それは、必然。
なぜならば、二人は出逢うために生まれてきたのだから。
今
二人の物語が、はじまる。
…綸、漣・二…
足の裏から強烈に響いてきた痛みに、綸は身体を震わせて立ち止まった。
「……っ……はぁ…はぁ……」
立ち止まると、勢いよく暴れた呼吸が胸を叩き、頬を汗が伝う。そのまま視線を下げると、足袋に包まれた左足の親指の付け根辺りが、赤く変色しているのが眼に入った。
そこで、ようやく自分が下駄も靴も履かずに飛び出してきた事を認識する。
何か踏んでしまったのだろう。それほど深い傷では無いようなのは、足袋に滲む血の量で充分に察する事が出来る程度なのだが、急に思考回路に飛び込んできた「痛み」という感覚は、無我夢中で家を飛び出してきた自分の頭を冷やすには十分なものであった。
「………あたしったら……」
思わず自嘲を浮かべ、そっと瞳を閉じた。
今頃、屋敷は大騒ぎかもしれない。部屋の扉を叩いても返事をしない自分が、もう眠り込んでしまっていると思い、両親たちが自室の扉を開けるのを諦めてくれていればいいけれど……。
顔を上げ、改めて周囲を見回した。
当ても無く走って来てしまったけれど、不思議と知らない場所では無かった。
女学校近くの十字路。右に伸びる長い坂道を上った先が、綸の通う女学校である。真っ直ぐ行けば、昼間は賑やかな大通りに出る。そして、左側は綸もよく足を運ぶ図書館に続く道。
本当ならば、ここで踵を返して屋敷に戻るべきなのだろう。
でも……。
「………」
綸は、傷ついた足を多少引き摺りながら、左の道へと入って行った。
図書館の周囲は、桜の並木道が続いていて、今が盛りと美しく咲いている。そして、その敷地内には、樹齢百数年以上と伝えられる立派な桜の古木があるのだ。その桜が見たくて…いや、その桜が呼んでいるような気がして……。
そんな事を言えば笑われるかもしれない。
だが、今の自分にはそんな世迷言であれ縋りたい心があり、そして何より「本当に呼ばれている」気がして、綸は痛む足をゆっくりと前に出しながら歩いた。
春霞が、ゆったりと濃くなってゆくように見える。
まるで、どこか、知らない世界へ入って行くようだ。
……ほら…、寄せては返す漣(さざなみ)のような、天上に響く至高の音楽すら、聴こえてくる………。
バイオリンの弦が、いつもよりも優しく力強く空気を震わせているのがわかる。
こんな演奏、初めてだ。
まるで、空気以外のものと共鳴しているようだ。
その共鳴は、どんどんと力強くなり、自分の心臓すら震わせていく。
瞳を閉じて、その共鳴に身体ごと飛び込んで行く。心ごと投げ出せば、漣は自分が音そのものになった気がした。
「………」
そして、感じる。
音が、共鳴していた「もの」を。
「それ」は、ゆっくり近づいて来る。
たゆたう春霞をしずしずと分け、それでも確実に近づいて来る。
心が高鳴り、弓を引く手に一瞬力が籠った。
―――っ……!
一瞬、意識が引き戻される。
しまった、と思った瞬間、糸が震えた。
空気を引き裂き、音を小さく破裂させて、四本ある糸のうちの一本が弾ける。
まるで、自分の役目は終わったというようだ。
……ほら…、今、眼の前に、本当に必要な綸(いと)が現れたのだから、と………。
「…………」
綸の眼の前に、鮮やかな桜が現れる。
その古木の下に立つのは、一人の青年。
きっと、彼が漣(さざなみ)の正体。
「…………」
漣の眼の前で、春霞が静かに引いて行く。
その中から現れたのは、一人の少女。
きっと、彼女が綸(いと)の正体。
「………」
呆然として立ち尽くす青年に、少女は小さく駆け寄って来た。
そして、着物の袂から繊細な刺繍の施された白いハンカチを取り出すと、青年にそっと差し出した。
「……お怪我を……」
掠れそうな程に小さな声で、少女は囁いた。
そこで、青年は改めて自分の右頬に走る痛みに手を伸ばした。
「……あっ……ぁぁ……」
手の甲に僅かについた鮮血に、小さく微笑む。
「大丈夫、糸が切れた時に、あたっただけだから」
「でも………」
少女の方が泣きそうな顔をするので、青年は彼女の差し出すハンカチを受け取った。でも、その白い表面を汚してしまうのを一瞬躊躇う。
「……ご容赦下さいませ」
「えっ……」
呟くが早いか、少女の手が伸びて来て、ハンカチを受け取った青年の手を取ると、そのままそっと彼の頬にハンカチをあてる。
きっと、突然触れる事を謝罪したのだろう。
僅かに紅潮する少女に、一瞬気を取られた青年であったけれど、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう」
感謝を述べると、少女もほっとしたように微笑んだ。
