第三章 01
西方の大国の軍が壊滅してから、四ヶ月が経過した。
焔姫の弁の通り、西方の大国から報復があるような事態にはならなかった。
男がこの都市国家の宮廷楽師として召し抱えられてから、まもなく九ヶ月が経とうとしている。
それだけの時間が経過してなお、男は未だに焔姫の曲が作れていないままだった。
やはり、姫から曲の制作についての催促はない。この九ヶ月間、一度として言ってこない辺り、もしかすると本当に忘れているのではないかと考えてしまうほどだった。
これだけ隣に付き従っていても、男は未だに焔姫の事が分からないとよく感じていた。
あの軍人との決闘の時もそうだ。
決闘直前まで、焔姫はうきうきしている、と言っていいほど高揚していた。だというのに、決闘が終わってみれば焔姫は決闘の、そして戦のむなしさを痛感するような表情をしていた。その心境の急激な変化に、男はただただ戸惑うばかりだった。
まるで幼子のようだ、と思う事がある。
そう思えば、次の瞬間には男など及びもしない深い考えを抱いている事に気づかされる。
理にかなっていると思えば、直後に単なるわがままを言ったりする。
理解しようなどと考える事が間違っているのかもしれない。だがそれでも、曲を作るために、そして焔姫のまた新たな姿を見たくて、男は彼女の隣に立つ。
あまりにもずっと一緒にいるせいで、王宮内では焔姫と宮廷楽師の仲が親密だと噂になっていた。
自らの身分を思えば、それは王宮内での立場が危うくなりかねないのではないかと、不安になった時期もある。しかし、男と焔姫の仲がいいという事実は、意外にも王宮内ではかなり好意的に受け取られていた。
それは裏を返せば、それだけ焔姫に苦手意識を持つ者が多いという事でもある。「焔姫と宮廷楽師が一緒にいるようになって、自分に無茶を言ってくる事が減った」と思う者は少なくないのだ。
時折、王宮の者から「焔姫に振り回されて大変でしょう」などと言われる事がある。
男は本心から「そんな事はありませんよ」と答えるのだが、皆、男が焔姫に気を遣っているのだな、としか思っていないようだった。そもそも焔姫と親密になれる者の存在が不思議でしょうがない、という態度の者も、少数とは言いがたい。
そのせいか、焔姫と親密であるというだけで、噂に余計な尾ひれがつく事もある。だが、実際のところ焔姫が彼を男として見ている様子は皆無だった。
心底がっかりしたように「なれに剣の才があればの」などと言われてしまえば、仮に身分の近いがなかったとしても、恋や愛だとかの対象として考える事すらおこがましいと思えてくる。
「明日、余は戦に出る」
軍本部でナジームら幹部たちと会議ののち、焔姫は男にそう告げた。
「私も……お伴します」
そんな男の言葉に、焔姫は露骨に顔をしかめる。
「戦えもせぬのに来てどうする。邪魔じゃ」
男は試しに剣を握ってみた事はある。が、意外に重いそれをずっと持っているだけで腕が悲鳴を上げた。そんな事をしていては祭事の際の演奏に支障が出るため、その一度きりで男は剣を持つ事をやめてしまった。
「しかし――」
「何がしかしじゃ。角笛や太鼓ならともかく、弦楽器など戦の役にはたたぬ」
「しかし!」
それでもあきらめようとしない男に、焔姫は片眉を上げる。口にはしなかったが「申してみよ。ただし、ろくでもない理由だった時は覚悟は出来ておろうな」という言葉が男には聞こえるようだった。
「今のままでは、いつになっても姫の曲を作る事が叶いません。何卒、同行をお許し下さい」
男は頭を下げるが、焔姫からの返事はない。
駄目だったか、怒らせてしまっただろうか、と少しだけ視線を上げて焔姫の表情をうかがうと、仏頂面の影にほんの少しだけ嬉しそうな色が見えた気がした。
それも本当に一瞬の事で、勘違いだったかもしれないと思うほどだった。
「……伝令の兵士を護衛につけさせる。その上で、戦場からある程度離れたところで見渡せ。それが限度じゃ」
「……承知しました」
焔姫は男の安全を守る事の出来る最低限のラインを告げていた。さすがにそれ以上に主張する度胸は男にはない。
「余の近くにいようものなら、なれはすぐに死んでしまうからの」
焔姫の言葉はおそらく事実だ。男には反論の余地などあるはずもなく、愛想笑い程度しか出来ない。
「また戦場に行く以上、軍の規律に従ってもらう。軍とともに行動する以上、規律は絶対じゃ。いかなる例外も認められぬ。一度でも例外を認めれば、それはすぐに拡大して軍の腐敗を招くゆえな。それを守れぬなら、戦場を見せる事も叶えられぬ。なれのせいで被害が拡大してはたまらぬからな」
「承知しました。ありがとうございます」
「ふん……なれも中々に頑固よの」
焔姫はそう言って、渋々ながら男の同行を認めたのだった。
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