こんなにも世界が色を持っているなんて知らなかった。
 今、鮮やかに浮かび上がる世界の中で、あなたの存在が、まるで奇跡のように輝き出す。


 ……綸・漣 三……



 夜桜の隙間から十六夜の月の光が零れ落ちている。その光に触れられそうな気がして、綸はそっと手のひらを上に向けて手を差し出した。
 鼓膜を優しく揺らすバイオリンの音色に、心がじわりと熱くなり、今にも形になって瞳から零れ落ちそうで、何度か瞬きを繰り返す。
 小さく零れた溜息は、幸せな色を滲ませて柔らかく溶けた。
 脚の手当てをしてくれた青年…漣は、綸を屋敷まで送る事を申し出てくれたのだが、綸はそれを丁重に断った。
 送ってくれる事に嫌悪を覚えたわけではない。
 綸自身の心の中を端的に表すのであれば、ここを離れたくなかったのだ。
 妙なる音色を奏でる漣のバイオリンをもっと聴いていたかった。そして、彼の傍にいたかった。
 それが、彼女の正直な心の内で…奥ゆかしくたおやかな良妻賢母を育てる教育を信条としている学校の教師が聞けば卒倒しそうな理由であるが…、綸はその心中に正直に従ってしまったのだ。
 それを後悔などしていない。
 それどころか、こんな幸せな時間が存在する事を知り、感動で胸が打ち震えるほどだった。
 こんな穏やかで幸せな時間など知らない。ここ数日の心中の嵐が嘘のようで、綸はゆったりと桜の古木に寄りかかり瞳を閉じた。
 瞼の裏にまで、優しく月の光が降り注ぐ。
 …と、不意に音色が止んだ。

 「………」

 不思議に思い瞼を持ち上げると、こちらを心配そうに見つめてくる真摯な瞳とぶつかる。
 漣が、そっと手を伸ばしてきて、綸の頬に触れた。
 そこで、綸は初めて自分の頬が薄っすらと濡れていた事に気がつく。

 「………大丈夫ですか?」

 彼のバイオリンとよく似た、優しい声。
 綸は、柔らかく微笑むと小さく頷いた。
 「ありがとうございます」
 綸が微笑むのを確認すると、漣もまた同じように微笑んだ。
 それから、少し言い辛そうにゆっくりと口を開く。
 「…そろそろ、お帰りにならないと、お屋敷の方が心配されませんか?」
 「……えっ?」
 綸は思わずと周囲を見渡した。それは別に深い意味や考えがあったわけではなく、反射的に時刻を確認しようとした結果だ。
 しかし、残念ながら図書館の敷地といえど、厳密には建物の裏側となるこの場所から確認出来る時計は無い。図書館の正面玄関には、確かに知識と歴史を貯蔵する、この図書館に相応しい大時計が設置されているのだが、ここからは当然見えない。
 少し慌てた様子の綸に、漣は僅かに口許を綻ばせると、学生服の懐から、年代物の懐中時計を取り出した。綸にしてみれば、それは漣には似つかわしくないものだった。決して悪い意味ではないのだが、どう見てもどこかのご嫡男というよりは、平凡なる学生であろう彼が持つにしては、些か重厚で繊細すぎる作りの懐中時計だ。
 漣の手の中で小さく金属音がして懐中時計の蓋が開いた。自然と、蓋の表面が綸の視界に入る。
 少々磨り減ってはいるものの、細かな細工が施された蓋。僅かな月の光では、何が彫ってあるかはわからなかったが、何やら家紋のようである。
 綸の推論は正しい。漣の持つ懐中時計は、彼を書生として迎え入れてくれた家の現当主から頂いたものであり、その蓋の表面にはその家の家紋が彫られていた。しっかりと見る事が出来たなら、綸も見知った模様を確認出来たであろう。
 さて、そんな事に綸が気を取られているのには気づかないまま、漣は文字盤の時刻を確認すると、やっぱり困った顔をして綸に告げた。
 「…もう、日付も変わりそうですよ」
 「えっ……!」
 もうそんな……と、綸の顔色が明らかに変わった。
 ここを離れなければならない寂しさに心が冷たくなった後、ようやく帰らなければという焦燥感が沸いた。それから、黙って屋敷を飛び出した事。もしかしたら、それで大騒ぎになっているかもしれない事に、やっと考えが及んで、胸がざわめき出す。
 そんな綸の様子に漣は何か察したのだろう。
 手早く楽器をしまうと、羽織っていた学生服を綸の肩に掛けた。
 「春も深いですが、まだ冷え込みますので」
 「えっ、あっ……」
 綸の意識が学生服に移ったその瞬間だった。
 「失礼します」
 「…ぅひゃぁ……!」
 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。慌てて両手で口を塞ぎつつ、綸は突然視界が高くなって平衡感覚が狂った世界を認識しようと何度も瞬きする。
 そして、ようやく自分が漣に横抱きに抱き上げられている事を理解したのだ。
 「あっ、あっ………」
 上手く言葉が紡げない綸に、漣は何事も無いように言った。
 「まだ、脚が痛むでしょう?それに足袋のままでは、歩かれるのもお辛いと思いますよ」
 「いっ……いえっ……あっ、あのっ………」
 「よろしければ、このまま綸様のご希望の場所まで送らせて下さい。あっ、あと、申し訳ないのですが、バイオリンだけ持って頂けると助かります」
 ごく近い場所で微笑む漣は、随分大人びた顔と少年の無邪気さを併せ持っていた。
 たぶん、年齢的にはそれほど変わりなく見えるのだが、微笑むとずっと幼い少年のようだし、その隙間に僅かに伏せられる瞳には、生きてきたであろう年数よりも深い時の流れを写している。
 その瞳を思わずじっと覗き込んでしまった綸に気がついた漣は、すぐに優しい色を浮かべた瞳で綸を見つめ返してきた。
 「…バイオリン、お願い出来ますか?」
 下ろして欲しいのは山々だが、それを切り出すタイミングも言葉も色々無くしてしまい、結局綸は恥ずかしさに顔を薔薇色…といえば美しいが、どう見ても熟した林檎の如く色づかせて、それを漣に見られまいと必死に隠しながら頷いた。
 桜の古木に立てかけてあったバイオリンを、僅かに腰を下ろした漣の腕の中から、綸は半ば手探りで探り当てた。それを彼女が胸に抱くのを確認すると、漣はゆっくりと歩き始める。
 自分の鼓動の音が高く聞こえる。恥ずかしい事に変わりないのだが、それよりもやがて綸を支配するのは心地よい揺れ。いつの間にか瞳を閉じて、綸は漣に僅かに身を寄せた。
 鼓膜に触れる音は、自分のものでは無い胸の音。それは、自分と同じように少し早いようで、綸は僅かにほっと息を吐いた。



