クオの家で映画を見てから、数日が経過したある日。俺は学校の図書室で『RENT』のサントラを聞きながら、歌詞をチェックしていた。この前見た舞台は字幕がいいかげんで、話の意味を取りづらかったんだよな。そんなわけでネット通販でサントラを購入したんだが、歌詞カードがついていなかった。幸い、歌詞を全部載せてくれているウェブサイトがあったので、そこからプリントアウトしてきたけど。
しかし、映画だとかなり曲がカットされていたんだな。「クリスマス・ベルズ」と「ハッピー・ニュー・イヤー」がカットされているのはもったいなさすぎる。映画じゃ表現しづらかったんだろうけど。
曲を聞きながら、ノートに思いついたことを書き留める。この辺りは台詞が交差していて聞き取りにくいな……ちょっと一息入れるか。プレーヤーを止めて……あ。
書棚の近くに巡音さんがいて、思い切り目があった。大体いつも真っ直ぐ帰ってるのに、こんなところにいるなんて珍しいな。
巡音さんはしばらくそのまま立っていたが、やがて、こっちへやってきた。声をかけられそうな気がしたので、俺は片方の耳からイヤフォンを抜いた。
「ここ……空いてる?」
図書室の勉強用の机は四人がけだが、俺は一人で座っているので、他の三つは空いている。訊かれたので、俺は頷いた。巡音さんが俺の向かいの席に座る。そのまま、巡音さんは本を読み始めた。
……何読んでるんだろう。様子を伺ってみたが、本を机の上に置いた状態で読んでいるので、タイトルがわからない。
「何読んでるの?」
気になったので、結局訊いてしまった。もちろん、声のボリュームは落としている。ここは図書室だ。
巡音さんは本を立ててみせてくれた。『アグネス・グレイ』と書いてある。
「どういう話?」
「……さあ。まだ読み始めたばかりだから」
そりゃそうか。
「鏡音君は、勉強?」
今度は巡音さんの方が訊いてきた。違うけど。でも、こんなもん広げていたらそう見えるか。辞書も置いてあるし。
「いや、これはただの趣味」
俺は印刷してきた歌詞を、巡音さんの方に差し出した。
「詩?」
「歌の歌詞」
俺はポケットに突っ込んでいたプレーヤーを取り出した。
「これのね。聞いてみる?」
俺は何気なくそう言った。巡音さんはしばらく考えてから――よく考え込む子だな――頷いた。
巡音さんにイヤフォンを渡し、彼女がそれを耳に差したのを確認してから、曲の一覧を表示して、「レント」を選択する。舞台でかかる長い曲はこれが最初だ。……あ。これじゃなくて、「シーズンズ・オブ・ラヴ」の方が良かったかな。
「……ひゃっ!」
再生するやいなや、巡音さんはびっくりしたような声をあげて固まってしまった。えーと……そんなショックを受けるような曲でもないと思うんだが。俺の方がびっくりだよ。
停止ボタンを押すと、巡音さんは強張った表情のまま、イヤフォンを外した。
「……大丈夫?」
「ごめんなさい。こういうの初めて聞いたから、驚いちゃって」
ロックなんか別に珍しい音楽でもなんでもないと思うんだが……普段何聞いているんだろう。
「巡音さんは、普段はどんな音楽を聞いてるの?」
「クラシックだけど」
お嬢様というのはそういうものなんだろうか。でも確かこの前クオの奴、初音さんの誕生日プレゼントだとか言って、アイドルのCD買ってたよな。
「クラシックが好きなんだ」
「……多分」
おーい、返事になってないぞ。
ここで、俺はあることを思いついた。
「じゃ、ちょっとこれ、聞いてみてくれる?」
巡音さんはあんまり気が進まなそうだったが、もう一度イヤフォンを耳に差した。俺は曲の一覧から「ユア・アイズ」を選択する。巡音さんは微妙に緊張した表情で、曲を聞いている。途中から「あれ?」と言いたげな表情になったが、最後の方で驚いたようにこう言った。
「なんでミミの名を呼ぶの? ムゼッタのワルツでしょ?」
「あ……やっぱりわかるんだ」
『RENT』は、十九世紀のパリを舞台にした『ラ・ボエーム』というオペラの翻案だ。でもって、『RENT』の中でロジャーが何度かギターで爪弾いている曲が、『ラ・ボエーム』で使われている、「ムゼッタのワルツ」という曲だったりするんだそうだ。最も俺は『ラ・ボエーム』を見たことがないので、どんな風になっているのかはよくわからないし、原曲の「ムゼッタのワルツ」という曲も聞いたことがない。
すぐにわかってこう言ったということは、巡音さんは『ラ・ボエーム』を見たことがあるんだな。
「……かなり感じが変わっていたから、名前が出てくるまでは自信がなかったんだけど」
「作中でもそう言われるけどね。『それじゃムゼッタのワルツだってわからないよ』って」
字幕では「パクリではありません」になってたりするけど。それじゃ意味が全然違うだろ。
巡音さんは、何がなんだかわからないという表情になった。あ、いけない。『ラ・ボエーム』のことは知っていても、『RENT』のことは知らないんだ。俺は『RENT』についてざっと説明した。
「これ『RENT』っていうミュージカルの曲なんだよ。オペラの『ラ・ボエーム』を現代のニューヨークに翻案した作品。ちなみに、前に巡音さんと劇場で会った時に見てたのもこれなんだけど。で、今のは主人公のロジャーが、最後の方でミミに歌う曲」
