結局その日、ルカから承諾の返事はもらえなかった。今までのことがあるから、神経質になっているらしい。
だがそれから何日かして、ルカはまた俺に電話をかけてきた。結論はまだ出せていないけれど、一度ミカに会ってみたいと言う。俺はその話を承諾し、その次の日曜に、三人で会うことになった。
「ほんとう!? ほんとうに、おかあさんがくるの!?」
あの日のことを憶えていないミカは、写真でしか見たことがない母親に会えることを、素直に喜んだ。
「もう、にゅういんしなくていいの? いっしょにくらせるの?」
「それは……まだ、わからない。外出の許可が出たから、いい方には向かっていると思う」
「がいしゅつのきょかってなーに?」
「お医者さんから、お外に出ても大丈夫って言われたってことだよ」
……嘘をつくのは、今でも少々後ろめたい。だが、ルカの為にも、ミカの為にも、本当のことは言わない方がいい。
三人で会う予定の日は、幸いなことに綺麗に晴れてくれた。晴れたら自然公園で会おうという話になっていたので、ミカを連れて、待ち合わせ場所へと向かう。
行ってみると、ルカはもう来ていた。ミカを見て、少し戸惑った表情を浮かべる。写真でしか見たことがないからだろうか。ミカはというと、ついさっきまで「はやくはやく」とはしゃいでいたのに、急に俺の影に隠れてしまった。
ミカの手を引いて、ルカの前に立つ。ルカはまだ戸惑っているようだ。ミカが俺の影から顔を出す。
「……おかあさん?」
ミカがおずおずと尋ねる。写真を見せているから、顔はわかっている。俺はミカの脇に膝をついて、その小さな背をそっと押した。
「そうだよ、ミカのお母さんだ」
緊張しているのか、恥ずかしいのか、ミカはもじもじしている。こういう時、どうしたらいいのだろう。
「あの……えーっと……ミカ、です。おかあさんにあえて、うれしいです……」
ようやく決心がついたのか、ミカはルカの前に進み出て、こう言った。ルカがちょっとびっくりしたような表情になって、それから、ミカの頭に手を乗せる。ルカに頭を撫でられたミカが、くすぐったそうな表情になった。
不意に、ルカは膝を折って、ミカをぎゅっと抱きしめた。瞳に涙が滲んでいる。俺は何も言わず、ルカがミカを抱きしめるのを見つめていた。
その日、俺とルカとミカは三人で過ごした。一緒に昼食を取り、公園の中をぶらぶら歩いて、ボートにも乗った。ミカは玩具とお菓子を買ってもらって――普段、おでかけの時にはどちらか片方を一つだけと決めてあるのだ――とてもご機嫌になった。
やがて日が暮れたので、少し早いかなと思いつつ、公園の近くのレストランで夕食を取る。きっととても当たり前の光景なのに、俺たちにはずっと縁のなかった時間。
ミカはルカに、いろんなことを喋った。学校のこと。友達のこと。最近お気に入りのアニメのこと。ルカは静かに、その話を聞いていた。
……これは、上手くいっていると思っていいのだろうか。少なくとも、俺には上手くいっているように見える。
やがて、帰らなければならない時間になった。俺はルカに、ミカを家に帰してから、もう一度話をしたいと持ちかけた。ルカが頷く。向こうも話がしたいようだ。そしてそれは、ミカの前ではできない話だ。
ミカとルカを車に乗せ、自宅に戻る。ミカを降ろしてお手伝いさんに託してから、俺はルカを待たせてある車に戻った。車の中で、ルカは心細そうな表情で俺を待っていた。
「ミカは、大丈夫?」
「ルカを病院まで送っていかなければならないと言ったら、納得はしてくれた」
ルカは静かに頷いた。暗いので、表情はほとんど見えない。
「ルカ、どこか開いているお店にでも行くか?」
ここで話すのも間抜けな気がする。バーなり喫茶店なり……俺は車だから、酒は飲めないが。
「ここでいいわ」
俺は明かりを点けた。これで、表情は見えるようになる。きちんと顔を見て話したかった。
「なあ、ルカ……不安に思うのはわかる。けど、きっともう、大丈夫だ。戻って来い」
少し唐突だっただろうか? だが、ぐだぐだと前振りをする気にはなれない。
俺の言葉を聞いたルカは、びっくりした表情で固まってしまった。そこまで驚かなくてもいいだろう。それとも、ルカは俺とは違う考えなのだろうか。
「今日だって、ミカにちゃんと接することができたじゃないか。ミカは家族みんなで暮らしたがっているし……」
「私、そうできる自信がないの」
ルカは淋しそうにそう言って、首を横に振った。
「だから、大丈夫だ。ルカ、憶えてないのか? 以前は問題点すら認識できなかったんだぞ」
あの頃のルカは、自分がミカを傷つけているという自覚すらなく、正しいことをしているのだと思い込んでいた。少なくとも今は、多少は自分を客観的に眺められるようになってきている。
