月曜の朝、学校に行く前にハク姉さんに声をかけてみようかと思ったけれど、誰かに見咎められるのが嫌で、声をかけることはできなかった。お父さんやルカ姉さんとばったり会って、何をやっているのか訊かれたら答えづらいし……。
 ちょっと暗い気分でわたしは朝食を食べ、学校に向かった。教室に入り、自分の席に座る。いつもならここで持ってきた本を開くところなのだけれど、今日はそういう気分になれない。わたしは席に座って、ただぼんやりとしていた。
「おはよう、巡音さん」
 声をかけられて、わたしは振り向いた。……鏡音君だ。大体いつも、わたしより少し後の時間に登校している。
「おはよう、鏡音君」
 わたしはどんな表情をしたらいいのかがわからず、下を向いてしまった。
「何かあったの?」
 鏡音君がそう訊いてきた。……なんでいつも、わかっちゃうのかな。
「あの……鏡音君。ちょっと訊きたいんだけど」
 わたしは話を切り出すことにした。
「何?」
「昨日……わたしが帰った後で、お姉さんから何か話を聞いた?」
 わたしの言葉を聞いた鏡音君の表情に、一瞬動揺が走った。やっぱり聞いたんだろうか。わたしと二人の姉のややこしい関係は、できればあんまり話したくない。
「話って、例えば?」
「その……わたしの、姉のこととか」
 鏡音君はほっとした表情になった。……聞いてないの?
「ちょっとはね」
 何を聞いたんだろう。
「どんなこと?」
「姉貴が高校時代のアルバム引っ張り出してきて、巡音さんのお姉さんと映ってる写真を見せられた。姉貴が言うには、今が一番いい時代なんだって。姉貴、まだ、過去を懐かしむような年でもないと思うんだけどね」
「そうなんだ……」
 そう言う鏡音君の声は、いつもと全く変わりない。どうやら本当に聞いていないようだった。良かった……。でも、じゃあ、さっきの動揺は何だったんだろう?
 でも、それは訊かない方がいいかもしれない。何か個人的なことかもしれないし。
「もう一つ訊いてもいい?」
「いいけど」
「鏡音君は、お姉さんがひどく酔っ払った時ってどうしてるの?」
 少なくとも、『ラ・ボエーム』を見た時はひどく酔っていたって、言っていたわよね。そういう時はどうしているんだろう。
「放っとく」
 鏡音君の答えは、ひどく簡潔だった。……え?
「放っとくって……」
「だってあんな状態の姉貴の相手なんてしてられないよ」
 鏡音君は両手を上にあげて、そう答えた。
「酔っ払いって理屈通じないし、そんなになるまで飲む方が悪いし。まあ、姉貴も年がら年中そうなるわけじゃなくて、年に一度か二度ぐらいだけど。寒い季節で寝てしまったってんなら毛布ぐらいはかけてやるけど、後は放置」
「それでいいの?」
「姉貴は別にアル中じゃないから、次の日になれば、酔いも醒めて正気に戻ってるしさ。なんか話があるってのなら、その時にした方が早いし」
 ハク姉さんだって、いつも飲んでるわけじゃないのよね……昨日はあんなところを見てしまったせいで慌ててしまったけど、今頃は正気に戻ってるのかな。
「誰か潰れでもしたの?」
 鏡音君はそう訊いてきた。
「……ええ、まあ」
 わたしは頷いた。
「ありがとう」
「お礼なんかいいよ、別に。これぐらいのことで」
 そう言った後で、鏡音君は考え込む表情になった。
「巡音さん。もしかして、酔っ払ったのってお姉さん?」
「あ……」
 唐突にそう訊かれて、わたしは動揺した。……これでは、はいと答えているようなものだ。
「え、ええ……」
 ハク姉さんのこと、やっぱり説明した方がいいのかな。でも……。こんな話をされても困るだろうし……。鏡音君に話したら、お姉さんにも伝わるわよね。
「心配なら、なんで飲んでたのか後で訊いてみたら? うさばらしとかなら問題だけど、単に楽しくて飲みすぎたってんなら、放っといて大丈夫だと思う」
 うさばらしか……誰かと何かあったのかな? お母さんとか、ルカ姉さんとか……。でも、お母さんもルカ姉さんも、自分からハク姉さんに話しかけることなんて、ほとんど無いし……。
「う、うん……ありがとう……色々と」
 鏡音君にお礼を言っていると、ミクちゃんがやってきた。
「リンちゃん、おはよう」
「おはよう、ミクちゃん」
「じゃ、俺はこれで」
 鏡音君は、自分の席へと戻って行った。
 ふと気がつくと、ミクちゃんが興味津々といった表情で、わたしを見ていた。……思わず後ずさりしそうになる。
「……ミクちゃん?」
「リンちゃん、鏡音君と何話してたの?」
 ミクちゃんにも、ハク姉さんのことは話していない。どうやって話したらいいのかがわからないし、それに……ミクちゃんにわたしの家の問題を持ち込むわけにはいかないもの。
「あ……えっと……オペラの話」
 なんだか、嘘が増えているような気がする。
 ちなみに、ミクちゃんはオペラにはあまり興味がない。バレエの方は好きなのだけど。
「オペラ? 鏡音君ってオペラに興味あったの?」
「鏡音君が好きなミュージカルが、オペラを現代劇に翻案したものだったの。だから、ちょっとその話を……」
「ふーん、そうなんだ……」
 どうして、ミクちゃんは嬉しそうなんだろう? わたしにはわからない。
「あ、ねえ、リンちゃん。そういえば、足はどうなの?」
 足……ああ、捻挫のことか。もう大分良くなっている。
「一週間後には全快するでしょうって、言われたわ」
 結構長かった。
「一週間後かあ……中間テストよね。勉強してる?」
 訊かれたので、わたしは頷いた。勉強自体はいつもしている。日曜以外は毎日家庭教師の先生が来る家だし……。
「ねえ、リンちゃん。考えたんだけど」
「何?」
「中間テストが終わったら、どこかにぱーっと遊びに行かない?」
 え?
「遊びに行くって、どこへ?」
「わたしは遊園地がいいな」
 訊いてみると、ミクちゃんはそう答えた。遊園地……。ずいぶん行っていない。前に行ったのは確か小学生の時だ。やっぱりミクちゃんが誘ってくれたんだっけ。うーん、遊園地か……。いつの間にか、敷居の高い場所になってしまっている。
 というようなことを考えていると、ミクちゃんがわたしの手をつかんだ。
「ねえ、行こっ。きっと楽しいって」
「えーっと……」
 遊園地に行きたいって言っても、お父さんが許してくれないわよね……。お前はもう子供じゃない、で、終わりだ。お父さんは昔から、子供っぽいものがとにかく嫌いだった。
「わたし、リンちゃんと一緒に遊園地に行きたいなあ」
「…………」
「高校生活の思い出作りにいいと思うの。リンちゃんは行きたくない?」
 行きたいか、行きたくないかで訊かれれば……行きたい。折角こうしてミクちゃんが誘ってくれているんだし、わたしだってたまには外に出たい。でも、お父さんの承諾なんて絶対に貰えないだろう。
 けど……。
「あ……あの……ちょっと、考えさせて……」
 そう言った時、始業のベルが鳴った。ミクちゃんは「考えておいてね」と強く言って、自分の席へと戻って行く。
 ……どうしよう。


