お母さんはまだ心配そうだったけれど、わたしはもう大丈夫と何度も言って、この日は学校に行った。
 学校に着いて教室に入ると、わたしはいつものように持ってきた本を広げた。そう言えば、この本は何だったっけ……。思わず本の表紙を確認してしまう。ガルシンの短編集だった。……なんでこんな本、持って来ちゃったんだろう。
 正直、今読むのに向いた本とはいえない。わたしは半ば上の空で、並んだ文字だけを追っていた。
「おはよう、巡音さん」
 突然後ろから声をかけられて、わたしは飛び上がりかけた。振り向くと、鏡音君がいる。ええと……どうしよう。
「……おはよう、鏡音君」
 何とかそう返したものの、次の言葉が出てこない。この前のこと、謝らなくちゃいけないのに。思わず下を向いてしまう。
「貧血は、もう大丈夫なの?」
 わたしが何か言う前に、鏡音君の方からそう言ってきた。
「……ええ、もう平気。この前は……その……ごめんなさい」
 下を向いたまま、わたしは何とかそれだけを口にした。
「あ~、気にしてないからいいよ」
 鏡音君はそう言ってくれたけど、わたしはそうは思えなかった。
「でも……」
 口にしかけたけれど、それから先が出てこない。そもそも、何を言ったらいいんだろう? そんな時、鏡音君がこう言い出した。
「それより巡音さん、今日、時間空いてる?」
「え?」
 言われた意味がわからず、わたしは訊き返した。
「良かったら、放課後、ちょっと話せないかな」
「話すって……何を?」
「大したことじゃないんだけど、巡音さんに訊きたいことがあって」
「……わたしに?」
「そう」
 鏡音君は頷いた。何がしたいのかよくわからないけれど……。
 でも、それを言ったら……そもそも、わたしは、何がしたいの?
 ふっと、今朝の夢が頭に蘇った。
「多分、大丈夫だと思う……」
 気がつくと、わたしはそう答えていた。
「それ、いいってこと?」
 鏡音君が確認してきたので、わたしはもう一度頷いた。
「じゃあ、放課後、屋上に来てくれる?」
「……わかったわ」
 そう答えると、鏡音君は、それじゃあ、と言って、自分の席へと向かった。
 ……何をやっているのかな、わたし。でも、約束しちゃったし……。あ、そうだ。運転手さんに、お迎えを遅らせてもらうよう連絡をしておかないと。理由は……あんまり込み入った理由だと、逆に疑われちゃうか。と、その時。
「おはよう、リンちゃんっ! ねえ、貧血は大丈夫?」
 ミクちゃんだ。ミクちゃんはこっちに駆け寄ってくると、心配そうな表情でわたしの顔を覗きこんだ。
「なんだかまだ青白くない?」
「もう大丈夫だから」
 これ以上、ミクちゃんを心配させるわけにはいかない。
「昨日も大事を取って休んだだけで、ほとんど体調は戻っていたの。だからあんまり心配しないで」
「リンちゃん。わたしはね、友達だから、心配する権利があるのよ」
 ミクちゃんはそんなことを言い出して、わたしの手をぎゅっと握った。ミクちゃんの手は温かいな。
「あ……ねえ、ミクちゃん」
「何?」
「あのね……今日の放課後、ミクちゃんと一緒にいたことにしてもらえない?」