「問題が、何が起きているのかわかっていなかったのは俺も同じだ。二人とも、以前よりはわかるようになってきているんだ。以前が真っ暗闇の中を歩いていたというのなら、今はロウソクを手に持つことに気がついた状態だ。探す気でいれば、きっとこの先、もっと違うものがみつかる」
消極的になっているルカを、俺は必死で説得しようとした。きっとここが運命の分かれ道だ。このままルカの手を離してしまえば、俺とルカの道は分かれたままで終わってしまうに違いない。お義母さんがルカの手助けができているうちに、ルカをこっちに連れ戻すんだ。
やがて、ルカは静かに首を横に振った。
「無理よ……お母さんはどうするの? これから闘病が始まるわ」
「お義母さんを一人にするのが不安なら、お義母さんも一緒でいい。治療のこともあるし、むしろ一緒に住んだ方が好都合だ。ルカ、戻って来てくれ」
最終的に、ルカは戻って来ることを承知してくれた。義母も一緒という条件つきで。それなら、早いうちに手はずを整えてしまった方がいい。俺はその足でルカを連れて義母のところに向かい、義母と話をした。義母は迷惑をかけたくないと言い出したが、ルカが不安がっていることを伝えると、同居を承知してくれた。
「やっぱり当分、お教室は閉めないといけないのね」
そう言う義母は、淋しそうだった。生徒さんへの連絡や荷造りがあるので、引越しにはしばらく準備がいるという。それまで、ルカは義母との同居を継続することになった。
それから二日ほどした日のことだった。俺が仕事をしていると、突然義父がやってきた。……この大変な時に、一体何だろう。厄介なことではないといいのだが。
「お義父さん、突然どうしたんですか」
ひょっとして、どこかから義母を引き取る話が伝わったのだろうか。離婚した配偶者を娘夫婦に引き取られる、というのは、義父からすると面白くない話だろう。だが、義父にそんな話をするような相手というのが、思いつかない。このことを知っているのは、ルカを除けばうちのお手伝いさんぐらいだ。ハクさんやリンちゃんのところには義母から伝わっているかもしれないが、どちらも義父と連絡を取りはしないだろう。
「話があるから来たに決まっているだろうが」
とりあえず椅子を勧めて、それからコーヒーを持ってきてもらう。どかっと椅子に座るやいなや、義父は会社の業績について尋ね始めた。隠すこともないので、全部素直に答える。不況のせいでやや苦しんでいる部分もあるが、それなりの成績を維持している。
「それなりのようだな」
「不況ですから、好調とはいえないのが残念ですが」
単純に仕事の話だけだろうか。そう思った次の瞬間、義父はこんなことを訊いてきた。
「で、ルカはどうしている?」
……俺は、なんだか嫌な気持ちになった。質問だけ見れば極めて普通の質問ではあるのだが……。
「快方に向かっています。もうじき退院できると思いますよ」
そう言えば、この人からは一度も「見舞いに行きたい」という言葉は出なかったな、と、今更ながらに思う。もし行きたいと言われたらややこしいことになるので、好都合ではあるのだが、面白くないものは面白くない。
「随分長引いたな」
「……色々あるんです」
あなたには決してわからないようなことが、と、声には出さずに続ける。
「だが、退院するのなら好都合だ。今度、ルカを連れて来い」
どうして、いつも言うことが唐突なのだろう。膨れ上がる苛立ちを抑えこみつつ、俺は義父に尋ねた。
「連れて来いって、どこにです?」
「会社にだ」
「何の用でですか?」
「……家の名義をルカに書き換える」
俺は、思わず義父の顔を見てしまった。もっとも義父は失明しているので、俺の表情などわかりはしないのだが。
「どうしたんですか、いきなり」
「サトミが最近、ひどく我がままになってな。この前も暴言ばかり吐くから、そんなに不満があるのなら出て行けと言ったら、言うに事欠いて『何のためにこんな年寄りと一緒になったと思うの。あなたが死んで遺産が手に入るまでは出て行くもんですか』とか言いおった」
……呆れて言葉も出てこない。義父も義父なら、サトミさんもサトミさんだ。最初から、遺産目当てだったのだろうか。もはや眩暈しか感じられない。
俺は、よほど「カエさんと離婚しなければ良かったんじゃないですか」と言ってやろうかと思ったが、それは止めた。義父を怒り狂わせたところで、得られるものなどありはしない。
「サトミの奴が家の資産価値を調べていたからな。先手を打って、自宅の名義をルカに書き換えておく」
このまま義父が死ぬと、遺産の半分はサトミさんに行き、残りを四人の子供で分けることになる。義父はハクさん、リンちゃんとは縁を切ったと言っているが、現在の日本で、親子の縁を法的に切ることはできない。ハクさんやリンちゃんにも、遺産をもらう権利はあるのだ。
「家だけじゃない。会社関連のものはお前たちの名義に書き換えておく」
……なるほど、義父はサトミさんの取り分を減らしたいわけか。義父が死ぬ前にルカのものになっていれば、遺産ではなくなる。