そっと少女の手が離れると、青年は改めて自分の傷に白いハンカチをあてる。
それから、不意に歪む少女の顔に眼を見開いた。彼女の視線が迷った挙句に下に向かうので、それに青年の視線も続く。
春の柔らかな芝を踏む、青年の黒い革靴。ひらりと夜風に翻る少女の袴の裾から、一瞬覗いたのは白い足袋。少女は、慌てたように脚を引くも、青年の視界には赤黒く変色した足袋に包まれただけの脚が見えたに違いない。
「失礼……」
「あっ……」
今度は、青年の方が早く動いた。
飴色の楽器とその上に少女から手渡されたハンカチを載せ、そっと芝生の上に置くと、少女の前に跪く。
そして、慌てて引っ込められた左脚の前に、静かに手を差し出す。
戸惑う少女に、青年はふっと顔を上げて真摯に彼女を見つめた。
「見せて下さい」
「……でっ…でも……」
青年は、微笑んだ。大丈夫、と。
少女は更に頬を赤く染めたものの、それ以上強硬に拒否は出来ず、恐る恐る袴の裾から脚を覗かせた。
親指の付け根あたりから滲んだ赤は、何ともいえぬ不吉な色で、白い足袋を染めている。それを見て、少女は改めて自分の脚から眼を逸らした。
しばらくそれを見つめていた青年であったが、ゆっくり立ち上がると少女に話しかけた。
「歩けますか?」
「…ぇっ……あっ……はい……」
手を差し出され、少女はおずおずとその手を取った。
そして、青年に導かれるまま、桜の古木の根元に腰を下ろす。
その間に、青年は学生服を脱ぐと、その下に着ていたシャツの左の肩口に手を掛け、歯をあてた。そして、次の瞬間勢いよくそれを引き裂く。
「!」
驚く少女の眼の前で、青年は引き裂いた左袖を腕から抜き去る。
それから、まずは少女の傷ついた脚をそっと手に取り…もちろん「失礼」と一言断りを入れるのを忘れない…、自分の空色のハンカチをそっと傷口近くにあてた。そして、その上から少々強く自分のシャツの袖を巻き付けて、最後はきっちりと結び目を作り留めた。
「お屋敷に戻られたら、きちんと手当して下さいね」
「あっ……ありがとうございます……」
この聡明な青年には、少女が良家の子女である事は容易に想像出来たのであろう。
しかし、そんな少女がこんな夜更けに、履物も履かずに一人で彷徨っていた事など、問い詰めようとはしない。
少女は、簡易的ではあったけれど、しっかりと固定された傷にも安心したのか、ようやく青年に優しく微笑みかけた。
「……先程、バイオリンを奏でていらっしゃったのは…貴方?」
今度は青年の方が少し照れたような顔をした。
「あっ……えぇ……。…お耳に障ったでしょうか…?」
「いえ、とんでもない…!まるで、天上から響く音楽のようでした」
夢見心地のように少女は囁く。
そう、本当にそう感じたのだ。
心に寄せては返す漣(さざなみ)のような音楽に、自分は引き寄せられるようにここに来た。
「…ありがとうございます」
青年の手が、優しくバイオリンに触れる。
「…こちらこそ、ごめんなさい…。あたしが、驚かせてしまったから……」
少女は詫びた。
きっと、糸が切れたのが、自分が突然現れて青年が驚いたからだと思っているのだろう。
青年は、静かに頭を振った。
「そんな事ないですよ。…この糸は、切れるために切れたんだと……」
そう言って、青年は自分でその後の言葉を飲み込んだ。
そう、「切れるために切れた」。
何故か、そう思った。そう感じた。
この糸は役目を終えたから切れたのだ。そして、この糸の次の綸(いと)はすでに傍にある。
「……れん」
「えっ……?」
少女が顔を上げる。
至極、真剣な顔をした青年の視線が、少女の視線と絡まる。
「れん、と申します」
蓮、廉、錬、煉、漣………。
きっと、青年の名前。
『漣』(れん)。
「……りん、です」
凛、鈴、彬、琳、綸………。
きっと、少女の名前。
『綸』(りん)。
十六夜の月が春霞の間を縫って、二人を照らし出す。
夜桜のむせ返るほどの香りが、二人を包みこむ。
そして。
二人の戀物語が始まる。
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ご意見・ご感想
日枝学
ご意見・ご感想
読ませていただきました 言葉の使い方と音やら情景やらの描写が凄く上手ですね!
執筆ナイスファイトです
2011/06/27 21:56:49
月美夜琴音
>日枝学様
ご拝読ありがとうございます。
まだまだ精進せねばならぬ部分も多々あるのですが、お褒め頂き大変力になります!
どうぞ、よろしければ最後までお付き合い下さいましたら幸いです。
ありがとうございました。
2011/08/19 15:12:02