ガタガタとテーブルが震えている。
一瞬地震かと思ったが、震えているのは自分だ。そう気づいて、紙にペンで詞を書いていたグミは、顔を上げた。
寒くはない。額に手を当てたが、熱もない。しかし、震えは止まらない。
何かおかしな病気だろうか? それとも物理的な原因があるのか?
状況を把握しようと、一度テーブルから離れた。椅子から立ち上がると、膝が笑っている。
そして、電灯がチカチカと点滅し、何かに吸い取られるように光が減退して行く。
停電? と、妙に冷静に思った。闇に眼が慣れるまでじっとして居ようと思ったが、震えは治まらない。
闇の中に、「何か」が居る…ような気がする。
グミは、心霊現象に関しては、とんと無頓着な性格だった。お化けより妖怪より、怖いのはニンゲン。それは日々自分にも言い聞かせていることだった。
だが、体の震えは全く治まらない。きっと、脳か脊椎か、神経系がどこかおかしくなったのかも知れない。病院に連絡を…。
スマホを取り出そうと、暗がりの中で鞄を探す。だが、その頃には手足が痙攣するように震えていて、言うことを聞かない。ボタンを押すどころか、手がこわばりスマホの本体をつかむことも出来なかった。
崩れるように床に腰を落とす。ガチガチと歯を鳴らし、痙攣している手をなんとか肩に乗せた。もう、全身のどこが震えているのかもわからない。
お父さん、早く帰ってきて! グミは、唯一の親類である父親が、この窮地を救ってくれることを願った。
同僚と飲み屋で数本のビール空けて帰って来たグミの父親は、玄関の鍵を開け、リビングの明かりが真っ暗なのを不審に思った。
「おい。グミ。居ないのか?」と聞いても、返事はない。
電気のスイッチを押すと、明かりは簡単に着いた。そして、父親は、娘が目を開けたまま意識を失っているのを見つけた。
その様子は、自殺した妻の亡骸を発見したときに似ていた。
救急車の音が、イアの勤めている事務所に聞こえてきた。「救急車が通ります。道を開けて下さい」と、機械音声が流れている。
こんな夜中に、大変だなぁと思いながら、イアは「そう言えば、あの二人に、残業するって言ってなかった」と、自分の護衛をしてくれている双子の姉弟の事を思い出した。
中学生くらいの2人が20時以降まで外に居たら、補導されてしまう。イアはそう思って、残りの作業を手早く終わらせた。
ビルの閉まる時間が近づき、レンは屋上に取り残されないように、階段を走り下りていた。
自動ドアの外に出ると、丁度、救急車が通り過ぎる所だった。真っ黒な影に包まれ、煙のような黒い尾を引きながら、走り去る救急車が。
レンは、すぐにスマホでリンに連絡を入れた。「何?」と、リンの返事が聞こえる。「リン! 一大事だ。俺は、別件のほうを追う。イアさんは頼んだ!」
そう言うだけ言って通話を切ると、レンは煙のような「悪意」の気配を追って、救急車の向かった方へ走った。
リンは、スマホを切って、先日の知らない女の人のことを思い出した。レンの口ぶりからして、きっとあの人の事だ。今、どこか遠くない場所を通って行った救急車が関係しているのだろうか。
あの時、あの人の目の中を覗くチャンスがあったら、もしかしたらもっと早く助けられたかもしれない…。そんなことを思って、唇を噛みしめた。
「もしも」を夢見てる暇があるなら、今すべきことを遂行しようと、気持ちを落ち着けた。
「リンちゃん。遅くなってごめんなさい」と、仕事を終わらせてきたイアの声がした。
「イアさん。今日は、会ってほしい人が居るの」と、リンは言う。
「もしかして…ミクさん?」と、イアは聞く。「そう。イアさんに憑りついてる『ウイルス』の原因を知るためにね」と言って、リンは自分達の家にイアを連れて行った。
2LDKの平屋の小さな家に招かれ、イアは、メイクを落として普段着を着ているミクと初めて会った。
すっぴんのミクは思ったより童顔で、露出の少ない服を着ていると、いかにも初々しい若者と言う雰囲気だ。
だが、目は一緒だ。物体ではない「何か」を見透かすような、透明な緑の目。だが、その視線は鬱陶しいものではなく、医者が患者を診るような、労わりの気配がある。
「久しぶり。イアさん」とミクは気軽に声をかけてくる。「店にも来てくれないから、心配してたよ」
