わたしは、鏡音君と一緒に駅へと向かった。来る時は緊張で周りの景色を見ることもできなかったけれど、帰りの道はもう少しゆったりした気分で歩けたので、歩きながら辺りを眺めることができた。この辺りは住宅街なのか、小さな家がずっと並んでいる。
「姉貴の言うことは、あんまり真に受けない方がいいと思うんだよね」
鏡音君がそんなことを言ってきた。
「どうして?」
「ん~、滅茶苦茶言う人だし、思ったこと全部言わないと気が済まないようなところあるし、言い回しに容赦が無いし……巡音さん、びっくりしたんじゃない?」
確かに驚いたけれど……でも、鏡音君のお姉さんのような人の方が、話しやすい気がする。少なくとも、話しかけたらいつもちゃんとした返事が返って来そうだ。
ルカ姉さんと最後にまともな話をしたのって、いつだっけ……。思い出せない。もしかしたら、そんな時間自体が無かったのかもしれない。
「驚きはしたけれど……鏡音君のお姉さんは、嫌いになったら、はっきり『嫌い』って、言ってくれそう」
「まあ、そりゃなあ……」
鏡音君が言いながら首を傾げている。伝わりにくかったみたいだけど、否定はされなかった。
……ルカ姉さんは、本当はわたしのことが嫌いなんじゃないか。時々そう思う時がある。でも訊いても穏やかな調子で「嫌いじゃないわ」とだけ、答えるんだろうな……。それに……こんなことを考えてしまうわたしの方が、おかしいのかもしれない。
そうこうするうちに、駅に着いた。券売機で帰りの切符を買うと、わたしは鏡音君の方に向き直った。
「送ってくれて、ありがとう」
「これくらい大したことじゃないから」
「送ってくれたことだけじゃなくて……今日のこと全部、本当にありがとう。とても楽しかった」
こんなに気持ちが浮き立ったのは、本当に久しぶり。前にそう感じたの、いつだったろう。……思い出せない。
あれ……鏡音君、なんだかびっくりした表情でわたしを見ている。わたし、何か変なことを言ったの?
「……鏡音君、どうかした?」
「あ、いや……なんでも」
そう言われてしまうと、それ以上訊いてはいけないような気になる。……それに、もう行かないと。
「それじゃあ、わたしはこれで。また明日、学校で」
「ああ、気をつけてね」
わたしは鏡音君に向けて手を振ると、改札を抜けて、駅のホームへと向かった。急いで帰らなくちゃ。
幸い道に迷ったりすることもなく、わたしは無事図書館までたどり着いた。後はお迎えに来てもらえばいい。運転手さんに連絡して、図書館まで来てもらうと、わたしは家に帰った。
帰宅すると、また神威さんの車が止まっているのが目に入った。なんとなく眺めていると、玄関のドアが開いて、神威さんとルカ姉さんが出てきた。
「それでは、行ってきます。そんなに遅くならないようにしますから」
神威さんがドアの方を振り向いて、そう言っている。ここからは見えないけれど、多分お母さんがいるのだろう。お父さんは今日は出かけているはずだから。
「楽しんでいらっしゃい」
やっぱり、お母さんの声だ。神威さんは、「では」と言って、車に向かって歩き出した。その少し後ろを、ルカ姉さんが歩いている。
神威さんは車のドアを開けてルカ姉さんを乗せると、自分は運転席に乗り込み、走り出して行った。多分、食事にでも行くのだろう。時々、二人はこうやって出かけている。
……でも。ルカ姉さん、楽しそうじゃないのよね。かといって、嫌がっているという風でもない。何だろう……何て言っていいのか……。
わたしは頭を振ると、玄関に向かった。玄関には、まだお母さんが立っていた。
「リン、お帰りなさい」
「ただいま、お母さん。ルカ姉さん、出かけたんだ」
わたしがそう言うと、お母さんは頷いた。
「神威さんとお食事に行ってくるそうよ。楽しんできてくれると、いいのだけれど……」
ルカ姉さんの楽しみって何なんだろう? 今日、わたしは鏡音君の家に行って、楽しかった。ルカ姉さんが何を楽しいと思っているのか、わたしには想像がつかない。
「……リン、何かいいことでもあったの?」
不意に、お母さんがそう訊いてきた。
「えっ……どうして?」
「そういう顔をしているから」
「あ……その……図書館に、面白い本があったの。オペラに関する本」
本当のことを知られたらまずいと思ったわたしは、咄嗟に適当なことを言った。これでごまかせるだろうか……。
「そう……良かったわね」
怪しまれてはいない……かな? ごまかせたみたい。やっぱり申し訳ない気がするけれど。
「リン、お弁当箱を出しておいてね。夕ごはんは七時よ」
「わかったわ」
わたしはキッチンに向かうと、お弁当箱を流しの上に置いた。それから、階段を上って二階へと上がり、自分の部屋へと向かおうとした時だった。
突然、近くの部屋からガラスか何かが割れる音が聞こえてきたので、わたしは驚いて立ち止まった。何なの?
音が聞こえて来たのは、ハク姉さんの部屋だった。わたしはおそるおそるハク姉さんの部屋に近づいて、耳を澄ました。……今は何の音も聞こえない。とりあえず、ドアをノックしてみる。
「……ハク姉さん? リンだけど、何があったの?」
中からはやっぱり何も聞こえて来ない。……寝ているんだろうか。そう思った時、中から聞こえてきたのはけたたましい笑い声だった。
「ハク姉さん? どうしたの?」
返事はない。笑い声だけだ。ハク姉さん、どうしちゃったの……。わたしはドアの取っ手をつかみ、回してみた。あ……鍵、かかってないわ。
「ハク姉さん、入るわ……ちょっと、どうしたの!?」
部屋に入ったわたしは、思わず大きな声をあげてしまった。いつものように散らかった部屋の中、ハク姉さんは床にべったり座り込んで、赤い顔で笑っている。手にしっかり抱えているのは……お酒の瓶。
「あ~れ~、リンじゃな~い。あははっ……」
「ハク姉さん、どうしちゃったの!?」
わたしはドアを閉めると、ハク姉さんの傍らに駆け寄った。ハク姉さんは相変わらず笑っている。……お酒臭い。ずいぶん飲んだみたい。あ、この瓶、応接室のガラス棚にあったウィスキーだわ。いつの間に持ち出したんだろう。
部屋を見回すと、壁際に粉々になったガラス片がまとまって落ちていた。どうやら、コップを壁に向かって投げつけたらしい。
「ハク姉さん……」
「リン、あんたも飲む?」
ハク姉さんはそう言って、わたしにウィスキーの瓶を差し出した。
「……わたしは未成年よ」
とはいえ、このままにしておくのも良くないわよね。わたしはハク姉さんからウィスキーを取り上げると、テーブルの上に置いた。
「固いこと言わないの」
「固いこととかじゃなくて……それより、どうしちゃったのよ?」
ハク姉さんは成人しているから、飲酒自体は構わない。問題は、どうしてこんなになるまで飲んだのかということで。そもそも……ハク姉さん、お酒飲む人だっけ?
「ん~、べ~つ~に~」
「いつから飲んでるの?」
「わ~す~れ~た~」
わたしは困ってしまった。どうしたらいいんだろう。
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