 放課後になった。ミクちゃんは、放課後一緒にいたことにしておいてもらえないかという、わたしの唐突な頼みを、あれこれ訊かずに快諾してくれた。
「リンちゃんも、たまには羽根伸ばさなくちゃ。わたしにできることがあったら、何でも言ってね」
 ミクちゃんは「じゃあね!」と明るく言って、帰って行った。……ミクちゃんがいなかったら、わたし、どうなっていたんだろう。
 鞄を手に、屋上への階段を上がる。そう言えば、屋上に行くのは初めてだ。屋上に行くだけじゃなくて、図書室や部室以外の場所に寄って帰ることも。
 屋上へと続く階段を上り、重い扉を開けて外に出る。目の前に秋晴れの青い空が広がった。
「……あ」
 鏡音君はもう来ていた。わたしは鏡音君の近くに行った。
「鏡音君、話って、何?」
「あ、えーと……」
 鏡音君は自分の鞄を開けて、中から何か取り出した。
「まずはこれ、返しとくよ。どうもありがとう」
 ……『ラ・ボエーム』のDVDだ。わたしはそれを受け取って、自分の鞄に入れた。これを返すぐらい、教室でもできると思うけど……。
「あの……巡音さん、二日前のことなんだけど」
 そんなことを考えていると、鏡音君がこう切り出してきた。わたしが倒れた日のことだ。
「巡音さん、倒れる前に『ガラス』って言ってたけど、何のことだったの?」
 ……ガラス? そんなこと言っただろうか。
「わたし……そんなこと言った?」
「少なくとも俺にはそう聞こえたけど」
 鏡音君がそう言ったので、あまり思い出したくなかったが、わたしは倒れる前のことをもう一度思い返してみた。でもやっぱり思い出せない。
「ごめんなさい……憶えてないわ」
 ガラスか……。そう言えば今朝の夢では、アタナエルがわたしに「心をガラスに閉じ込めるな」って言ったんだっけ。
 心をガラスに閉じ込めたシルヴィアは、三十代で命を絶った。夢は所詮、夢だけど……。
「ガラスって、透き通っているから外が見えるのよね。だから、ガラスの中に閉じ込められたら、すごく苦しいと思う。外は自由に見えるのに、自分は動けないから」
 気がつくと、わたしはそんなことを言っていた。だから、シルヴィアは辛くて、自分で自分の命を絶ってしまったんだ。
「その状態だと、眠っている方が楽だと思う?」
 鏡音君はしばらく考えてから、わたしにそう訊いてきた。……え? 鏡音君がそんなことを言い出すとは思っていなかったので、わたしは驚いてしまった。
「……多分、ね。眠っていれば、外は見えないから」
 見えなければ苦しい思いをしなくて済むだろう。眠るというのは、ある意味では時間が停止すること。何も感じないで済むし、考えなくて済む。
「何も見えないし、何も感じないんじゃない?」
 鏡音君はそんなことを言ってきた。
「だから楽なのよ。見えるけれど動けないのとは違うから」
 見えることは苦痛だ。時々思う。眠ったまま、目が覚めなければいいって。
「でもそれだと、死んでいるのと一緒なんじゃない?」
「……一緒かも」
 どっちでもいいことだ。
 でも……オペラ『タイス』では、信仰に目覚めたタイスは幸福を感じながら死んでゆく。目覚めて死ぬのと、眠ったまま時を停止させるのでは、やはり違うのかもしれない。……タイスは、少なくとも幸せだった。
 ……幸せって、一体何?
「ちょっとほっとした」
 わたしがあれこれ考えていると、鏡音君がそう言い出した。
「……え?」
「巡音さんの考えてること、初めてちゃんと聞いたから」
 どうしてそれでほっとするんだろう……? わたしにはわからない。
「どうして鏡音君がそんなことを気にするの?」
「単なる好奇心だよ」
 訊いてみたところ、そんな答えが返ってきた。……どう反応したらいいんだろう。
「あ……それと」
 わたしが頭を悩ませていると、鏡音君が鞄から、何かを取り出した。それをわたしに差し出す。
「良かったら、これ、見てみない? 残念ながら映画版だけど」
 わたしは、差し出されたDVDを受け取った。パッケージの表面は八分割されていて、それぞれにキャストとおぼしき人が映っている。中央には『RENT』の文字。裏返すと「トニー賞&ピューリッツァー賞受賞 伝説のミュージカル完全映画化!」の文字が目に入った。