「ありがとう。少し、仕事が立て込んでて」と、イアは事実を述べ、疑問を問う。「リンちゃん達から聞いたけど、私に『悪いもの』が憑りついてるって…本当?」
「うん。あなたを守ってるものも、よくここまで持ちこたえたよ」
既に「何か」が見えているらしく、ミクはローテーブルの向かい側に居たイアの目を、じっと見る。
「あなた、最近、死ぬことばかり考えて無かった? 真剣なものでなくても、冗談半分や、仮説として」
心の中を見透かされると言うのは、こう言うことか、とイアは思った。そして、正直に答えた。「うん…。昔亡くなった友達の誕生日が近くなると、よく『死』について考えちゃう」
「そう。それから、ここ最近で、身の周りで誰か亡くなった人はいない? 全然関係ない他人でも」と、ミクはまるで知っているように問う。
「もしかしたら…って言うくらい、全然関係ない人でも?」と、イアは問い返す。
「ええ。あなたの印象に残ってる人」と、ミク。
イアは、自分の通った横断歩道で、5分後に交通事故が遭ったことを、ひどく気にしていたと告げた。
「ああ、その人で間違いないわね。段々形がはっきりしてきた」と、ミクは言った。「リン、イアさんの右手を握ってあげて」
リンは、黙ってイア右側に回り、「大丈夫」と言って、イアの手に手を添え、右肩に手を置いた。リンが、ミクを見る。
ミクも、確認するように頷いて、瞬きをせずイアと視線を合わせた。
視線を逸らす間もなく、イアの意識は「内側」のほうに引き込まれた。周りは真っ暗な闇。質量を持った闇が、泥のように手足に絡みつく。
闇の中に溺れそうになり、イアはもがいた。
「お前がお前がお前が」と、誰かがイアの左耳に呟いている。「お前が殺した。俺を殺した。何故お前は生きている。お前が死ねば死ねば死ねば」
蠢くような声が、頭の中を支配しようとする。怨念と言うものだと言うことが、イアにも分かった。
「私は私は私は」とイアの頭の中で、自分の声がする。「私は…死なない」
自分の右手と右肩に、強い力を感じる。「お前お前お前なんか…」頭の中の自分の声とかぶさるように、二人の少女の声がした。リンと、アイの声だ。「お前なんかに…殺されるもんか!」
闇が切りはらわれ、イアは光の中に自分が浮き上がって行くのが分かった。ぎゅっと握られた右手から、暖かい光が流れ込んでくる。
「こっちよ。イア!」と、懐かしい声が呼んだ。その声のする方へ、イアは光の中を泳いでゆく。
「アイ!」と、親友の名を読んで、イアは、のばされていた白い手を握った。
「いつまでも、泣いてちゃだめだからね?」
12歳の姿のアイは、そう言ってイアを抱きしめ、イアの体の中に溶けた。
その瞬間、イアは意識を取り戻した。
イアの体を支えていたリンが、「イアさん。手、痛い」と言った。いつの間にか、イアは爪を立てるほどギュッとリンの手を握っていたのだ。
「ごめんなさい…」と言って、イアはリンの手を放し、今、自分に起こった現象が何なのかを考えた。
「おめでとう。あなたは『悪魔』に勝った」ミクが言う。「これから、友達の誕生日には、『死ぬこと』じゃなくて、『生きること』を考えてあげて」
イアの右目から、自分のものではない涙が、一筋流れた。
グミの搬送された病院は、奇しくも、かつて彼女の母親が亡くなった病院だった。
グミの父親は、これは何かの呪いなのかと、娘を襲った突然の異変に恐怖を覚えた。ベッドに横たわっているグミは、看護婦に何度瞼を撫でられても、目を閉じることが出来ない。
そんな娘を見かねて、父親は廊下のソファに座り込み、膝の間に手を組んで、「もし、神様と言うものが本当に居るなら、あの子を救ってくれ」と念じていた。
その念が届いたように、一人の少年が現れた。曇りのない金色の髪と、澄んだ青い目の少年。
「おじさん、今運ばれてきた女の人の親戚?」と、少年は聞く。「君は…誰だ?」と、父親は当然な疑問を尋ねる。
「ちょっとした、訳知り。少し前から、あの人の様子がおかしいって事は知ってた」
「娘を知ってるのか?」と、父親は聞く。
「知り合いってほどじゃないけどね。たぶん、娘さんは俺のことは知らない。町で、ちょっと見かけてたくらい」
