春真っ盛り。空は青く草の匂いが心地いい。
…ここはどこだろう。迷った。春の陽気につられてふらふらと歩いているうちに、どこかの庭に迷い込んでしまったようだ。
あ、蝶々。追いかける。
いかんいかん、こんなことをしているから大好きな家族ともはぐれてしまうのだ。急に心細くなる。
「可愛い!どこから迷い込んだッスか〜」
一人の少女が近づいてくる。桃色の髪を両サイドで束ねて巻いている。お母さんが、人間には愛想良くしておくと良いことがあるわよ、ご飯が貰えたりね、と言っていたのを思い出す。チャンスだ!
ニャー。足元に擦り寄る。
「人懐っこいッスね!可愛いやつッス」
少女が撫でてくれる。気持ちいい。ゴロゴロ。
そう。吾輩は猫である。
普段は吾輩なんて使わないけれど、今は使うべきな気がした。なんか響きがかっこいい。
茶トラだが、右前足だけは白い。僕のチャームポイントだ。
「シャルテット、こっち手伝ってくれー」
離れたところから声がする。この少女はシャルテットと言うらしい。
「あ、仕事に戻らなきゃッス!この庭園の整備をしてるッスよ。また後でッス〜」
行ってしまった。お日様が気持ちいいので、しばらくここで眺めていることにする。向こうでは数人の人間が、大小様々な岩を綺麗に
並べている。岩なんてその辺に転がってるものを、どうして動かす必要があるのだろう。人間は時々、無駄な行動をする。
右を見ると大きな岩を男性二人がかりで運んでいる。左ではシャルテットがさらにひと回り大きな岩を、一人で、軽々と運んでいる。
あれ、あんな少女がそんな力を持っているとは。人間って見かけによらないんだな。
うとうとしていると、目線の先に黄色いものが目に入った。ひらひらしている。
うずうず。本能には適わない。狙いを定める。緊張の一瞬から飛び掛る!
「な、なんじゃ!」
頭上から声が落ちてくる。肉球がかすったけれど、仕留められなかった。目の前にはまだ黄色いものがある。視線を上げると、また少女がいた。シャルテットよりも豪華な、黄色い服を纏っている。リボンやレースが風に揺れるので僕の本能を刺激する。が、人間相手だ、愛想を振りまこう。
ニャー。
「猫か。可愛いのう」
また撫でてくれる。ゴロゴロ。
「リリアンヌ様!この猫ちゃん迷い込んじゃったみたいッス」
「シャルテット、そうか。この猫、擦り寄って来たぞ。わらわが好きなのかのう」
リリアンヌと呼ばれた少女は満面の笑みだ。
「よし、決めたぞ!わらわはこの猫の世話をする。お主も手伝ってくれるよのう?」
「もちろんッス!!」
僕抜きで、僕の今後が決まったようだ。とりあえずご飯の心配はないかもしれない。
さっそくリリアンヌがミルクを持ってきてくれた。今日は朝ご飯を食べたきり、何も口にしていないことを思い出す。急にお腹が空いてきた。遠慮なく頂く。優しいミルクの味が口いっぱいに広がって美味しい。お腹がすいているからか、それとも高級品?
夜になると小さな箱と毛布で寝床を作ってくれた。ふかふかでよく眠れそうだ。もしかしてこれも品質の高いものなのでは。
翌朝は魚が準備された。これももちろん美味しい。
日中はリリアンヌとシャルテットが遊んでくれる。縦横無尽に振られる猫じゃらしが、僕の本能をくすぐるのだ。ボールを追いかけるのも好きだし、撫でて貰うのも気持ちいい。
二人がいないときは日向ぼっこをしたり、虫を追いかけたり、庭中を探索したりした。
美味しいご飯と安らぎのベッド、充実した日々が流れた。
その日、僕はここに来て初めて吐いた。それも彼女たち二人と遊んでいる最中に。僕にとってはいたって普通のことなのだけれど、凄く驚かせてしまったようで、リリアンヌもシャルテットも固まっている。
「シャルテット、吐いたぞ…。茶々が吐いた!」
そうそう、僕は茶々という名前を貰った。
「茶々、しっかりするッス!死んじゃ嫌ッス!」
僕は死なない、全くの健康体です。
大丈夫だよ、と呼びかけるが二人には僕の言葉は届かない。ただただニャーとしか聞こえないだろう。困った。二人とも泣きそうな顔をしている。
「そ、そうじゃ、ネイ、ネイならなにか知っておるかもしれん。あやつ、情報通だからのう」
「すぐ呼んでくるッス!」
ほどなくしてシャルテットが金色の長い髪の少女を連れて戻ってきた。彼女がネイだろう。
リリアンヌが説明する。
「…と言う訳じゃ。どうすれば良いか?なにか知っておらぬか?」
彼女が僕ら猫に詳しいことを祈る。
「リリアンヌ様、猫が吐くのは珍しいことではないそうです。毛繕いをしたときに溜まった毛玉を吐いたのでしょう。」
まさにそうだ。僕が吐いたものをよく見れば毛だと分かるだろう。
「なら死なないのか?」
「はい、この子は死にません。全くの健康体です」
ネイが僕の言葉を伝えてくれた。リリアンヌとシャルテットに笑顔が戻る。
「そうか、そうなのか…!」
「安心したッス!不安で死ぬかと思ったッス〜」
「シャルテット、そんなことで人間は死なないわ」
それからというもの、たまにではあるがネイも遊びに来るようになった。三人とも笑顔で楽しそうだ。僕も楽しい。これが友達というやつだろうか。