「これ……鏡音君がこの前聞いていた曲のミュージカル? 『ラ・ボエーム』が原案の」
「そうだよ」
 わたしはもう一度、DVDの裏面を眺めた。「未来も過去もない。僕らはこの一瞬を生きる。最後の瞬間まで……」と書かれている。……『ラ・ボエーム』に、こんな歌詞は無かった。どうしたら、こうなるんだろう?
 ……見てみたいな。
 でも……。
 前にも書いたことだけど、わたしは映像の再生機器を持っていない。居間のプレーヤーでこれをかけたら、間違いなく誰かの目に止まってしまう。
「……巡音さん?」
 鏡音君にそう声をかけられて、わたしははっとなった。
「こういうのには興味ない?」
「そうじゃなくて……」
 わたしはどうしようか、思い悩んだ。
「言いたいことあるならはっきり言ってくれていいよ」
 全部……喋った方がいいのかもしれない。鏡音君に対しては。
「あのね……わたしとしては、これ、とても見てみたいんだけど……」
 言いづらい。でも、言わなくちゃ。
「わたしの家……この手のもの、全部禁止なの……」
 小さい頃からずっとそうだった。そして、それは今も変わっていない。
「……全部って?」
「漫画とか、アニメとか、ゲームとか、最近の音楽とか……」
 だからわたしはこの手のものを満足に知らない。映画も、昔の名画とか、そういうものだけに限られている。ミクちゃんの家で映画は時々見せてもらうけれど、漫画やゲームは怖すぎて触る気になれない。
「えーっと……それ全部禁止なの? 何か条件ついてるとかじゃなくて、最初から全部?」
 鏡音君が信じられないといった表情で訊いてきたので、わたしは頷いた。
「そういうものは、悪影響があるって……」
 どういう悪影響があるのかまでは説明してもらってないので、よくわからない。それに、ミクちゃんの家はどれも禁止じゃないけれど、ミクちゃんに何らかの悪影響が出ているようには見えないし……。
「俺の本音を正直に言わせてもらうと、巡音さんの親って、厳しすぎるというか、むしろおかしいと思う」
 きっぱりと鏡音君はそう言い切ってしまった。
「……やっぱり、そう思う?」
 おかしいのはわたしの家の方なのよね。
「やっぱりって?」
「わたしも……その、変じゃないかとは思ってたんだけど……。ミクちゃんの家は、どれも禁止じゃないし……あまり話したことないけど、他の人もそうみたいだし……でも、ミクちゃんの家はミクちゃんの家だから……」
「要するに、これが我が家ルールなんだからそれに従ってろって、そう、言われているわけ?」
 わたしはまた頷いた。ずいぶん前に一度、訊いてみたことがあるのだけれど、大体こんな感じのことを言われて、怒られて終わりだった。
「そういうわけだから……わたし、これ、借りて帰るわけにはいかないの。もし見つかったら、鏡音君にも迷惑がかかるし」
 どうなるかは想像したくない。鏡音君が相手だったら、お父さん、怒るだけじゃ済まないかも。
「迷惑って?」
「……わたしがまだ小さかった頃の話なんだけど、ミクちゃんに漫画を貸してもらったことがあるの。そうしたら、それが見つかって……お父さん、ひどく怒って。ミクちゃんの家に電話をかけて……ひたすら苦情を……」
 あの時。お父さんはミクちゃんの家に電話をかけて、電話口でずっと強い調子で文句を言っていた。わたしは、お父さんが怖かったのと、ミクちゃんへの申し訳なさで、ずっと部屋の隅で震えていた。
「その時、巡音さんいくつだったの?」
「確か……小学校の一年生」
 幸い、ミクちゃんは怒らなかった。だから、わたしたちの関係は今も続いている。わたしの方が、一方的にミクちゃんの好意に甘えているような状態ではあるけれど。でも……わたしにとって、ミクちゃんは大切な友達だ。
「あのさ……巡音さん。だったら、いっそ俺の家に来る?」
 え……? 想像していなかった申し出に、わたしの頭の中は真っ白になった。
「家って……」
 ……鏡音君の家に、行くってこと?