頭が痛くなってきた。義父に加担するのは気が引けるが、断れば義父は妙な風にへそを曲げるだろう。
……というか、会社関連のものはこちらの名義にしておいた方がいいかもしれない。俺は、社長だ。この会社、そしてここで働く人たち全てに対して、責任がある。義父とサトミさんの争いで、会社を滅茶苦茶にするわけにはいかないんだ。
「わかりました」
「ああ、それと、書き換えが終わったら引っ越せ」
「はい?」
さすがに、間の抜けた声をあげてしまった。引っ越せ……ルカの生家に? ちょっと待て、俺とルカは義母を引き取るのだ。義父と同居するわけにもいかない。
「ルカの家になるんだから、ルカが住まなくてどうする」
「それは……そうですが……」
適当な返答が出てこなくて、俺は言葉に詰まった。義父との同居は勘弁してもらいたい。
「サトミさんと暮らすのは、ちょっと……家の名義がルカになったと知ったら、もめますよ。そんなところにルカやミカを置いておきたくありません」
どう考えても、精神衛生によくない。いくら義父に非常識な側面があるとはいえ、これなら通じるだろう。
「ああ、それなら問題ない。サトミは出て行くから」
離婚はしないのではなかったのだろうか。つくづく、義父の考えることがわからない。俺が言葉を失っていると、義父は勝手に説明を始めた。完全に隠居して、気候のいいところに引っ込むことにしたのだという。……義父らしくない考えだが、しばらく話を聞いているうちに、これが一種の嫌がらせだということに気がついた。義父は要するに、サトミさんが外を遊び歩くのが気に入らないのだ。それで、わざわざ娯楽の少ない田舎に引っ込もうということらしい。
夫婦とは、何なのだろう。そうまでして、夫婦を継続させる必要があるのだろうか。そう思ったが、やはり口は出さないことにする。俺が口を挟んでも、こじれるだけだ。
義父は一方的に自分の思うとおりに事を進めて、帰って行った。なんだか、どっと疲れた気がする。
「まさか、またここに戻ってくるなんて……」
言いながら、義母は巡音の屋敷を眺めた。俺も完全に予想外だったが、結果的にはこれで良かったのかもしれない。
「旦那様、奥様、お帰りなさいませ」
家から出てきたお手伝いさんが、俺たちに向かって頭を下げる。それから、一番古いお手伝いさんが、義母に声をかけた。
「大奥様、戻っていらして本当に嬉しいです」
義母が困ったような、照れたような笑顔を浮かべている。
「とにかく、お部屋でお休みになってください。荷物は全部、運んであります。お部屋は二階の方になりますが」
以前、義母の部屋は一階にあった。だが相談の結果、以前義母が使っていた部屋はルカが使い、ルカが使っていた部屋を義母が使うことになった。
「でも本当にいいんでしょうか? ここに私が戻ったりして」
「いいんですよ。ここは今では、ルカの家です。ルカがお義母さんも一緒に暮らしたいと言うのですから」
義父がここから引き上げる時は、例によってもめたらしい。もっとも俺はその場にいなかったので、全ては伝聞である。お手伝いさんたちは、心なしかほっとしているようだ。よほど荒れ具合がひどかったのだろう。
「あまりいい思い出はないのかもしれませんが……」
義母は、首を横に振った。
「いいこともあれば、悪いこともある。そういうものです。あの人と結婚しなければ、私がルカやハクやリンの母親になることはなかった。この家で暮らしたから、私は三人の成長を見届けることができた。だから、いいんです。あの人のことは、もう」
「あなた、そろそろ入りましょう」
ルカが割って入った。俺は頷くと、玄関のドアを開けた。家族の為に。
ロミオとシンデレラ 外伝その四十七【おうちへ帰ろう】後編
外伝のルカさん編も大詰めです。
次でルカ視点のエピソードを入れて、彼女の話はほぼ完結となります。
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ヨシ
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怒らないで、怒鳴らないで
難しい言葉とかあなたの話なんてどうでもいいの
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いつかこの呪いが解けま...肇
うに
誰かを祝うそんな気になれず
でもそれじゃダメだと自分に言い聞かせる
寒いだけなら この季節はきっと好きじゃない
「好きな人の手を繋げるから好きなんだ」
如何してあの時言ったのか分かってなかったけど
「「クリスマスだから」って? 分かってない! 君となら毎日がそうだろ」
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