ミュージカル『RENT』は、不思議な作品だった。『ラ・ボエーム』とは、同じようでいて、違う。『ラ・ボエーム』が十九世紀半ばのパリを舞台としているのに対し、『RENT』の舞台は二十世紀末のニューヨーク。百五十年でこんなに色々変わってしまったのかと思えるところと、ああ、やっぱり同じ話なんだと思えるところがあって、わたしは見ていてちょっと混乱しかけた。
 着ているものや、登場人物の考え方や扱われ方が違うだけではない。わたしはこの作品から、もっと「違う何か」を感じ取った。その、違いが何なのかはよくわからないけれど……。
『RENT』が終わって、画面がメニューモードに戻った後も、わたしはしばらく、そのまま画面を見つめ続けていた。頭の中で、今見た作品のかけらが回っているような、そんな感じだ。
 ……こういう感覚、前にも憶えがある。いつだっただろうか。もう、ずっと前のことだけれど、確か……。
 自分の思考に没頭していたわたしは、目の前に新しくお茶の入った茶碗を置かれて、我に返った。
「……ありがとう」
「どういたしまして。で、どうだった? 『RENT』」
 訊かれて、わたしは考え込んだ。鏡音君には、ちゃんと返事をしないと。
「その……すごく、力強い作品なのね」
 わたしがそう言うと、鏡音君は嬉しそうな表情になった。
「そう思う?」
「ええ」
『RENT』では、登場するキャラクターの一人一人の中に、しっかりした軸のようなものが感じられた。『ラ・ボエーム』の方では印象の薄いコッリーネやショナールも、『RENT』では強い印象が残る。むしろ、彼らの方が強いと感じる人もいるだろう。
「『ラ・ボエーム』とは、同じようで全然違うから、ちょっと驚いたけど」
 わたしがそう言うと、鏡音君は頷いた。
「『ラ・ボエーム』は恋愛だけに話を集中させていた感じがするけど、『RENT』では、生きていくことに焦点が当たってるから」
 ああそうか。枠組みが一緒なのに、テーマ性が違うから、違う感じがするんだ。
 生きていくこと……。
「でも、今日だけをみつめて生きて行くっていうのは、何だか悲しい感じがするわ」
 何度もでてきたフレーズ。「あるのはただ、今日という日だけ」きっと作り手が訴えたかったことなのだろうけれど。
「そうかな?」
「だって、過去も未来も見なくて、ただ、ここにある今だけを見つめて生きるんでしょう? そうやって刹那の生に意識を集中させてしまえば、過去のことも未来のことも、思い煩うことはないわ。でも、そうしないと生きていけないっていう、その事実自体が辛い気がするの。そうやっても結局、日々は過ぎて行くんだもの。積み重なってできた過去という時間を、全部見ないようにしちゃっていいの? 無かったことにできるの? その人を形作るのが、過去なんじゃない? それを忘れて生きられるものなの? 未来だってそうよ。見ないようにしたって、いつかは来てしまうわ」
 どんなに見ないようにしていても、いつかは終わりが来る。ロジャーもミミも、いつかは死んでしまう。この結末を、ハッピーエンドと見なしていいのだろうか。
「確かにそういう側面もあるんだろうけど……ロジャーもミミもエイズだし、ああいう『死が目の前にぶら下がっている』状態だと、それこそ、今、巡音さんが言ったように、その日一日一日だけに、意識を集中させていかないと辛いのかも」
 鏡音君は真面目な表情で、そう語った。
「でも、ラーソン――あ、このミュージカルを作った人なんだけど――が考えていたことは、それだけじゃあないと思うな。このフレーズは最初、部屋に閉じこもっているロジャーをミミが誘いに来るシーンで使われるし。『悔やんでばかりだと人生を逃す』という歌詞にもあるとおり、過ぎた時間に囚われないことを訴えたかったんじゃないのかな」
