第七章 03
 男は、自室で荷物をまとめていた。
 しかし、荷物といえるほどの荷物はない。せいぜい弦楽器くらいだ。
 もともとその日暮らしの吟遊詩人で、着の身着のままですごしていた。この王宮での暮らしで使っていた物は、そのほとんどが宮廷楽師として与えられた物だ。
 それらを持っていく事は出来ない。そう思い、男は置いていく事にする。
 そうやって与えられた物をよりわけていくと、男の荷物は結局平服が一着と弦楽器だけになってしまった。
 こんこん、と扉をノックする音が響く。
「どうぞ」
 男の声に、扉が静かに開く。
「……姫!」
 扉の向こうに立っていたのは焔姫だった。
 ノックしてきたというだけで焔姫ではないと思っていた男は、驚いて声を上げてしまう。
「なれが出ていこうと考えておったとは、思いもよらんかったわ」
「……申し訳ありません」
 焔姫はさみしそうに笑う。
「……確かに、余のそばは窮屈じゃったじゃろうがな」
「めっそうもない」
 目を丸くして焔姫を見るが、焔姫は表情を変えない。
「この九ヶ月半の間は、これまでで最も充実しておりました。その思いに一切の偽りはありません」
「なら――」
 焔姫は気弱に言いかけ、うつむく。
「――それなら、いいのじゃがな」
 何となく、本当は違う事を言おうとしたのではないだろうか、と男は思う。
 それが何なのか、男には判断がつかないが。
「それに……姫も遠からず結婚されるでしょう。そうなれば、私も今までのようにお付きする事など出来ませんよ」
「……」
 男は冗談めかして言ったつもりだった。焔姫に「くだらぬ事ばかり言いおって」などとあしらわれると思っていたのだが、予想した返答が無く、男は焔姫の顔をのぞき込む。
「……姫?」
 男の視線を感じてか、焔姫は顔をそらす。そのほほは薄紅に染まっているように見えた。
「……夫に迎えるなら自分より強くなければ認めん、などと言うのではなかった」
 焔姫はうつむいて、男には聞こえないようぽつりと小さくつぶやく。
「何か……おっしゃいましたか?」
「……何も言っておらぬ」
「そうですか? しかし――」
「――くどい。余は……余は、何も言っておらぬ」
 そう言う焔姫の顔は、泣き出してしまいそうにも見えた。
「左様で、ございますか」
「……」
 黙りこくってしまった焔姫に、男は何と言えばいいかと途方に暮れる。
 視線をさまよわせ――机の上に広げていた羊皮紙に目がとまる。その羊皮紙には、男が作った「焔姫」の譜面が記してある。
 男はその羊皮紙を手にすると、焔姫に差し出した。
 気のなさそうに男の差し出す羊皮紙を見る焔姫は、それに記されたものが譜面だと気づいて目の色を変える。
「……これは」
 焔姫にもそれは予想外だったのだろう。
 そこには歌詞や主旋律だけでなく、全ての音や演奏法までもが事細かに記されていたのだ。
「お受け取り下さい。これは姫のためのものです」
 男がそう言うが、焔姫は受け取る事が出来ない。
「これは……これは、なれの頭の中だけに留めておくべきものじゃ。このように形にしてしまえば……」
 誰でもなれと同じ事が出来てしまうではないか。
 焔姫はそこで口をつぐんだが、男にはそう言おうとしたのが分かった。
 男は、そう出来るようにとその譜面を書いた。広間での演奏を余すところなく再現出来るものを。
 たとえ自分がいなくなっても、焔姫が望んだ時に誰かがそれを演奏出来るようにと。
 しかし、それを譜面に残すという事が吟遊詩人としてはありえない行為だと、男は当然理解していた。
 皆が傑作だと認めた曲。普通に考えれば、それは自分だけが演奏出来るようにしておいた方が自らのためだ。男だけがその曲を演奏出来るという事実は、それだけで自らの価値になる。
 男が全身全霊をかけた曲を譜面に記すという事は、その自らの価値を投げ捨てるという事にほかならない。
 この「焔姫」という曲が誰にでも演奏出来てしまうのなら、曲を聴くために男を必要とする理由がなくなってしまうからだ。
「だからこそ、です」
 男はほほ笑む。
「こうする事が、姫のためだと思っております」
 ためらう焔姫に、男はなんでもない事のようにそう言う。
「これがあれば、私がいなくても姫はいつでもこの曲を聞く事が出来ます。それにこの曲は……姫が歌ってこそのものです。姫なら、私よりも感情豊かに歌えるでしょう」
「……なれは大馬鹿者じゃな」
 ようやく羊皮紙を受け取り、焔姫は笑う。が、その表情は悲しそうだ。
「しかし……もうなれに会えぬとなると、さみしくなるの」
 その言葉に、男はきょとんとした。
「私は別に、この国を去ったら二度と帰ってこないと思っているわけではありませんよ」
「なんじゃと?」
「ただ、流れの吟遊詩人として様々なところを流浪しようというだけの事です。時折この国にも顔を出すつもりでございます」
 男の説明に、今度は焔姫がきょとんとする番だった。
「なんじゃ、そうだったのか。……それならそうと早く言え」
「も、申し訳ありません」
「……てっきり、二度と帰りぬつもりじゃからこのようなものまで用意しておるのかと思ったわ」
 焔姫は拍子抜けしたように、あきれたようにため息をつく。
「そういうつもりだったわけでは……」
 うろたえる男に、焔姫は笑う。
「まあよい。付近に来た時は必ずこの国に寄れ。無論、王宮にもの。なれの作ったこの『焔姫』、なれよりもうまく歌ってみせようではないか」
 その言葉に、男も笑みを返した。
「ええ。楽しみにしておりますよ」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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焔姫 31 ※2次創作

第三十一話

今は音楽が溢れていて、楽器店に行けば楽譜も沢山置いてあります。
ある程度のお金があれば楽器を買って教本を買って、好きな曲を演奏したりする事も簡単です。
けれど、昔はそんな事なかったんだろうな、とこの回を書いていて思いました。
現代では、昔は無理だった事が簡単に出来るようになりました。けれどその分、いろいろなものがあふれかえってしまっているようにも感じます。
何か自分のやった事を人の心に残したい、と思う時、そこに私たちは他人には真似の出来ない何かをなさねばならないのだろうなと思います。

閲覧数:46

投稿日:2015/04/13 22:31:34

文字数:2,315文字

カテゴリ:小説

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