また数日が経ち、リリアンヌにシャルテット、ネイ、その他大勢の色々な様子が垣間見えた。
シャルテットはよく物を壊しては怒られている。それを慰めるのは僕の役目だ。初日に目撃したあの怪力は彼女特有のもので、ほかの多くの少女には当てはまらないらしい。
ネイはたまに冷たい目をする。それは決まって一人のときだ。僕は近くにいるのだけれど。僕だけが知っている表情。補足として、それが僕に向けられたことはない。
そしてリリアンヌ。何故だか彼女だけは周囲と一定の距離が感じられる。だから時折、彼女の寂しげな顔を見ることがある。彼女といるとあんなに楽しいのに、勿体ない。
あ、でも一人だけ例外。彼女によく似た男の子がいた。表面上は他の皆と同じような距離感なのだが、なんというか、心が近くにある感じだ。彼は、数回だけ撫でてくれたことがある。名前は知らない。
とまあ人間には色々あるようだが、吾輩は猫である。人間同士の都合なんかどうでもいい。とにかく僕はここでの暮らしに満足している。リリアンヌもシャルテットもネイも、そして名前の知らない彼も好きだ。
…でも、なにか大事なことを忘れている気がする。
庭園には色とりどりの花が咲き乱れている。視界の端にあった真っ赤な花弁が目を引いた。そういえば、あの花のような真っ赤な毛並みを持つ猫がいるらしい。嘘か誠か分からない、伝説のようなものだ。なんでも、その猫からは僕らみたいな猫特有の匂いがしないそうだ。気味が悪い、関わるべきでない、と語り継がれている。あれは生き物じゃない、とも。本当にそんな猫がいるのだろうか。会ってみたいな、でもちょっと怖いかも。
あぁ、そうだ、そいつはいつも人間といると聞いた。僕ら野良とは違う、家猫だ。
…野良?そうだ、僕は野良猫だ。そして家族がいた。お母さん、お兄ちゃん、今頃どうしているだろうか。ちなみに父親は会ったことはない。猫はそんなもんだ。
家族のことを思い出した途端、寂しくなった。ここでの暮らしは楽しいけれど、家族に会いたい。
ニャー。どこからか猫の鳴き声。お母さんの声に似ているけれど、幻聴だろうか。
辺りを見渡すが何もいない。
と、ガサガサと茂みが揺れる。そこから茶色の毛玉が顔を出した。
お母さん!お兄ちゃんも!
母も、双子の兄も茶トラだ。兄は左前足だけが白い。僕とは逆のチャームポイントだ。きっと誰が見ても家族だと分かるだろう。
一目散に家族の元へ駆け寄る。会いたかった。お母さんが優しく舐めてくれる。お兄ちゃんも安心した目で僕をみた。
さあ、お家へ帰ろう。
三匹揃って踏み出した。
が、やっぱり気がかりだ。たくさん遊んでくれた三人にお別れがしたい。ちょっとだけ待って、と頼んでみる。
「茶々〜、どこかのう〜」
タイミングよくリリアンヌの声がする。シャルテットやネイも一緒のようだ。許しを貰って三人の元へ駆け出した。
「ここにおったか、今日も可愛いのう」
「今日は毛糸を持ってきたッスー!」
ネイもニコニコ笑っている。
遊びながら、家族の元へ三人を誘導した。
「あら、あそこにも猫がいます」
ネイが最初に気づいた。二人も目線をやる。
「ほんとッスね。茶々と同じ柄ッス」
「家族…かのう。」
そうだよ、リリアンヌ!僕の家族!迎えに来てくれたんだ。お兄ちゃん、お母さんも一緒に遊ぼうよ!
「あ、こっちに来たッス!」
リリアンヌ、シャルテット、僕、お兄ちゃんでじゃれて遊んだ。お母さんはネイに撫でられている。皆幸せそうだ。楽しい時間はあっという間に過ぎ、お別れの時間がやってきた。
三人とも、僕が家族の元へ戻ること、ここを離れることをなんとなく察している様子だ。
「寂しくなるッス…」
ネイは言葉にこそ出さないが、寂しそうな顔をしてくれている。
「行ってしまうのかのう…」
リリアンヌは僕ら兄弟のチャームポイントに気づいたようだ。
「お主ら、毛色が鏡みたいじゃ。双子…かのう。」
双子と言うリリアンヌに一瞬だけ別の寂しさが映ったのは僕の見間違えだろうか。リリアンヌには兄弟はいない。
「家族と暮らすのが一番じゃからのう。わらわも寂しいが我慢しよう。…必ずまた遊びに来るのじゃぞ!」
「待ってるッスよ!!」
こうして僕らは別れを遂げた。
また来るからね!
約束通り、僕は何度かあの庭を訪れた。
最初の頃は喜んで遊んでくれたが、日が経つにつれて皆忙しいのか、会えないことが多くなってきた。周囲の雰囲気も慌ただしい。綺麗に手入れされていた庭も荒れ始め、既に見る影もない。今日も三人に会えなかった。
そろそろ僕達家族も引っ越そうと思っている。最後に会いたかったけれど、そう上手くは行かない。
今度の住処は海の近く。新鮮な魚にもありつけるかもしれない。僕は周囲を探索中。賑やかな子供たちの声が聞こえる。お世話をしている様子の女性たちは皆、白と黒のシンプルな服装だ。シャルテットやネイを思い出す。皆元気だろうか。想い出に惹かれ、そして子供たちの楽しげな声に近づく。
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