 わたしは、ハク姉さんのことを考えた。死ぬ病にかかっているわけではないけれど、ハク姉さんも部屋に閉じこもっている。閉じこもる一番の理由は……。
「ロドルフォは、結局、見たくなかったのよね」
「何を?」
「ミミがもうすぐ死ぬっていう現実。ロジャーも、きっとそう。自分もミミも、そんなにしないうちに死んでしまう。だからロドルフォは第三幕でミミと別れるし――春が来るのに別れるなんて、変だもの――ロジャーはギターを売ってサンタフェに引っ越すんだわ」
 ハク姉さんは、何を見たくないんだろう? ……訊いても、教えてくれそうにはない。そもそもわたしだって、何も考えないようにして過ごしてきた。考えたら、怖いことになりそうだったから。
 でも、鏡音君と話をしてみて、こうやって、家に呼んでもらって、確かに今でも色々と怖いけれど、それだけじゃないことがわかった。悩んだけど、来て良かったと思う。
 そのとき、階段から下りてくる足音が聞こえてきた。お姉さんね。
「ちょっといい?」
 お姉さんは気を使ってくれているらしく、部屋には入ってこないで、廊下からそう声をかけてきた。
「いいよ」
 鏡音君がそう言うと、お姉さんは部屋に入ってきた。
「姉貴、何か用?」
「あんたたち、お昼はどうするつもりなのかって訊きに来たのよ」
 鏡音君の問いかけにお姉さんはそう答えた。あ……正午を大分過ぎてるんだわ。『RENT』と話に夢中になっていたから、気がつかなかった。
「何、姉貴、作ってくれるとでもいうわけ?」
「……あんたねえ。まあ、そのつもりで下りて来たんだけどね。スパゲッティでいい?」
「作ってくれるんなら、なんでも」
 お姉さんに鏡音君がそう答えている。
「巡音さんもそれでいい? 姉貴の飯、一応それなりに食えるから」
「あのねえ……それが、作ってもらう側の言う台詞?」
 お姉さんが呆れ顔で鏡音君を見ている。でも、本気で怒っているわけでもないみたい。
「あ……わたし、自分の分はお弁当持ってきたんですけど……」
 図書館で一日過ごすと言って出てきたので、お母さんはお弁当を持たせてくれた。行きつけの図書館には飲食コーナーがあるので、図書館で一日過ごす時はそこで食べている。
「お弁当? そういやハクちゃんのお弁当は、いつも手が込んでたわね……」
 あ……藪蛇になってしまったかもしれない。また、ハク姉さんのことを訊かれたらどうしよう……。
「でも折角来たんだから、少しは食べて行ってちょうだい」
「あ……はい」
 わたしは頷いた。お姉さんはそのままキッチンへと行ってしまう。……助かった。
「巡音さん、ちょっと待ってて」
 不意に鏡音君はそう言って立ち上がると、お姉さんの後を追ってキッチンへと行ってしまった。……どうしたのかな。
 しばらくそのまま待っていると、鏡音君が戻ってきた。
「とりあえずブロッコリーを入れるのは阻止した」
「嫌いなの?」
「ああ」
 そんなに不味いかな?
「緑黄色野菜は身体に良いはずだけど」
 栄養の宝庫って、家庭科の授業では習ったし、お母さんもそう言っていた。
「姉貴と同じようなこと言わないでくれよ。不味いもんは不味い」
 きっぱりとそう言う鏡音君。本気で嫌いみたい。
「パン粉とチーズをかけて、オーブンで焼くと美味しいと思うけど」
「絶対にパス! それ、姉貴に言わないでくれよ。聞いたら試すから」
「そんなに嫌わなくてもいいのに」
「巡音さんだって、食べられないものの一つ二つぐらいあるだろ」
「それは、あるけど……」
 正直、納豆は苦手だ。あの食感とにおいが受け付けない。
「それと一緒。ちなみに、嫌いなのって何?」
「納豆とか……オクラとか……」
 オクラはまだ食べられなくもないけど、納豆だけはどうしても無理だったりする。我が家の食卓に乗ることはあまりないけれど、小学校の給食で出た時は泣きたくなった。
「オクラは俺も苦手だけど、納豆は好き」
 え~と。どう返事したらいいんだろう。
