ただ寄り添って抱かれていたい
悲しみが空に消えるまで
────────────────────
上空八千メートル。
俺の背後に鈍く光る緑の戦闘機が迫ってくる。
『……しつこいやつだ』
俺の背を見つめる名も知らない日本人二人に俺は悪態をついた。
状況は最悪。機銃によるいくつもの傷をかかえた俺のマスタングは今まさに墜落しようとしていた。
本当になすすべはないのか?
俺にとどめを刺すべく、日本の戦闘機ニックが狙いをつけたのが分かる。
聞くのも嫌なエンジンの爆音が耳をつんざく。
俺も、ついに死ぬか。
そう諦めかけ、下を向いた時、俺の目に胸元のポケットが映った。
『あいにくと、俺もそう簡単には死ねないな』
俺は機体を急上昇させる。たぶん、機体は悲鳴を上げるだろう。空中分解も覚悟した。
だが、機体は俺の執念に応えるように鮮やかな上昇ターンをした。
敵機の機銃が宙に散る。
『もらった!』
背後にまわった俺は機銃発射のボタンを深く鋭く押す。
機銃の放たれる心地よい音が聞こえると同時に、眼下の戦闘機のコックピットが紅く染まっていくのが確認できた。
どうやら搭乗員二名は絶命したらしい。コントロールを失ったニックは高度を急激に落としていた。
『日本は惜しいパイロットを亡くしたな』
通算十機目のニックを落とし、そう独り言を呟いたその時だった。ガクンと機体が揺れ、コントロールが聞かなくなった。
どんなに操縦管を動かしても機体はどんどん降下を続けていく。
俺にもついに諦めがついた。
『こんな時、日本では年貢の納め時って言うって父さんに聞いたな』
エンジンの爆発音とともに機体は真っ直ぐに地へ向かっていく。
日本軍は連合軍の捕虜を残虐に殺すとか、人体実験に使うとか聞いている。アメリカ兵の俺が日本の地に降りたったらまず死を覚悟しても良いだろう。
『まぁ、日本で死ねるなら本望だな』
俺は覚悟を決め、高速で落下していく機体から脱出した。
そして、パラシュートを開く段になって己のミスに気づいた。
迫る地はうっそうと茂る木々。これでは上手く着陸できるかも怪しい。ここだけは避けたい。少し向こうに多少だが、木の少ないところがある。
それでも、上手くいくだろうか?
自慢じゃないが今まで撃墜などされたことはなかった。だから、こんな時どうしても焦ってしまった。訓練とは違うリアルを呪っている間にも、木々は俺の腹を串刺しにしようとその枝を広げている。
どうせ死ぬなら……
最期の抵抗と言わんばかりのパラシュートを開いた。上手く着陸できるかは運次第。俺は俺にかけた。
ただ、これだけは汚れないよう、ただ、また帰ることを祈るよう、胸ポケットを握りしめたまま俺は落下していった。
────────────────────
ガサガサガサ、ドサッ!!
枝と枝の間を派手な音で落下していった。目を閉じたので一面闇が広がっている。
決して上手くはない着地だったが、どうやら一命は取り留めたらしかった。理由は簡単。とてもここが天国にも地獄にも見えなかったからだ。
そっと目を開け、始めに視界に入ったのは案の定、木々だった。案の定な風景が広がっていると言うことは、生きている証拠だろう。
日本のどこか山中だろう。周りには木々が並んでいる。上を見上げると青々とした葉が広がっていたが、俺が落下してきたルートだけ、枝葉の折れた間を貫くように光が差し込んできている。
さしずめ、スポットライトのようだった。
八月の終わり、残暑による暑さは半端ではなく、日本特有の湿気や蝉の鳴き声も不快感を一層高めた。
さて、最初の関門は突破した。だが、ここからただ一人の日本人とも会わずに連合軍に助けを求め、アメリカに帰ることなどできるだろうか。
確率としてはほぼゼロに近いだろう。しかし、いくら死を覚悟したといえど生きる執念を失った訳ではない。
『どこか、隠れる所を探さないとな』
そう言って立ち上がろうと右手を地についた時、ぬめりとした感触が伝わってきた。
恐る恐るその手を見ると、真っ紅に染まっていた。そのまま手をついた辺りに視線を移すと血が広がっていた。
慌てて自分の体を確認する。
……あった。俺の右大腿部に一本の木の枝が深々と突き刺さっている。幸いというのもおかしいかも知れないが、突き刺さったままなので、出血の量はたいしたことはなさそうだった。
どうやら、アドレナリンの作用で痛みすら感じなかったらしい。
けれども、事実を知ったとたん焼けるような痛みが俺の足を襲う。
一応の応急手当をすることにした。まず俺が枝葉を折った木に背を預け、ボロボロになった上着を脱ぎ、携帯用のナイフでそれを裂き、簡易包帯を作り、止血を試みた。ただ、ずっと握りしめていたポケットの写真はポケットごと避けておいた。
止血を終え、枝をゆっくり抜き取る。
「クッ、あ……ツ……」
痛みをこらえるのに噛む唇からも血の味がしてくる。それでも、かまわず、引き抜いた。紅い枝が見えたとたん、おびただしい量の血液が流れ出た。少し止血が甘かったらしい。急いで枝を抜いた部位を圧迫し、血を止めようとした。
しばらくして流れる血の量は減ってきた。
しかし当然歩くことはおろか、立つこともままなりそうにない。
