少年は、黙って鏡の前に立つ。
そしてそのまま、凍りついたように動けなくなる。
何かを思うことさえ、怖かった。
<魔法の鏡の物語.8>
鏡越しにリンと会話をしながらも、僕の心は晴れなかった。
父さんの気持ちが良く分かる。全部偶然なんだ、そうなるべくしてなったんだと思おうとしても、頭の隅の方で嫌な考えが存在を主張するんだ。
リンが何かを喋る度にその長い金色の睫毛が震えるのを見つめながら、胸の中が二つの感情でごちゃごちゃになるのを感じる。
…ああ、何だかとてもやりにくい。
本当なら、今はそんな事を気にせず、ただリンとの会話を楽しむだけで良い時間のはずなのに、今の僕は真実かさえ分からない言葉に縛られて、それができずにいる。
―――なんでだよ…。
八つ当たりだと分かっているけれど、あんな事を僕に知らせた父さんに対して声に出さずに恨み言を言った。
知らなければ、こんなにどうしようもない気持ちにはならずに済んだ。何かを思うことにもこんなに臆病にならずに済んだ。
…くそっ、本当に自分勝手な感情だよ。知ろうとしたのは僕だし、聞き出せるように誘導したのも僕だ。今まであの話をしなかったのはその必要がなかったから。それに僕自身、前以てこの話をされていたとしても、信じる気にはならなかっただろう。警告として告げられる内容にしては、余りにお伽噺じみているのだから。
「…レン?」
―――こん。
鏡の向こうから響いた音にはっとして、僕は慌てて意識の焦点を現在に合わせた。
鏡の向こうでは、リンが心配そうな顔で僕のことを見ていた。細い腕が驚く程に白く見えて、いたたまれない気持ちになる。…いつものことだ。
「どうしたの?…その、顔色が良くないように見えるけど…」
僕の領域にまで踏み込んでいいものかと、慎重に選ばれた言葉。その少しぎこちない気遣いに、僕はいつも通りの苦笑を返した。
「あ…いや、ちょっと最近寝不足でさ。そのうち治るから心配しないでよ」
「…」
僕が咄嗟に並べた言い訳に、リンは少しむっとした顔で黙り込む。きっと僕が嘘を吐いているという事に気づいているんだろう。
でもやっぱりリンはこういう時、あえて踏み込むことはしない。彼女は、自分の思いを口にする時も、自分の意見を主張する時も、程度差こそあれいつも気遣いと躊躇に負けているように見える。
僕としてはもっと思いをがつがつぶつけて欲しいんだけど…まあ、そう急ぐことでもないし、今はいいや。
とりあえず不満そうなリンに笑顔を向け、僕はぼんやりとリンの掌の輪郭を指でなぞった。ガラスの向こうの掌は、僕のものより随分と小さい。握ってみたいな。
何度も指先で手の形をたどっていると、段々とリンがくすぐったそうな顔になってきた。
「…れ、レン…?」
もにゃ、と細い指先が居心地悪そうに動く。
「なに?」
「何、してるの?」
「んー…」
「う、うぅ…」
本当に嫌なら手を離せばいいのに、一向にそうする様子はない。むしろ困り顔が少し嬉しそうに見えて、僕はなんだか切なくなった。
もしかして、こんな触れ合いでさえ、彼女には縁遠いものなんだろうか。
「リン、何か食べたいものとかないの?」
ふと、そんな言葉が場違いにも僕の唇から飛び出した。
流石にリンもきょとんとした顔で僕のことを見返す。
「え?…ううん、どうしたの、急に」
「…いや、ちょっと思っただけ。最近は調子も良いみたいだけど、栄養のあるものは食べられてないだろうし」
僕の予想通り、だいしょうぶ、とリンは笑う。
本当は、それなりに考えていた事はあった。
―――リンのまだ知らないものを、沢山見せてあげたい。
そんな思いあがった上に曖昧でどうしようもない思いだけれど、食べ物のような具体的で小さなものなら特におかしな結果を招く事もないだろうし、何よりこの鏡がそういうものを通すっていうのは一番最初から分かっていることだ。
「海の幸でも山の幸でも、僕が手に入れられるものなら渡せるよ」
「…」
「ある程度の融通は利く立場だから…と言っても、僕じゃなくて父さんが、なんだけど」
「…」
「リン?」
全く返事がない。急いでリンの顔を窺うと、何故か暗い顔をしている。
何やってるんだ、僕。一方的に喋るだけ喋って…
「ごめん、調子に乗った」
「!そ、そうじゃなくて…ごめんなさい…」
リンは深く項垂れて、小さい声で呟いた。
「…信じきれないの…」
え?
