさせていただきます!
2011/12/25 12:43:06
目白皐月
なつぽんさん、初めまして。メッセージありがとうございます。
私はブロッコリーは美味しいと思うのですが、嫌う人、多いんですよ。
今ちょうどピアプロブログでパワーパフガールズ×ボーカロイドについて書かれてますが、このアニメでもガールズがみんなブロッコリーを嫌いで残していたら、ブロッコリーの化け物が襲って来ちゃって、食べて退治する羽目になる話がありました。
面白いと言ってもらえて嬉しいです。これからも、もっといいものが書けるよう頑張ります。
2011/12/25 19:24:11