さっき、落下していく途中に近くに民家が見えた。と言うことは米軍の戦闘機墜落を見た村人達が俺を捜しに山狩りを始めるに違いない。そうなったらおしまいだ。動けない俺はすぐに見つかる。敵兵である俺が許される訳がない。二度とアメリカに帰ることはできないだろう。もし万が一にも見つからなかったとしても、出血多量か飢えで死ぬだろう。待つのは絶望だけだった。
そう感じた時、向こうの木の陰から人が出てきた。どうやら、俺は前者の方で死ぬらしい。
俺を山狩りで捜しに来たやつはどんな凶悪な面をしているだろうか、と皮肉めいた感情でその人物を見ると、思いも寄らない見た目の人がそこにいた。
「大丈夫ですか!?」
俺に気づいたとたんそう叫んで駆け寄ってきた人物は真っ白い和服を着た女だった。俺の真っ紅に染まりつつある上着で作った包帯を見て少し青くなってはいるが、彼女は端正な顔立ちをしていて、その儚げな衣装がよく似合う人だった。
俺は何もかもを忘れて、ただ彼女に見入ってしまった。
「人呼んできますから、待っていて下さい」
そう言って彼女は美しい長い髪と白い服をなびかせ反転した。その時の風に運ばれたふわっと柔らかい香りが俺の痛みを和らげてくれた気がした。
だが、その一言で俺は正気に帰った。ここで人を呼ばれるとまずい。俺は再び木々の中に消えようとする彼女に向かって叫んだ。
「Stop! Don’t call man!!」
彼女は俺の言葉に目を丸くして立ち止まった。どうやら意味は分かっていないようだったが、驚いて止まったらしかった。
ただここで意味が通じてないのもまずい。俺は同じ意味の言葉を今度は日本語で伝えた。
「お願いです。助けを呼ばないで下さい」
彼女は困惑の表情を見せた。そして、目が警戒の色を帯びるのも感じられた。一歩じりっと下がってから彼女は俺に問うた。
「……あなた、日本兵? それとも、もしかして米英兵?」
その時俺は自分の生まれを思い出した。というか、あまりにせっぱ詰まっていて冷静な判断ができていなかった。何を俺はあんなに怯えていたんだ。そうだ俺は……
「日本人です。すみません、しばらくアメリカ人ばかりのところにいたものですから、思わず英語が出てしまいました」
「ということは、捕虜か何かだったのですか?」
「えぇ、それで今回僕を輸送していた機が墜落して、こうして脱出してきた訳です。墜落しかけの機体の中で慌てる米軍パイロットからパラシュートを奪うまでは良かったんですが……あはは、このざまです」
俺は彼女の瞳を真っ直ぐ見据えてそう言った。嘘をつく時はこうするのが一番良い。下手に目をそらせて自信なさげに嘘をつくと相手に気取られる可能性は高くなるが、こうして自信満々に言えば、案外だまされてくれるのだ。
ほら、俺に対しての警戒は薄れた。彼女はまた俺に近づいてきた。その表情から見える感情は警戒から、哀れみに変わっていた。
何も彼女に言ったこと全てが嘘ではない。俺が人種的に日本人なのは正真正銘事実である。俺は日系アメリカ人なのだ。
だから当然顔は日本人のそれと同じである。それにアメリカの捕虜と言うことにしておけば服装にも納得してくれるだろうし、このまま黙っておけば俺がアメリカ兵だとは気づかないだろう。このまま適当な時期を待ってから連合国軍に合流すればいい。
と思ったのだが……
「ですが……納得できません」
彼女はそう言って俺の手を掴んだ。手のひらから伝わる彼女の温かさが嫌に心地いい。
ぎゅっと俺の手を取ったまま彼女は俺の目を見て言った。その剣幕に思わず俺はたじろいだ。もしかしたら、何かのきっかけで正体がばれているのかも知れない。
あっ、墜落したのは一人乗りの戦闘機だった。これでは俺のさっきの言い訳と矛盾する。何か言い逃れをしないと。
そう思うと、気持ち的にさっきのように堂々と嘘はつきづらくなる。カラカラに乾いた口から出る言葉は上手くまとまらない。
「あ、あれは……あ~、何かアメリカ軍が無理矢理…………」
「だからって助けを呼ばない理由にはなりません! さ、早く手当をしましょう」
「は?」
「ですから、その傷を手当しないと。立てますか? 立てないのなら誰か呼びますけど……」
彼女はなかなか立とうとしない俺の手を離さず聞いてきた。ようは俺の心配は取り越し苦労だった。考えてみれば上空八千メートルから墜落した飛行機がどんなタイプの機だったかなんてこんな山中の村人などに分かるはずもない。
安心した俺は長いため息をついた。それを見た彼女は少し不機嫌な表情をして、叱るように俺に言った。
「何なんですか人が親切で言っているのに。こんな態度を取られるなら助けようなんて思わなかったら良かったのかしら」
「いえ、なんだか安心してしまったんです。すみません、立てるとは思うので肩を貸して下さい」
俺はこれ以上彼女の心証を悪くしないように丁重に頼みを告げた。
それに彼女は満足したのかにこりと笑って俺の横にしゃがみ、白い服が血で汚れるのもかまわず肩を貸してくれた。俺はその彼女の厚意に体を預け、痛みを我慢しつつも何とか立った。
「ありがとうございます。えっとお名前は? あぁ、失礼。自分はえっと……伊波一と言います」
「私は樋野薫です。さ、行きましょう」
俺は薫さんに行く道を託し、歩みを進めた。
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