リリアンヌは気まぐれだ。だから使用人たちは往々にして彼女に翻弄されることになる。今、僕もまた彼女の気まぐれに振り回されていた。
「剣術でわらわが負けたことは一度もない。アレン、いくらお主でもわらわには敵わぬじゃろう。」
僕はただニッコリと愛想笑いを浮かべて静かに頷く。誰も君相手に本気出せるわけないだろ、と心の中で密かに毒づきながら。
リリアンヌの午後のティータイム。さっさと食器を下げて山のようにある仕事を片付けるつもりだったのに、リリアンヌは突然自慢話を始めた。延々と自慢話に付き合わされることかれこれ二時間。僕の脚は解放されるそのときを今か今かと待ちかねている。
「剣術だけではないぞ。わらわにかかれば馬術もお手のものじゃ。」
これに限ってはあながち間違いじゃない。僕は散々苦労したのに、リリアンヌはあっさりと、たった一回で乗りこなしてしまった。それは僕がまだ王子として王宮にいたときのことだ。
―――――
「おお!リリアンヌは上手いなあ。」
父がいつになく明るい笑顔を向ける先には、馬に跨り嬉々としてはしゃぐリリアンヌがいた。
「見て見て!おとーさま~!」
「その調子その調子!手綱から手を離すなよ~!」
いつもは厳しい父がこのときばかりは眩しい笑顔を見せていた。僕を置いて飛び交う二人の明るい声。僕は二人のやり取りを微笑ましく思うと同時に、リリアンヌにある種の嫉妬を感じた。すぐ近くにいるはずの二人がどこか遠くにいるようにさえ思えた。
「ふう。楽しかった~。」
リリアンヌは声を弾ませながらぴょこんと馬から降りた。
「アレクシル。お前も乗ってみろ。」
父に促され、僕はすうっと静かに馬を見据え、一歩ずつゆっくりと歩み寄った。目の前に立ってみると馬はますます大きく見えた。リリアンヌにできたんだ。僕にできないはずがない。覚悟を決めて鞍に手を掛け、思いっきり飛び乗る。
「うわっ!!」
いざ乗ってみると予想以上に不安定で、とてもじゃないけどバランスなんてとれなかった。ぐらぐら揺れる鞍の上で僕は必死に手綱にぎゅっとしがみついた。ふと下を見下ろすと、地面が普段の何倍も遠くてますます恐怖する。泣きそうになりながら、ただただ馬の背で震える以外何もできなかった。
「おいアレクシル、ちゃんとやれ!」
父の怒鳴り声に僕は目をぎゅっとつむる。ちゃんとやれと言われても、恐ろしくて動けなかった。僕は馬にしがみついて「あ…う…」と情けない声を漏らすばかりだった。怖いよ。助けて。そう思って手綱を一層きつく握りしめる。父の怒号がひっきりなしに飛んでくるけど、何言ってるかなんて気にしてられなかった。だんだんと汗ばむ僕の両手。次の瞬間、手綱が僕の手からずるりとすっぽ抜けた。
「うわっ!!」
視界が傾く。馬の体が一瞬で視界から消え去る。次の瞬間襲ってきたのは、ずしゃりと生々しく鈍い音、そして焼けるような左腕の痛み。目に映っていたのは、いつもより九十度傾いた風景。ぽかんとしているうちに左半身はずきずきと痛みはじめた。遠くからドタドタという足音と僕を呼ぶ切羽詰まった声が聞こえた。そうしてやっと、僕は馬から落ちたんだと気付いた。
「う…ひっく…。」
一度分かってしまうともう抑えがきかなかった。痛さと悔しさでみるみるうちに目に熱いものがこみ上げてくる。
「う…うわあああああああああああああん!!」
音を上げて泣いていると、ひょいと体を起こされた。
「アレクシル、男ならこれくらいのことで泣くな!!」
涙の向こうにいたのは、いつも通りの厳格な父だった。慰めるどころか叱責される理不尽さに僕はさらにおいおいと泣き叫んだ。その後のことはよく覚えてない。王宮専属医師に薬を塗ってもらったような気がする。ただ、ひとつだけはっきりと覚えていることがある。リリアンヌと二人で部屋に戻ったときのことだ。
「いたいよう…。」
なおもヒリヒリと痛む腕に、ずきずきと痛む体に僕は半ベソ状態だった。
「アレクシル、泣いちゃダメ!」
おませな女の子のようにリリアンヌがぴしゃりと言い放つ。
「だってえ…。」
厳しいリリアンヌの言葉にまた目が潤む。男だからって痛いものは痛いし泣きたいものは泣きたいんだ。
「大丈夫。」
お姉ちゃんがいるから、なんて得意気な顔でリリアンヌは僕の顔を覗き込む。そして僕の左腕を優しく撫でながら、誰もが子どもの頃一度はかけてもらったであろうおまじないを口にする。
「痛いの痛いの飛んでいけ~!」
それだけのことなのに。たったそれだけのことなのに。さっきまでじんじんと痛かったのがウソのようにすうっと引いていった。後に残ったのはヒリヒリとした嫌な熱さじゃない。胸の奥でじんわりと広がる、心地いい温かさだった。
「どう?」
「…痛くない。」
僕は目をしばたたかせながら呟いた。あれほど痛かったのに、どうしてこれだけのことで痛くなくなったのか不思議でしょうがなかった。
「よかった!」
リリアンヌはそう言ってぱあっと笑顔を咲かせる。
「アレクシル、はんぶんこするの。」
「え…?」
「私たち双子なのよ。痛いも、怖いも、苦しいも、悲しいも、みんなみんなはんぶんこするの。はんぶんこすれば何があってもへっちゃらでしょ?」
「うん…。」
「アレクシルは強いのっ。私がいつでもはんぶんこしてあげるから!」
