受話器を置いた。電話の通信がきれる。
「み、ミク…ちゃん」
「うん?何、どうしたの?」
「今の電話…」
「ああ、なんでもないの」
「婚約破棄…て」
「言ったよ?でも…やっぱりこれでよかったっていえると思う。ずっと…考えていた。どうしたら皆幸せなのか…。これが、私が出した答えだから」
そういって、ミクは優しく微笑んだ。
一言も、レンは声を出そうとはしなかった。ただ何も言わず、俯いていた。
おろおろしているのはリンだけで、当事者の二人は冷静で、レンはもくもくとクラッカーを手にとっては口に運び、手にとっては口に運びを繰り返しているし、ミクはおいしそうに蜂蜜をかけたパンを頬張っている。一番気にしているのはリンだったが、そのリンは気まずい空気に口数が少なくなる。
「…あ、パン、なくなっちゃったね。持ってこようか?それとも、そろそろ帰ったほうがいいのかな?」
「レン、どうする?」
「…帰ろう。カイトたちも心配する」
「うん。それじゃあ…ミクちゃん、また来るね」
「楽しみにしてる。じゃあね」
そういって、ミクは手を振った。名残惜しそうにリンが出て行った後に、レンがミクと目を合わせないようにして俯いたままドアノブに手をかけた。
「…それじゃあ」
顔を上げないまま、レンが低い声で言った。
それに応えるようにミクが言った。
「…本当は…少しだけ、好きだったよ」
その声に少し微笑んで、レンは振り向いていたずらな笑顔を見せると、言った。
「知ってる」
「…よかったのかなぁ?」
初音邸を出たところで、リンが首をかしげた。
「何が?」
横から冷たいようなそっけないレンの声が聞こえる。
「…何か…私の所為でミクちゃん…」
「お前のせいじゃないって。言ってただろ?自分で出した答えだ。気にしなくていい」
「…レンは…いいの?それで。今までだって、婚約相手としてみていたんでしょ?それを…」
「別に?昔から姉弟みたいだったから。これから会えなくなるわけじゃないし。これからはいい友達として…ってことだな」
やはり顔は上げなかった。
しかし、リンは知っている。ドアの前で待っていたリンは、ミクとレンが何かを話しているのが聞こえたので耳を澄ましていたが、丁度レンが出てきたので二人の会話は聞こえなかった。しかし、その後、耳を澄ましていたリンの耳にはしっかりと聞こえた。一人、部屋でミクが泣いている声が。恐らく、ヴァンパイアのレンにもその声はしっかりと聞こえている。罪悪感が、彼を支配しているのだ。
やはり、ミクはレンのことが好きだった、ということだろう。それなのに、自らあんな電話をかけたということは、あきらめるほどの理由があったということで、あの状況で見つけられる理由は一つ、リンだ。自覚はしている。
これからも会える。そう、レンは言った。しかし、本当に合えるだろうか?ミクの父親はまだ、ミクとレンの計略結婚をもくろんでいるはずだ。そんな父親がすぐに納得するとは思えない。無理やり計略結婚をさせるか、あるいはレンが無理に拒んだのだと主張し、慰謝料を請求してくる可能性もある。その場合、ミクはレンに合うことが許されることはないだろう。
いつの間にか、夜道に雪が舞っていた。
「…雪――だね」
「うん。雪。きれ――」
口調が少し優しくなったのを聞いて安心しながら、リンは手の甲に落ちた雪をみて、空を見上げた。
ずずっとレンが鼻をすすった。
楽しそうにリンが笑った。
「レン、ねえ、手ぇつなごっか」
「は?」
唐突なリンの言葉に驚いた表情のレンの手をつかみ、リンはやっと見えてきた白を指差して走り出した。
「ホラ、行くよっ!」
「あ、おいっ!」
「王子サマよぉ、キカイトが呼んでる」
帰ってくるなり、アカイトはそういった。まあ、そうなるだろうということは覚悟の上だったので、レンは軽く頷いて言われたとおりの部屋に行った。
「キカイト、入るぞ?」
「どうぞ」
中に入っていくと、キカイトが椅子に座っていた。
「王子、呼び出された理由はお分かりですね?」
「はいよ」
「ふざけないでください。先ほどの電話ですが、ミクさんからで間違いないのでしょうか」
「うん」
「…一つお聞きしますが、王子の意思はやはり、あの子に向いていますか」
「…どう…かな」
「王子の好きにして下さい。言っても聞かないでしょうし、私には王子をさたがわせることはできませんからね。…道を間違わない程度に道草をしてもいいですよ。たどり着く場所が同じなら、良いでしょう」
にっこりと紳士的な微笑を見せた。
日は昇らない。
そっと扉を開け、アカイトは中を覗き込んだ。
「キカイト…?」
まだ部屋にいるはずなのだが、どうも返事がない。中に入って電気が消えている暗闇の中で大きな窓から降り注ぐ月明かりに照らされ、キカイトの鮮やかなイエローの髪が輝いた。
椅子に座って机に突っ伏して、キカイトは眠っていた。
そのキカイトに近づき、アカイトはそっと頭をなでてやると、
「よく頑張った」
そっと笑った。
「王!何をなさっているんですかぁ!」
今日も城内に響く張りのある声。
「げっ。逃げ…」
「こらこら、レン。逃げちゃあいけないなぁ」
「…殺る?」
「お前、ちょくちょく危ないぞ?」
笑顔が溢れた。
「お客さんです!せめてそれ位、自分で片付けてください!」
あのミクの一件の後、レンは腹をくくって王位継承の儀を執り行った。そして、今、あれから十年。そのレンは国王として認められ、そしてリンは――
「レンっ!」
「リン、どうした?」
「お腹痛い」
「…病院いけよ。産婦人科」
「やっ!痛いもん!」
「じゃあ堕ろせよ!」
「いーやー!」
「第二子とか!一人で良いよ!」
「可哀想!酷いお父さんだねぇ!」
二人が大人気なくぎゃあぎゃあと言い合っているところにキカイトが入ってきて、苛立ったように笑顔を作った。
「二人とも、お静かに。午後には会食があります。準備をして下さい」
「キカイト、この荷物、どこに置くんだよ?」
「ああ、子供用品は向こうの部屋に」
「あのチビだった王子サマが立派な王サマになって可愛いお妃サマもらって、俺たちはいつまで独り身なんだ?」
「…私が結婚するまで、アカイトは道連れです」
大きくなったお腹をいとおしそうになでるリンを見て、レンも少し反省したようにリンの頭をなでた。
「父様!母様!」
金髪の少年がこちらへとかけてくる。その少年をしっかりと受け止め、レンは笑った。
「はは、どうした?」
「帯人が怖いです!」
「…。悪い奴じゃないんだ」
「王子サマー」
「アカイトぉ!遊ぶぞーっ!」
少年は顔を出したアカイトのほうに走っていく。
リンとレンは顔を見合わせて笑った。無邪気な子供のような笑顔。十年たっても、笑顔は変わらない。
遠い君は、いつの間にか手の届くところにいた。
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