娘が路上歌手の活動をしていることを知っている父親は、レンを恐らく娘の観客か何かだろうと思ったようだ。
「娘のファンか…。とても見られたものじゃないが、着いてきなさい」
と言って、父親はグミのベッドの脇まで少年を連れて行ってくれた。
少年の視界に、黒い影が映る。少年が顔をしかめたのを、父親は「目を閉じれていない」事に対する反応だと思ったようだ。
「心臓は動いてるんだ。肺も。唯、意識が無い」と、父親は医者から聞いた説明を少年に伝える。
「ああ。こりゃ、ひどい有様だ…。俺、自分に向かってくるもの以外は、あんまり祓うの得意じゃないんだけど…」
と言って、少年は虫を捕まえるように、左手を振り、見えない「何か」をつかんだ。
その途端、グミが「ガハッ」と、喉から空気を吐いた。
どんな対処をしても無反応だった娘に、何かが起こったことを知って、父親は「グミ。どうした?!」と、呼びかけた。
少年は、「何か」をつかんだまま、草を引き抜くように腕を振った。そして、「何か」を植え付けるように、自分の足元に握りこぶしを下した。
ズンッと、重たい何かが床に落ちたような感覚を、父親も感じた。
「これで良し。後は鬼ごっこだな」と言い残して、少年は病室から走り出た。
グミが、黄緑色の瞳を瞬き、それまでピクリともしなかった手を持ち上げて、頭の両側に添えた。
「あ…あたし…。生きて…る」と、グミは呟いた。そして、自分の喉元に手を当てる。「切れて…ない」
父親は、娘が意識を取り戻したことに歓喜し、ナースコールを押した。
夜の闇の中を、レンは「逃げる」ように走った。自分の影に植え付けた「悪意」が、他人に乗り移らないように、そして、走り続ける自分の体力と気力が持つように。
闇の溶けた影の中から、無数の声がする。「苦しい」「寒い」「命だ」「温い命だ」「その火をおくれ」「私も」「俺も」「走るな」「火が通る」「走るな」「命食わせろ」
レンは、それ等の声を全部無視した。少年が目指している場所は、人の居ない広場。この町で、浮浪者一人いない場所。そして、影と闇を切り離せる、光が当たる場所。
電信柱の蛍光灯が灯る駐車場が、おあつらえ向きだった。
レンは、街灯の光の中に飛び込んだ。周りの「悪意」を集め、膨張した黒い「悪魔」が、少年の影の中から黒い蒸気のように沸き立つ。
「それ」は、既に何を言っているか聞き取れない罵声を浴びせながら、少年に襲い掛かった。
拳を固め、レンは自分の影を殴った。白い光がその拳の周りに点り、影と「何か」を切り離す。憑依が解かれ、少年の頭に囁きかけていた声が消えた。
「何か」は、泡立つ雲のように蠢きながら、少年の命を取ろうと足掻いている。自分達の失った、温度を求めるように。
「そんなに物乞いしたきゃな…」と言ってレンは「何か」をにらみ、片手に「力」を込め、「とびっきりのをくれてやる!」と言って、向かって来た「何か」に拳を振るった。
レンの拳と、黒い雲がぶつかる。黒い雲の中に、白い雷が走る。雷は雲を切り裂き、白い光の中に抹消した。
ふぅっと、レンは息を吐く。「ひとまずOK」と言って、気を緩めようとすると、街灯の光の外から、何かが這いずってきた。
「苦しい。苦しい。助けて。どうして。どうして私は。死ねないの」
言葉遣いからして、女性だ。死に装束を着て、喉から血を流している。
その這いずる女性の脚をつかんでいる「悪魔」達が言う。
「あの娘だ。あの娘がいる。お前の娘が要る。だからお前は死ねない。だからわしらも死なない」
レンは、嫌悪感を隠すように目を伏せ、街頭の光の届くギリギリまで、女性に歩み寄った。
「ほざいてろよ。『悪魔』共」そう言って、少年は青い目に怒りを宿し、再び拳を握った。「目障りだ」と言ったレンの拳に、白い光が灯る。「消えて、無くなれ!!」
女性の脚をつかんでいた「悪魔」に向けて、レンは拳を振り下ろした。衝撃波のように広がった「力」が、闇に紛れている者達を粉砕した。
「悪魔」が消え去ったことを確認し、レンは、喉から血を流している女性に、片手を差し出した。
「憑いて来いよ。あんたを助けられる人に、逢わせてやる」
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