「だから、俺の家。友達連れてきてどうこう言われるような、うるさい家じゃないから。クオはよく遊びに来てるよ」
 ミクオ君は、そうだろうけど……。鏡音君の家に行くなんて、絶対に許可してもらえない。それだけじゃない。何を言われるか……。
 でも……このミュージカルがどんなものなのか。『ラ・ボエーム』がどうやって、現代のお話になったのかは見てみたい。鏡音君も考えてこう言ってくれたわけだし、断りたくはない。
 言ったら……確実に怒られる。怒られるだけじゃない。下手をすると外出禁止にされてしまうかも。
 じゃあ……言わなかったら? 黙っていたら、もしかしたら、わからないんじゃない?
 いけないことなのはわかっている。でも、わたしはどうしてもこのミュージカルを見てみたかった。
 こんな風に何かを積極的に見たいって思うのも、ずいぶん久しぶりのような気がする。
「……本当に行っていいの?」
「来るってこと?」
 わたしは頷いた。
「……日曜なら、なんとか、家を抜け出せると思うから……」
 一日図書館で調べ物をするって言えば、ごまかせるかもしれない。劇場も考えたけれど、あれだといつ終わるのかがはっきりしてしまう。その点図書館なら、閉館ぎりぎりまでいてもおかしく思われないはず。
「鏡音君の家って、どこにあるの?」
 わたしが訊くと、鏡音君は手帳を取り出して、何やら書き始めた。そしてそのページを破って、わたしへと差し出す。
 受け取ってみると、鏡音君の住所と電話番号が書いてあった。携帯の番号とメールアドレスも。
「俺の家、ちょっとわかりにくいとこにあるから、駅に着いたら電話して。迎えに行くから」
「……ありがとう」
「ついでに巡音さんの携帯の番号とアドレスも教えてもらえる? もしうちに不都合があったら、連絡しないといけないから」
 鏡音君は、もっともなことを言った。それ以前に、わたしの方からも教えるのが筋だろう。でも……。
「あの……教えるのはいいけど、なるべくかけないでもらえる?」
「どうして?」
「お父さん、わたしの携帯を調べることがあるから……見慣れないアドレスがあったら、多分問い詰めると思うの」
 鏡音君が呆れた表情になったので、わたしはいたたまれなくなった。
「だから、教えてくれたのは嬉しいけれど、わたしの方から携帯とかにかけることは、多分ないと思うの……ごめんなさい」
 それから、わたしは自分の携帯番号とメールアドレスを、紙に書いて鏡音君に渡した。
「それじゃあ、日曜日に」
「ええ……ありがとう」
 そうして、わたしたちはそれぞれ自分の家に帰った。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 第十五話【その耳に届くただ一つの調べがあれば】

 この作品は一人称で書かれているので、当然、キャラクターごとに持っている情報量に違いがあります。よって、リンの知っていることを他のキャラが知らなかったり、その逆もあります。
 何が言いたいのかというと、あるポイントにおいてリンは事実を正しく認識していないということです。本筋とは直接関係ない部分ではありますが。

 作中でリンが読んでいる作家、ガルシンですが、私は小学生の時に、児童向け文学全集に収録されていた、彼の『信号』という短編小説を読んで、一週間ぐらいひどく落ち込みました。要するに、そういう作家です。ただし名作だとは思います。
 どんな作品書くの? という方はこちらをどうぞ。ただし私みたいに落ち込んだとしても、保証はしません。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000340/files/48128_34445.html
(本当は、『信号』にリンク貼りたかったけど、ここには収録されてないんですよね……)

閲覧数:1,249

投稿日:2011/09/09 19:31:15

文字数:5,839文字

カテゴリ:小説

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