リンの言う意味が良く分からなくて、僕は何度か瞬きをする。
そんな僕の顔を見る事もなく、リンは自分のスカートを強く握りしめた。
「…世界って、そんなに広いものなの?そんなにたくさんのもの、本当にあるの?…お父さんやレンの創作じゃなくて?」
「リン?」
「私の世界っていうと、ここと家だけなの。そこにいる人だって、レンとお父さんとお母さんとお医者様くらい。他の人とは話をしたこともない。したことがあったとしても、それはもう思い出せないくらい昔のこと…だから、現実感はなかった。その中にだって…失ってしまったひとも、場所も、ある」
「…リン」
薄いモスグリーンの服の前で、リンはそっと両手を重ねて胸に当てる。
俯いていた顔は少しだけ前を向き、その青い瞳が少しだけ前髪から覗いている。
祈るようなその仕草が余りに真摯に見えて、僕は彼女の名前を呼ぶことしか出来なかった。
「だからもう…誰にも死んで欲しくないし、私も死にたくない。だって、死んだら…」
ごにょ、と本当に小さな声でリンが言葉を口にする。
光の具合のせいか、その頬には赤みが強く差しているように見える。なんだか照れてるみたいで可愛いな、なんて思うのは仕方がないよね。
…でも、なんだか安心した。
僕がこんなに混乱していたって、リンはいつも通りだ。それはいろんな事を知らないからなんだろうけど、今はリンが普通の反応を返してくれることがありがたい。
「死んだら?」
ほっとしたついでにちょっとばかり意地悪な気持ちになって、あえて一歩踏み込んでみる。
こうしてすぐに調子に乗るのは、もしかしたら父さん譲りなのかもしれない。複雑だ。
「…ンと会えな、…!う、うう…」
「…?あえな?え?」
「その、ええと、内緒!」
ぺし、とリンの掌が可愛らしい音を立てて鏡を叩く。
抗議のつもり?…だとしたら…ああもう可愛いなあ。気迫が全然ないってば。
「で、でもねレン!今思ったんだけど、確かに、本当に世界ってところには色んなものがあって…色んな人がいるのかもしれない」
「どうしたのさ、急に」
「だって、レンがいるもの」
はにかむような笑顔に、僕は言葉を失った。
「あ、と、…あのね、鏡の向こうに人がいるとか、魔法使いが願いを叶えてくれるとか、そういうことはお話の中でしかあり得ないんだって思ってたの。…でも、私は現実にレンに会えた。願いを叶えてもらえた…」
…違う、リン。
僕は何もしてない。君の名前を呼んだだけだ。ただそれだけ、君の手を握ることさえできない。
確かにこの鏡は魔法の鏡だ。でも僕は魔法使いなんかじゃない。なのになぜ君はそうやって、疑う事もしないんだろう。
口にする内容が健気で可愛らしい分、嘘を付いているという事に胸が痛む。
僕自身、もうまともに繕う事も忘れかけていた「設定」。
でもそれをこうして彼女が大切に持っていてくれたなんて、嬉しいと同時に苦しい。
「…だから、もしかしたら、お父さんの話も本当で、…いつか私自身、…そういうものを、見られるんじゃないか、って、」
そこでぶつりと言葉が切れ、げほげほ、とリンが激しく咳をする。
その顔が真っ青で、僕は慌てて鏡面に身を寄せた。そうだ、忘れてしまいがちだけど、こうしているだけでリンには負担なんだ。
「リン!ごめん、喋らせすぎた!」
「…ぃじょ、私こそ、ごめんなさい…」
咳き込みながら謝るリンに、心が急かされる。
何か僕が話をしないと。それも、リンに無理に相槌を求める必要がないがないような…
「ええと…そういえば僕の家も父子家庭で、って前に話したっけ。僕も母さんがいなくなって心細くて。…うちの父さんはなんかフラフラしてるから更に心配だよ」
「あ…そういえば、レン、お父さんのこと言ってたね。ふふ、でも気さくなお父さんでいいなぁ…」
リンの大きな青い瞳が、夢見るようにその色を滲ませる。
「…レンはお父さんのこと、好き?」
「…そりゃ、好きだよ。ちょっと変だけど、尊敬できるとこもあるしさ」
何となく気恥ずかしくなって口ごもると、リンは鏡の向こうで本当に嬉しそうな笑顔になった。
きら、とその金髪が揺れて跳ねる。
「良かった!…レンのお父さんは長生きするといいなあ…大切にしてあげてね」
―――「レンのお父さんは」「大切にしてあげてね」。
その言葉に含まれる不吉な響きに、一瞬だけ反応が遅れてしまった。
きっと無意識な言葉の選択だったんだろう。でなければ、彼女がそんな心理を表に出すはずがない。
リンが、自分がついさっき守りたいと願った父親の命を、その実なかば諦めてしまっているなんて…そんな悲しいこと。
でも、僕はすぐに気を取り直して笑顔を作った。無意識なら、わざわざ気付かせることもない。
「大切にしてあげてって、なんか言い方変じゃない?それ、友達の彼氏とか娘婿とかに言う台詞でしょ」
「えっ!?…そ、そうかなあ…」
真っ赤な顔になって慌てるリンを暫くからかう。
最初の時の重い気持ちは、いつの間にか随分と薄くなっていた。それが良い事なのか悪い事なのかは分からないけれど、気持ちが楽になったのは確かだ。
と、その時、階下から僕の名前を呼ぶ声がした。
「レンさん!」
それは、切羽詰まったような…
「…?リン、ごめん。ちょっと用事が出来たみたいだ」
「え?あ…うん、行ってらっしゃい」
この声は、週に二回うちを掃除しに来てくれるお隣さんの声だ。
でも温厚な人だから、こんなに切羽詰まった声を聞くのは初めてだ。彼女がこんなに取り乱すなんて、一体何があったんだろう?