 芝生を踏んでいるのであろう感覚が、しばらくすると硬い地面を踏むものに変わる。
 図書館の敷地を出たらしい。
 薄っすらと瞼を持ち上げると、西洋のそれを真似た淡い街灯の光が、等間隔に並ぶ景色が見えた。
 この道を真っ直ぐ行けば、綸の通う女学校に続く坂道まで続いている。そのちょうどの上り口の手前に十字路があって、そこを左に行けば綸の住む屋敷へ行く事が出来る。
 漣が迷い無くその十字路まで行く事は容易に想像出来た。否、それしか道は無い。つまり、この道はその十字路まで枝分かれした道が無いのだ。
 左右に連なるのは、昔ながらの商店や西洋の流れを汲む洒落た店。だが、決して雑多に見えないのは、道の広さもさる事ながら、それぞれの店の間口が広いためだろう。
 週末、女学校が終わると旧友や先輩の未来と足を運ぶ甘味屋を通り過ぎ、馴染みの文房具店の万年筆の先を模した看板が背後へ遠ざかる。そして、行き着けの本屋まで来ると、もう十字路はすぐそこ。
 そこで、ようやく綸は精一杯の力で声を出した。
 「あのっ……!この辺りで……」
 十字路の手前の、他のものより一回り大きな街灯の下で漣は立ち止まった。
 上目遣いに見上げた彼の顔は、逆光でよく分からなかったが、確かに戸惑っている風に思えた。
 それでも、まさか屋敷までこの格好で送ってもらうわけにもいかない。ここで初めて僅かに身を捩って、自己主張する綸に、漣はやっと諦めたかのように、彼女をそっと石畳の上へと下ろした。
 「ここで大丈夫ですか?」
 「はいっ」
 漣の言葉が終わらないうちに、綸は大きく二度三度と頷く。
 それから、胸に抱きしめていたバイオリンを少々強引に漣の胸へと押し出した。
 「ありがとうございました…!バイオリンをお聞かせ頂いた上に、その…ここまで送って頂いて…」
 「いえ……それよりも、ここから歩いて帰るのは……」
 「大丈夫です、すぐそこなので…!」
 すぐそこ、とは個人個人で感覚が違うので一概には言えないが、少なくとも綸の言葉には語弊がある。
 何せ、周囲はどちらかといえば商業施設や公的施設が多く立ち並び、初めてこの街を訪れた人間であっても、この辺りが住宅街ではないという事は十分想像できるからだ。
 綸がこの辺りの商家の娘ならば問題無いだろうが、彼女はどう見てもそうではないだろう。
 仕立ての良い着物と袴は、漣が今まで触れた事のない柔らかさで、明らかに綸が上流階級のお嬢様である事を物語っている。
 …ならば、余計に自分は彼女を屋敷の近くまで送ってなど行けない。
 本来ならば、近づく事さえ許されないであろう身分の違いがあるだろう事は、十分に想像出来て漣は何故だか妙な心の冷たさを感じた。
 「あのっ……今日は…本当に、ありがとうございました」
 不意に綸が微笑む。漣も、はっとして笑顔を返した。
 「いえ、少しでもお心が慰められましたのなら………」
 彼女が、どうしてこのような時間に一人でフラフラとしていたかなど詮索はしない。
 ただ、最初に出逢った時よりも、僅かに表情が柔らかくなったのを感じて、素直にそう返した。
 ほんの一瞬、綸の顔に幸せな色が浮かび、それから彼女はそっと優雅な仕草で肩に掛けられていた学生服を手にすると、両手を添えて漣にそれを返した。
 「それでは、失礼致します」
 「あっ………」
 それから、綸は振り向きもせず、傷ついた脚を僅かに引き摺るような形であったけれど、足早にその場を離れて行ってしまった。
 街灯に照らされた薄闇の中へ、彼女の色素の薄い髪をまとめている赤い髪飾りが、名残惜しそうに消えて行く。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

君戀フル櫻ノ物語

とっても大好きな、ひとしずくP様の「夢桜」をイメージして書かせて頂いております。

 楽曲の雰囲気をそのままに出せたらいいなぁ…と試行錯誤しながらですので、亀の如き更新はお許し下さいませ。

閲覧数:106

投稿日:2011/08/19 15:07:18

文字数:4,141文字

カテゴリ:小説

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