図書館に着いたわたしは、座席に座ってひとしきり勉強した。集中しきっていたため、時間の経過に気づかず、気がつくと閉館の時間になっていた。いけない、もう外は暗くなりかけている。荷物をまとめ、わたしは帰路についた。
帰り道では、行きのような妙な人に遭遇することはなく、家まで真っ直ぐにたどり着いた。玄関のドアを開けて、家の中に入る。……泣き声は聞こえてこない。さすがに、リンも静かになったのだろう。
玄関ホールには、ハクがいた。わたしを見て、びくっとした表情になる。
「ただいま、ハク」
挨拶は礼儀の基本だ。
「お帰りなさい……お姉ちゃん……」
ハクはここのところ、元気がない。中学受験に失敗したのが原因だろう。わたしはそれ以上ハクに構わず、居間へと向かった。カエさんは、ここかキッチンにいることが多い。別に用があるわけではないけれど、帰った以上はただいまを言わなければならない。
カエさんは、居間にはいなかった。キッチンも覗いてみたが、そちらにもいない。お手伝いさんが二人、立ち話をしているだけだ。
「旦那様、少し厳しすぎるんじゃないかしら」
「しっ、滅多なことを言うもんじゃない。旦那様に聞かれたら、下手すりゃクビだよ」
「大丈夫よ。旦那様は急用が入ったとかで出かけて行ったから。運転手が休みだからハイヤーを呼ばなくちゃならないとか、ぼやいてらしたわ」
「ふーん、ならいいけどね……ああ、確かにあたしも厳しいと思うよ。リンお嬢様はまだ八歳だ。ぬいぐるみや絵本が大好きでも、別に気にすることなんてないだろうに。あたしの娘だって小学生の間は、毎晩のようにぬいぐるみを抱いて寝てたよ」「わたしだって、実家に一番のお気に入りは残してあるわ」
お手伝いさんたちはたわいないやりとりを続けている。……まあいいか。お父さんは家にいないのね。カエさんはどうしたんだろう。
「奥様、ずっとロフトの前に立っていらっしゃるのね」
「そりゃ心配だろうよ。旦那様ときたら、自分がいいと言うまでリンお嬢様を出すなとか言ってらっしゃったけど、いくらなんでもやりすぎだ。あのロフト、そろそろ真っ暗になるだろうしね」
ああ、リンはロフトに放り込まれたのか。よほどひどくお父さんを怒らせたのね。ハクも実の母親が出て行った直後、泣き止まなくて何度か放り込まれていた。わたしは一度も放り込まれたことがないけれど。で、カエさんはリンが心配でドアの前に立ってるわけか。
……ずるい。
心のどこかで、何かがそう呟いた。今のは何?
きっと、あってはいけないものよね。わたしが思うはずのないことだわ。
わたしは背を向けると、キッチンを後にして、玄関ホールへと戻った。ハクがまだ、所在なさげにうろうろしている。……何をやっているんだろう。
「ねえ……お姉ちゃん……」
「何か用?」
わたしの方は、ハクに用事などない。
「あのね……」
ハクが何か言いかけた時だった。上の階から悲鳴が聞こえてきた。わたしもハクも、さすがに驚いて上の方を見る。
「今の……?」
「ね、ねえ、お姉ちゃん……今の、リンの声じゃなかった?」
言われてみればそうかもしれない。
「リン? 今度は何をしでかしたのかしら」
お父さんを怒らせるようなことじゃないといいのだけれど。ハクが、引きつった表情でこっちを見ている。
「ハク、何か?」
引きつった表情のまま、じりじりと後ずさるハク。自分から声をかけてきたのに、どうしたというのだろうか。
と、ものすごい足音で、誰かが階段を駆け下りてきた。……カエさんだ。真っ青になっている。カエさんは玄関ホールに置いてある電話に飛びつくと、電話が壊れそうな勢いで番号を押した。
「今すぐ救急車をよこして! 娘が怪我をしたんです! 血が……血がすごくて! お願いだから早く!」
それでは伝わらないだろう。電話口から、落ち着いてとかいう相手側の声が聞こえている。カエさんは何度か深呼吸をした後、この家の住所や自分の名前について説明を始めている。
よく見ると、カエさんの服には血が着いていた。カエさんの言うとおりなら、リンの血だろう。
騒ぎを聞きつけたのか、キッチンからお手伝いさんたちがやってきた。電話を置いたカエさんは、お手伝いさんに事情を説明している。
「ロフトの前に立っていたら、中からリンの悲鳴が聞こえてきたの。開けるなって言われていたけれど、どう考えてもただごとじゃなかったから……開けてみたら、リンが傷だらけで倒れていて」
「奥様……一体何が」
「多分暗い中周りがよくわかってなくて……転んだ弾みに、古い姿見に突っ込んでしまったんだわ。……やっぱり、暗くなる前に出すべきだったのね。リンはロフトから連れ出して、今は自分の部屋よ。でも、鏡の破片が刺さってる傷があるから、病院に連れて行かないと。私じゃ処置できないわ」
そこまで話すと、カエさんは大きく息を吐いた。
「私は部屋に戻ってリンについているわ。救急車が来たら一緒に病院に行くから……ルカ、ハク、ちょっとこっちに来て」
呼ばれたので、私はカエさんの前に立った。ハクもやってくる。
「そういうことだから、リンを連れて病院に行くわ。どれだけ時間がかかるかわからないし、もしリンが入院でもするようなことになったら、多分泊り込みになるでしょう。だから二人とも、私が帰って来なくても時間になったら夕食を食べて、お風呂に入って寝てちょうだい。連絡も帰宅も待たなくていいから」
そういう話か。言われなくてもわかっている。
「大丈夫よ。きちんと言われたとおりにするから」
「……リン、大丈夫なの?」
ハクが訊いている。ハクが自分からカエさんに話しかけるのは珍しい。
「きっと大丈夫よ……お医者様がちゃんと治療してくれるわ」
その割には、さっきのカエさんはひどく取り乱していたようだけれど。話は終わりみたいなので、わたしは自分の部屋に戻ることにした。
「わたしは、部屋に戻ってるわ。荷物も片付けたいし」
カエさんとハクとお手伝いさんたちが、何か言いたそうな顔でこっちを見る。
「……何か?」
「いえ……なんでもないわ。……そうね、ルカは外から帰ってきたばかりだものね。部屋で休むといいわ」
カエさんは、わたしが疲れているのだと判断したようだ。わたしは皆に背を向けると、階段を上がっていった。
心の奥底で、何かがぷつぷつと音を立てているような気がする。
だから、消えてちょうだい。存在してはいけないものなのだから。
「気味の悪い子ね。何を考えているのかさっぱりわからない。それなのに、いつもわたしはいい子ですって顔をしちゃって」
ああどうして、わたしはこんなことをいつまでも憶えているのかしら。忘れたと思ったころに、記憶の底から飛び出してくる。もうあの人が、わたしの前から消えてずいぶんになるのに。
ロミオとシンデレラ 外伝その七【ある日のアクシデント】後編
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一人称の何が厄介って、「語り手の認識の外にあることは書けない」ってことなんですよね。書き手である私が幾ら認識していても、ルカさんが気づいてないことは書けないんです。
だからこの作品は、オブラートに包んだような感触になってしまっています。何せこの話の語り手であるルカさんは、自分で自分がわかっていないから。幼少期に受けた虐待で、性格が歪んだまま成長しているので、なんだかもう手の施しようがない気がする……。
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