「何も正直に全部話す必要はないと思うのよ、リンちゃん。わたしの家に一日いましたって、お父さんには言っておけばいいじゃない。何なら、うちのお父さんに電話かけてもらってもいいわよ」
 というのが、ミクちゃんの主張だった。確かに昨日のことを考えれば、ごまかすことは可能ではあるのだけれど……。ミクちゃんのお父さんを巻き込む件に関しては、さすがに断った。
 とりあえず、ミクちゃんには「一日考えさせて」と言って、帰宅する。何だか、考えなければならないことが、増えているような気がする。
 家に帰ると、お母さんは居間で雑誌を読んでいた。
「ただいま、お母さん」
「お帰り、リン。すぐにおやつを出してあげるから、ちょっと待っていてね」
「あ、うん。じゃあ、その間に着替えてくる」
 自分の部屋に戻って制服から普段着に着替え、また一階に下りる。お母さんは、居間のテーブルにお茶道具を並べていた。お皿の上には、八等分にカットされたタルトが置いてある。
「今日はタルトにしたんだ」
「ええ、紅玉のいいのがあったから、りんごのキャラメルタルトを焼いたわ」
 お母さんは、焼き菓子を作る時はいつも紅玉を使っている。酸味があって、固いからって。生で食べるのには向いていないけれど、焼くととても美味しくなるのよって。でも最近はあまり見かけないから淋しいとも。
 今日のタルトは少し苦味が強かった。お母さんにしては珍しく、キャラメルを煮詰めすぎたみたい。
「キャラメル、煮詰めすぎちゃった?」
「最近は紅玉も水分が多くなってきていて、しっかり煮詰めて水分を飛ばさないと、下の生地がべちゃべちゃになってしまうの。それで念を入れていたら、濃くなりすぎてしまって……リンは、苦すぎるのは好きじゃなかったわよね?」
 濃いめのが好きな人もいるのだろうけど、わたしが苦いものが好きじゃないせいか、お母さんはあまり濃いキャラメルを作らない。
「……これくらいなら平気」
 わたしはそう答えて、タルトを口にした。……タルトは手間がかかる。既製のタルト台やパイシートを使って手間を省くこともできるけれど、お母さんがタルトを焼く時は、台の生地から全部自分で手作りする。わたしが小さい頃、どうして台から作るのかを訊いたら「美味しさが違うからよ」という答えが返ってきたっけ。
 ……これも台からちゃんと作ったのよね。いつものお母さんの味だもの。
「学校はどう?」
「えーと……中間テストが近いから、先生はその話ばっかり」
「あまり無理はしないのよ」
 お母さんにそう言われてしまった。倒れてから、お母さんはやっぱり過敏になっている気がする。
「ね、ねえ……お母さん」
「何?」
「その……ミクちゃんが、中間テストが終わったら、一緒に遊びに行かないかって……」
 わたしは思い切って、お母さんに話してみることにした。
「遊びに行く? どこへ?」
「ミクちゃんは遊園地に行きたいって言うの……その……やっぱり、駄目?」
 お母さんはちょっと首を傾げて、わたしを真っ直ぐに見た。
「リンは行きたいの?」
「……ええ」
 わたしは頷いた。折角ミクちゃんが誘ってくれたんだし。
「じゃあ行ってらっしゃい」
「いいの?」
 ためらいがちにわたしは尋ねた。
「ミクちゃんと行くんでしょう? 下手な心配はしないで、楽しんでいらっしゃい。ただ……お父さんには、言わない方がいいわね」
「……ありがとう」
 お母さんが承諾してくれたので、わたしの後ろめたい気持ちは少し軽くなった。