なんだろう、とても嫌な感じがする。
「はい!あの、何かあったんですか?」
言いながら部屋を出て、階段を下る。手摺の木の温度が、やけに冷たく感じた。
「あ、ああ、レンさん、レンさん!」
僕が丁度階段を下りきったのとほぼ同時に、彼女が凄まじい表情でリビングから飛び出してきた。
手にははたき。多分、掃除中に電話でも受けたんだろう。
でも、その剣幕は尋常じゃない。
困惑したままその場に立ちつくす僕に縋りつくようにして、彼女は言った。
手にしていたはたきが床に転がる。
「あなたのお父さんがッ…!」
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ご意見・ご感想
鈴歌
ご意見・ご感想
うっわぁぁぁぁ~~~~~~~~~!
とっても気になる・・・
更新待ってますっ!(`・ω・´)ゞ
2011/11/04 23:43:35
翔破
こんばんは、コメントありがとうございます!
続きが気になって頂けたなら、書き手としては嬉しいです。でも果たしてそれに見合うだけの続きが書けるかどうか…
どうか気長にお待ちくださいませ!
2011/11/05 20:58:31
目白皐月
ご意見・ご感想
こんにちは、目白皐月です。
ベタ惚れ街道を突き進んでいるレン君ですが、色々と葛藤も抱えているようで……。やっぱり、みつめているだけでは不満なのでしょうね。
しかしやっぱり、レンのお父さんに不穏なことが起きたから、リンのお父さんが帰って来るんでしょうか?
レン君が盲目なのは……これはこれで可愛いので、いいんじゃないでしょうか?
与太話ですが、私の方は全然リンのスイッチが入らないので困ってます。
2011/10/26 00:33:46
翔破
コメントありがとうございます!
レンサイドを書き出してからというもの、原案段階ではもうちょっと恋に奥手だったはずのレンがいつの間にかリンにときめきまくっていて、書いている側としてもびっくりしました。こういうところ、やっぱり書き手の趣味が如実に出てしまいます…。
>与太話関連
リンちゃんのスイッチですか、成程。
でも、じりじり意識の方向が動きつつある目白さんのリンちゃんは、見ていてとても応援したくなりますね。なかなか変わらない感じが非常に可愛いです!リンちゃん!
2011/10/28 23:28:47
瑞たまり
ご意見・ご感想
あなたのお父さんがッ…!…そのつづきは!?
すごく気になります!
続きもがんばってください^^
2011/10/25 17:33:18
翔破
こんにちは、コメントありがとうございます。
結構ベタなくらいの引きにしてしまっていかがなものかと思っていましたが、興味をそそられて頂けたなら幸いです!
のんびり上げていこうと思っていますので、宜しければお付き合いください!
2011/10/28 23:10:26
アストリア@生きてるよ
ご意見・ご感想
きたきたきたきたきたきたきたきたきたきたきたきたきたきたきたきたktktktktktktktktktktktkt
続きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!ww((来たより滝に見えるw
恋は盲目……きゃぁレン君っ!w
リンちゃんが純粋すぎてかわええっ!ww
翔破さんのレンは良い意味でどこかずれてますよねww
プレーンは……無理……だっ、た……んだ……ぐはっ(((お父さーん!((何これw
かたつむりですか……私もそんくらいなので大丈夫だと思います!ww
続き楽しみにしてますね!頑張ってください!
2011/10/25 16:59:06
翔破
コメントありがとうございます!
まさかそんなに反応して貰えるとは…!頑張ります!
はい、うちのレンはどうあがいてもリン命になってしまうようです。何故…。
続きものんびり上げていこうと思っていますので、気長にお待ちくださいませ(^・ω・^)ノ
2011/10/28 23:08:56