「ロジャー……ロドルフォのこと?」
「そうだよ」
一応あらすじとキャラクターはネットで調べたので知っている。ロジャーはロドルフォ、マークはマルチェロ、モーリーンはムゼッタだったはず。
「どうしてロドルフォがムゼッタのワルツを歌うの?」
「さあ……何でだろう? でも、三回ぐらいこのフレーズ弾いてるよ」
さすがにそこまではわからん。ラーソンが単に気に入っていただけかも。
「ロドルフォが、『わたしが街を歩くと、誰もが立ち止まって、わたしの美しさに見とれるの』って歌うの?」
巡音さんがそんなことを訊いてきたので、俺は想像して思わず笑い出してしまった。……そんなことを言うロジャーは嫌だ。いや、向こうは『RENT』を知らないから仕方ないんだけど。
「……さすがにそれはないよ。あくまでギターで弾いてるだけ。その台詞自体は別の曲にあわせて、ムゼッタに当たるキャラクターが歌ってるけどね」
「ムゼッタのワルツ」はバラバラにされて、『RENT』の中にちりばめられている。曲はロジャーがギターで爪弾き、歌詞はモーリーンが全然違うメロディに乗せて歌う。タイトルだけを真似た「モーリーンのタンゴ」という曲もある。
「この曲の歌詞自体は『君こそが探し求めていた歌なんだ』とか、そんな感じ」
「その台詞、『ラ・ボエーム』にも似たのがあるわ。『詩をみつけたんだね』ってみんなが言うの」
ロッカーのロジャーは、『ラ・ボエーム』では詩人だったよな。映像ドキュメンタリー作家のマークは画家、ハッカーで教師のコリンズは哲学者、ストリートドラマーのエンジェルは音楽家だ。
「へえ……『ラ・ボエーム』は見たことがないからなあ。一度見てみたいとは思ってるんだけど」
さすがにオペラは敷居が高い。巡音さんにとってはそうでもないんだろうけど。
「あ、ごめんなさい。携帯に着信入ったみたい」
巡音さんは鞄を開けると、携帯を取り出した。確認して、ちょっと残念そうな表情になる。
「誰から?」
「運転手さん。今日は車の調子が悪いから少し遅れるって、少し前に連絡があったの。で、今、迎えに来たって」
ああ、それで、図書室にいたのか。巡音さんはさようならを言って、帰って行った。……あれ。読みかけの本は借りていかないんだ。
コメント0
関連動画0
ブクマつながり
もっと見るわたしは、鏡音君と一緒に駅へと向かった。来る時は緊張で周りの景色を見ることもできなかったけれど、帰りの道はもう少しゆったりした気分で歩けたので、歩きながら辺りを眺めることができた。この辺りは住宅街なのか、小さな家がずっと並んでいる。
「姉貴の言うことは、あんまり真に受けない方がいいと思うんだよね」...ロミオとシンデレラ 第十九話【死ぬ前に一度は生きてみたい】前編
目白皐月
図書館に着いたわたしは、座席に座ってひとしきり勉強した。集中しきっていたため、時間の経過に気づかず、気がつくと閉館の時間になっていた。いけない、もう外は暗くなりかけている。荷物をまとめ、わたしは帰路についた。
帰り道では、行きのような妙な人に遭遇することはなく、家まで真っ直ぐにたどり着いた。玄関...ロミオとシンデレラ 外伝その七【ある日のアクシデント】後編
目白皐月
日曜日がやって来た。今日は外出の予定はない。家で本でも読むか、オペラのDVDでも見てようかな……そんなことを考えながら、わたしは階下に降りて行こうとして、凍りついた。食堂から、お父さんとお母さんの話し声が聞こえてくる。ううん、これは、話しているんじゃない。
……喧嘩、しているんだ。
「朝からそん...ロミオとシンデレラ 第十話【嵐】
目白皐月
月曜の朝、学校に行く前にハク姉さんに声をかけてみようかと思ったけれど、誰かに見咎められるのが嫌で、声をかけることはできなかった。お父さんやルカ姉さんとばったり会って、何をやっているのか訊かれたら答えづらいし……。
ちょっと暗い気分でわたしは朝食を食べ、学校に向かった。教室に入り、自分の席に座る。...ロミオとシンデレラ 第二十話【どうか扉を開けさせて】
目白皐月
いいものなのか、嫌なものなのか。作品ごとに褒めてあったりそうでなかったりで、わたしには余計にわからない。
「うーん……俺とユイは中三の時に委員会が一緒で、それで仲良くなって、秋頃にユイが『好きでした』って言ってきて、それでつきあおうかって話になったんだけど、何せ中三の秋だろ。受験に追われてろくにデ...ロミオとシンデレラ 第二十三話【恋とはどんなものかしら】後編
目白皐月
わたしが立てた作戦は完璧だった。まず、わたしがリンちゃんを「映画でも見ない?」と言って家に呼ぶ。そして同じ日に、クオがやっぱり映画を口実にして、鏡音君を連れてくる。後はわたしとクオが喧嘩をする振りをして、二人だけ部屋に残して出て行ってしまうのだ。これで、リンちゃんと鏡音君が部屋の中で二人っきり、と...
アナザー:ロミオとシンデレラ 第四話【ミクの不満】
目白皐月
クリップボードにコピーしました
ご意見・ご感想