そう言って笑うリリアンヌはキラキラ眩しく輝いていた。その言葉と笑顔は僕の太陽になった。僕は王宮を去った後、養父の厳しい指導に耐えて馬術をものにした。馬術だけじゃない、剣術だって身につけた。リリアンヌの言葉を抱きしめるだけで、どんなにつらくても頑張れた。強い自分でいられた。リリアンヌが太陽なら僕はさしずめ月だろう。リリアンヌに照らされて静かに佇む月。それでいい。君は王女で…僕は召使なんだから。
―――――
「――ン!!アレン!!」
名前を呼ばれ、僕はハッと我に返る。目の前ではリリアンヌが鋭い目で僕を睨んでいた。
「お主、わらわの話聞いてなかったじゃろ?」
「…申し訳ありません。」
下手に言い訳しても墓穴を掘るだけだ。僕は深々と頭を下げた。
「わらわの話を無視するとは、お主も偉くなったのう。」
まずい…完全に怒っている。僕の額を冷たい汗がつと伝った。どうしよう…。そう思って身を固くしていると、僕の右手にリリアンヌがそっと触れた。
「…リリアンヌ様?」
「わらわに付き合え。それでチャラにしてやる。」
ぐいと手を引っ張られるまま、僕はよたよたとリリアンヌについていく。連れてこられたのは王宮の外れにある厩。僕の手を離したリリアンヌはジョセフィーヌの背中にぴょんと飛び乗った。
「アレンも乗れ。」
「いや、しかし…私は馬には…」
「わらわに掴まるくらいはできるじゃろ?」
「え!?それって…」
「グズグズするな!さっさと乗れ!」
「は、はい!!」
僕は既にリリアンヌを怒らせた身。拒否権なんて存在しない。僕はリリアンヌの後ろに飛び乗り、恐る恐るリリアンヌのドレスを申し訳程度に掴む。
「もっとしっかり掴まれ!振り落とされても知らぬぞ!」
「…失礼します。」
僕はリリアンヌの腰にぎゅっとしがみつく。ああもうどうしてこの子は平気でこんなこと言えるのかな?僕らだってもう年頃だ。しかも、記憶をなくしてるリリアンヌにしてみれば僕は肉親でもなんでもないのに…。姉の危うさを感じて一層強く抱きしめる。他の誰のでもない。この僕の姉なんだ。
僕の気持ちなんてお構いなしにジョセフィーヌはゆっくりと歩きだす。僕はリリアンヌの温もりに身を預けていた。こうしてくっつくのは何年振りだろうか。懐かしい姉の温もりは、愛おしく、そして心地よかった。ジョセフィーヌはそのままとことこと歩みを進め、しれっと裏庭から王宮を抜け出す。本当なら諫めるべき場面だけど、リリアンヌの機嫌を損ねるわけにもいかないので黙っていた。…なんていうのは建前だ。止められないんじゃない。止めたくなかったんだ。経緯はどうあれ、僕は召使でリリアンヌは王女。何も考えずにじゃれ合えたあの頃とは違う。こういうときでもなければ僕はリリアンヌの体に触れることさえ叶わないから。
ジョセフィーヌは歩く。静かに歩く。時々心地いい風が僕たちを通り過ぎていく。風がふんわりと運んでくるのはリリアンヌの匂い。上品で高貴な香りじゃない。ほのかでささやかな甘い匂い。僕はただただリリアンヌの腰を抱きしめる。細くて今にも折れそうな腰だった。目に映る、僕よりも一回り小さな背中。この子は一国の王女様である以前に一人の女の子なんだ。この子はこの背中にどれほどのものを背負っているんだろうか?それを思うと言葉にできない色々な想いが次々にこみ上げてくる。センチメンタルに任せて僕はリリアンヌの背に頬をそっと預け、目を伏せた。
どれほどの間ジョセフィーヌの背中で揺られていただろうか。しばらくしてジョセフィーヌはゆっくりと歩みを止めた。
「ほれ、着いたぞ。」
名残惜しさを覚えつつ、僕はリリアンヌから腕を離した。辺りを見回すと、そこはかつて僕とリリアンヌが二人で遊んだ思い出の海岸だった。広い広い海岸にぽつりと佇む僕ら。どこか哀しげな波音だけが静かに響く。
「見てみよアレン。」
リリアンヌが指差す先。そこには雲一つないオレンジの空。地平線に接した橙黄色の太陽に海が、空が、砂浜が照らされている。夕日なんて飽きるほど見てきたはずなのに、そのどれとも比べられないほど美しいと思えた。
「いい眺めじゃろう。」
溜息でもつくかのようにリリアンヌが呟く。僕も静かに頷く。
「この夕焼けは独り占めするにはもったいなくてのう…。アレン、お主とはんぶんこしたかったのじゃ。」
胸の奥を優しくすくわれるようだった。リリアンヌは僕の正体に気付いていない。それでも僕を選んでくれた。自分という存在をリリアンヌに認められたようで、胸の奥から身体じゅうにすうっと温かいものが広がっていく。僕らで夕焼けをはんぶんこするなら、リリアンヌが昼で僕が夜だろうか。昼と夜があって初めて夕暮れは訪れる。僕は何があってもリリアンヌのそばにいる。この美しい夕焼けを守るため。
リリアンヌは今までたくさんはんぶんこしてくれた。次は僕の番だ。君が一人で背負っている寂しさも、苦しさも、僕が全部全部はんぶんこしてあげるんだ。そうすれば君は強い子でいられるから。かつての僕がそうだったように。
「光栄ですリリアンヌ様。」
僕は静かに笑いながら、恭しく一礼した。
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