彼女のことを忘れた日はなかった。
<王国の薔薇.1>
「しっかしレン坊もわからんなあ!よっくもまああの姫さんに仕えてられるもんだ」
陽気な庭師の言葉に僕はちょっと笑って応じた。
この人は気さくだから話していてほっとする。王宮は堅苦しい人が多いから、息苦しくなることも多いんだけど。
「まあ、意外とやりやすいですよ。我慢していれば慣れますし」
「若ぇのに偉いこった。俺にゃあ無理だな」
ははは、と豪放に笑われて背中を強く叩かれる。
・・・正直痛い。
でも気持ち良さそうに笑っている彼に水を差すようなことは言いたくなかった。
あー、でも、僕も用事で来たんだけどね・・・
とりあえず合わせて笑っていると彼はやっと僕の用事を思い出してくれたらしく、はた、と手を打ち合わせた。
「っと、レン坊、薔薇だったな。ほいよ、さっき切ったばっかだ」
「ありがとうございます」
花瓶に活けられた薔薇を注意深く受け取り、失礼します、と来た道を戻る。
僕は王宮で召使をしている。
採用されてから二年くらい。といっても余り細かいことは覚えていないから、確かではない。
一時期は日記でもつけようかと思っていたけれど、機密は書いてはいけないと先輩に当たる方に言われてやめることにした。王宮にいるとどれが機密だとか機密じゃないとかが曖昧で混乱していまう。
―――それにそもそも僕の場合、自分の存在そのものが機密になってしまう訳だし。
僕は黄の国の王宮で召使をしている。
肩書で言うなら王女付きの召使だ。
王女付きの召使といってもすることはつまり雑用。王女が僕を呼ぶことなんて用事以外ではまず無い。淋しいような、楽で良いような・・・
とりあえず僕はほとんどの時間暇で―――まあ本当はそれでも専用の部屋でお呼びがかかるのを待っているべきなんだけれど、王宮は少しばかり人手不足だからこういう使い走りの仕事もこなした方がいろいろと円滑に進む。だから空いた時間は他の仕事に割り当てている。
なぜ人手が足りないか。理由は簡単、辞めていく人が多いからだ。
「この王女の下で彼女の為に働くなんて真っ平だ」、彼等はそう言って辞めていく。
僕にだってその気持ちは良くわかる。
国のトップに立つ王女はたった14歳。僕も同い年とはいえ、彼女はきっと、善悪の区別もついていない。
そして彼女は気まぐれだ。気性も激しくて、物を投げ付けられたことも度々あった。
彼女にとって反対意見は「口答え」、提言は「でしゃばり」、諌言は「悪口」になってしまう。
そんな彼女の政策は、性格と同じように粗い。そして残酷だ。
恐らく王宮の外の暮らしというのを全く知らないんだろう。だから聞いただけで凍り付くような無理難題を次々に要求し、僅かにでも要求を満たさない場合は容赦なく処罰する。しかも最近は段々死刑とされる人が増えて来ていて、僕ですら恐怖を覚えるくらいだ。
止められるなら止めたい。
彼女の暴走は・・・見ていて苦しい。
ただ、人が少なかった分王宮に入り込みやすかったのは事実だ。志願してすぐに採用が決定した。
ぽた。
歩くのに合わせて揺れていた薔薇の花弁から水が一滴指に零れた。
傷一つ無い、ビロードの様な滑らかなその一枚一枚を見つめる。
薔薇は、王宮に似合う。庭がほとんど薔薇で埋まっているのを知っているからかもしれないけれど、この美しさと華やかさは的確に国の主を表しているからなんじゃないかとも思う。
そう、これは正にリン王女の為の花だ。
「失礼します」
ドアの向こうに静かに声をかける。
「入っていいわ」
よく通る声が許可を告げるのを確かめてから扉を開く。
部屋に足を踏み入れると、豪奢な部屋の真ん中の机で読物をしていた少女が微かに目をあげてこちらを見た。
綺麗にくしずられた煌めく金髪と、そこに飾られた真紅の薔薇の花飾り。
彼女の髪にその飾りはよく映える。
リン王女。彼女が、この国の主。
「花をお持ちしました」
「適当に飾っておいて」
彼女は放り投げるように答えてから本を無造作に閉じた。
素早くその傍らを抜け、花を花瓶に活ける。うん、これでいいかな。
それなりに満足して部屋の隅に控えるのと、王女が顔をあげるのは同時だった。
「本って文字ばっかりで面倒!全部焼かせちゃおうかしら。きっと冬にやれば暖が取れていいわ」
「王女、またそのような・・・」
「嘘よウソ、そんなことしたらまた馬鹿な民が大騒ぎするでしょうからね。目障りで敵わないったら」
王女は閉じた本を挟むように、机に肘をつく。
その目がふと、僕が活けたばかりの薔薇に留まる。
その途端、彼女は瞳を輝かせて机から立ち上がった。
「あら、今日の薔薇は大輪じゃない?」
嬉しそうに花瓶に歩み寄る、その背後に長くドレスが裾を引いた。
つい、と伸ばされた指は日に当たったことが無いかのように白く、力仕事など到底できない細さとしなやかさをしている。
そんな彼女の繊細さを見るたびに感じる。彼女は、王室という温室育ちの花なのだ、と。
「王女は、薔薇、お好きなんですか?」
なんとなく、そう聞いてみた。
聞かなくたってわかってはいるけど。これだけ飾ってあるんだから、
「好きじゃないわ」
―――え。
王女は無邪気な笑顔を少し陰らせて、皮肉そうに呟いた。
「綺麗だから嫌いじゃないけど、好きでもないわ」
白い手が、花瓶に活けられた薔薇を一輪引き抜いた。
「花なんて鑑賞用に殺されて、死んだ姿を愛でられるのよ?哀れだわ」
「王女」
「哀れで、苛立たしい・・・最も、お飾りとしては使えるけど、ね」
ぐしゃ。
水っぽい音を立てて大輪の薔薇が握り潰される。
ひらり、と舞い落ちた傷だらけの花弁に―――ぞくり、と背を寒気が走り抜けた。
元の美しさを失った薔薇を床に落とし、王女は冷たい視線で残骸を一瞥した。
「目障りだわ。捨てておきなさい」
王女は・・・リンは変わってしまったのか。
認められなかった。認めたくなかった。
でもこんな行動をこの二年位見続けていると、分からなくなってしまう。
もしかしたら僕は盲目的過ぎたんじゃないか?
彼女はもう僕の知っているリンではないんじゃないか?
たった数年。
でもその間に暴君に変わってしまわない保証なんて、どこにもなかったんだから。
『レン!』
あの笑顔は、もうどこにも無くなってしまったんだろうか。
『そしたらわたしも、レンのこと守るよ!』
あの約束も、すっかり忘れてしまったんだろうか。
混乱した頭は、どこか遠くで答える声を聞いた。
「畏まりました」
手の中にはぐしゃぐしゃに握り潰された薔薇の花。
搾り出された水分が、ねじ折れた花弁が変わった物や失われた物を示しているようで、扉の外に出てから少しだけ涙を流した。
リン。
僕の片割れは、消えてしまったのかな?
あの日に引き裂かれなければ、今君は昔と変わらない笑顔を僕に向けてくれていたのだろうか。
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