「そんなに真面目な顔して考え込まなくてもいいってば」
 鏡音君にそう言われてしまった。それからしばらく、わたしたちは料理に関する話を続けた。
 キッチンの方から、「レン、ちょっとこっち来て」と、お姉さんが鏡音君を呼ぶ声がした。
「ちょっと行ってくる」
 そう言って、鏡音君は、またキッチンに行ってしまった。今度はそんなにしないうちに、台拭きを片手に持って戻って来た。それで、テーブルの上を拭いている。
「巡音さん、緑茶と紅茶とコーヒーと、どれにする?」
「あ……じゃあ、紅茶を……」
「紅茶ね」と言って、鏡音君はキッチンへと戻っていった。今度はすぐ、フォークを手に持って戻ってくる。その後ろからお姉さんが、お皿の乗ったお盆を手に入ってきた。
「お待たせ~」
 お姉さんが手際よく、お皿をテーブルの上に置いて行く。キャベツとベーコンを使った、シンプルなパスタだ。
「はいどうぞ。飲み物を取ってくるから、ちょっと待っててね」
 お姉さんは言ってしまった。わたしは、一応お弁当を取り出して、テーブルの上に置く。全部食べられるだろうか……。
「はい、リンちゃんは紅茶ね」
 わたしの前に、紅茶の入ったカップが置かれる。鏡音君とお姉さんは、両方ともコーヒーみたい。
「あ、それがお弁当?」
 お弁当箱を見て、お姉さんがそう訊いてきた。
「ええ」
「見てもいい?」
 そう訊かれたので、わたしは頷いた。
「……どうぞ」
 お姉さんはわたしのお弁当箱を手にとって、風呂敷を解いて蓋を開けた。
「わ……美味しそう」
 中を見て、お姉さんは感激した様子でそう言った。
「他所のお弁当見るのってなんというか、新鮮よね」
「あの……良かったら、少し食べます? これ、全部はちょっとさすがに多くて……」
 出されたものを残すのは気が咎めるし、かといってお弁当を残すとお母さんがまた心配しちゃうだろうし……。
「巡音さん、そんなこと言うとうちの姉貴、図に乗るよ」
「なんてこと言うのよあんたはっ!」
 お姉さんはそう言って、鏡音君を軽くはたいた。
「あの……本当に、食べてくれた方が助かるから。お弁当を残して帰ると、心配されちゃうし……」
「リンちゃんもこう言ってくれていることだし。シェアしましょうか。取り皿持ってくるわね」
「だからさあ、姉貴……」
 鏡音君の言葉を無視して、お姉さんはキッチンに行ってしまった。
「巡音さんとこ、残すとうるさいの?」
「うるさいというか……この前貧血で倒れたから、お母さんがちょっと過敏になってるの」
 そのせいか、最近のメニューは鉄分多めの料理が多い。昨日の夕食は、カキとほうれん草のクリームソース和えだった。
「鏡音君のお姉さんが作ってくれたパスタ、結構量があるし、これを食べるとお弁当を全部食べるのは無理だから。食べてもらった方がわたしも助かるの」
 そこへ、お姉さんが取り皿を手に戻って来た。
「じゃ、食べましょうか」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 第十七話【一歩一歩、一言一言】

 私自身はブロッコリーは美味しいと思いますが、嫌いな人、多いですよね。
 めーちゃんが作ったのはキャベツとベーコンをオリーブオイルで炒めておいて、そこに茹で上がったスパゲッティを投入してあわせるシンプルなパスタです。ささっと作れるので、お昼に重宝しています。キャベツをブロッコリーに変えたり、ベーコンをソーセージに変えたりしても美味しいです。

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投稿日:2011/09/18 23:16:41

文字数:4,464文字

カテゴリ:小説

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