 おやつを食べ終えて部屋に戻ったわたしは、携帯を取り出してミクちゃんに電話した。
「もしもし、リンちゃん?」
「あ、ミクちゃん。あのね……遊園地のことだけど、行くことにしたから。お母さんが、行ってもいいって」
 わたしがそう言うと、携帯の向こうからミクちゃんの歓声が聞こえた。
「良かったあ! じゃあリンちゃん、中間が終わったらまず服を買いに行こうね」
 当然のことのようにそう言われて、わたしは返事に詰まった。
「え……ミクちゃん、服って?」
「リンちゃんの外出用の服って、動きやすいものが一枚も無いでしょ? 特にボトムはスカート系しかなかったわよね? 遊園地みたいなところに行くのには向いてないの!」
 確かにわたしの服はスカート、それも丈の長いものばかりだけど……。ロングの方が、なんだか安心だし。
「心配しなくても、最近はパンツやジーンズだって、おしゃれなのや可愛いのがたくさんあるから。あ、靴もいるわね」
 ミクちゃんはすごい勢いで喋り始めた。わたしは、全く口を挟めない。
「上から下までぜーんぶ選んであげるから心配しないで。パンツ類よりミニスカートにタイツかレギンスの組み合わせの方がいいかな? 絶対可愛いわよ」
「あの……ちょっと、それは……」
 多分、気になってまともに歩けないと思う。
「わかってるって。それはさておき、中間テストが終わったら、その足でショッピングに直行よっ!」
 ミクちゃんはうきうきとそう言って、電話を切った。わたしは携帯を握ったまま、少し呆然としてその場に立っていた。……何だか、妙なことになってきた。
 あ、そうだ。ハク姉さん。お母さんはまだ当分下の階にいるだろうし、お父さんとルカ姉さは当然まだ帰って来てないから、声をかけるのなら今のうちにしておかないと。
 わたしは部屋を出ると、ハク姉さんの部屋のドアを叩いてみた。……返事が無い。幾らなんでも二十四時間寝ているということはないだろうから、明け方頃目を覚まして、昼過ぎに寝ちゃったのかな。ハク姉さんのタイムスケジュールは滅茶苦茶で、昼間に寝ていることも多い。みんなが寝静まった深夜にそっと部屋を抜け出して、食べられるものとかを調達していたりするわけだし。
 わたしはため息をつくと、部屋に戻った。そろそろ家庭教師の先生が来る時間だ。勉強しなくちゃ。成績が下がりでもしたら、外出禁止にされてしまう。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 第二十話【どうか扉を開けさせて】

 ミクの遊園地作戦が始動しました。なんか、この話のミクって案外策士なのかもなあ……。書いてる奴が言うなって感じですが。

 この先の展開について少々悩み中です。まあ、大したことじゃないんですけどね。リンの服装をどうするのかということと、ミヤグミペアを出すのかということです。
 ちなみに……ミヤグミペアは出たとしてもちょい役ですので、過剰な期待はしないでください。

閲覧数:1,266

投稿日:2011/10/02 00:31:54

文字数:5,386文字

カテゴリ:小説

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