彼の話を聞いている間、私は周囲の様子を伺っていた。
月の光は次第に弱さを増していき、雲に隠れれば暗闇に包まれた。もう永遠に朝が来ないのではないか。そんな錯覚に襲われるほどに、夜は世界を覆っていた。
街に降り注ぐ雨は、今年降った中で五本の指に入るほどの豪雨へと変わり果てていた。このペースだと、あと数十分で道路が冠水するだろう。どうやって帰ればよいのか。
窓からちらりと外へ目をやれば、酷く強い風が民家の瓦をふっ飛ばしていた。まるで竜巻の中にいるようだが、まだどこの建物も空に吸い込まれていないから、一応大丈夫なのだろう。
不思議なのは、このどこよりも脆く壊れそうな建物(男の話や仕草、格好を見る限り、おそらく廃校舎だろう)が、どの箇所も被害が見当たらないことだ。これだけ酷い見た目なのに、窓一つすら割れない。
それに、淡々と話し続けるこの男。こんな時間にこんな街を歩いていた私が言うことではないが、普通ではない。あんな酷い嵐の中に立っていたというのに、雨に濡れた様子が僅かにしか見当たらない。
どうなっているのだろうか。今日の私は、何かとんでもない出来事に巻き込まれている気がしてならない。神が引いた禁忌の腺を超えてしまっているような、そんな感覚がする。
「おや、どうなさいました。もしかして寒いとか?確かどこかにタオルがあったはず。よろしければお使いください」
「いや、そういうわけではないのですが、ありがとうございます。少しばかり濡れているので、拭いてもよろしいですか」
「どうぞどうぞ。大切なお客人を、病気で帰すなんて失礼なことはできませんから」
「お客人?あなたは、ここに住んでいるわけではないのでは?」
「いえ、半々というところですね。住み込みにも近い。そうしなければならない理由もあるのですが、今は省きましょう」
タオルを借りて水滴を拭う私を見て、男はくすりと笑ったようだ。互いの顔が見えぬから声だけで判断せねばならない。何が可笑しいのかさっぱりわからないが、考えてみても始まらないのでとりあえず気にしないことにした。
しかし、出会ったときから思っていたが、どうして私はこの男に声をかけたのだろうか。心配だからという親切心からという気もするが、どうも違うような気もする。何故だろう。、もしかすると、私とこの男はどこかで接点があったのだろうか?記憶に霧がかかって、正確に思い出すことができない。
「タオル、ありがとうございました。話を中断させてしまって…すみません、先に言っておくべきでしたね」
「いえ、お気にすることはありませんよ。こちらの気遣いが足りなかった。それが原因ですから」
そして間を置いて、男は話を再開させた。彼の昔話。それに秘められた恐怖と悲劇の続きを。
*
【月神様】 ―つきがみさま
○△学校七不思議の一つ。あっさりとした名前だが、一番危険な恐怖の一つである。
生徒手帳に“満月の夜、学校の裏の泉には近づいてはならない”と校則の形で記載されている。その危険さ故、詳しいことは何も書かれていない。
学校の裏の泉は、基本的に夜間の立ち入りが禁じられている。
その理由の一つとして、泉に映る月が異様であることが挙げられている。
新月の日も三日月の日も、空が厚い雲に覆われている日も、どんな日も泉には満月が映るという奇怪な現象が起きていることがわかっている。
満月そのものが映りこむ日には禁忌が起きるため、事情を知る学校側の一部の者がこの校則を設けたという。
どこにも存在しなかった月神の真実をここに記す。
月神とは憑き神である。噂では生贄を一人泉に突き落とすと、その人間は*死し、霊になった人間に一時的に憑くことで現れる。そして願いを叶えて*れるというのだが、それは*である。
真実*、その生*を差し出**人間に*を与え*ため、**れ*。満月の*は月神そのもの*活動が*発になるため、“呪い”が発生する。だから人が触れ*はいけない*忌だ。
だが、月神が現れている間、*の薄いも**強い願*を持ち、一人で泉に*ら落ち**とで、その勇**認めた**が*****を**て**るらしいが、命が**るかど*かは**ではない。
さて、ここまで記したがこれを読んだ者に一つの忠告を。
“好奇心は猫をも殺す”この言葉の意味をよく理解しておくことだ。
―――○△学校図書室 名もなき本より引用
「…なんか、すっげえ嫌な予感がする」
朝のホームルーム後、教卓の前で授業の準備をしていた俺はぽつりと呟いた。
それを傍で聞いていた巡音は、日直の仕事をしながら返した。
「嫌な予感?鏡音さんのことですか?」
「そんな気もするな。またどこかで、変な噂を立ててなければいいが…」
人間とは元々噂話が大好きな存在であるが、鏡音はその代表と言っていいだろう。
鏡音が常に噂を操っているという噂が校内で流れるほどである。
何をしてるんだか。
その鏡音にちらりと目をやれば、授業の用意を机の端に除け、授業に使うものではないノートに何かを書いていた。
また変な噂でも思いついたのだろうか。懲りないやつだが、悪いことはしてないからな。
「…この間のこともあります。変に首を突っ込んでなければいいのですが」
「この間?」
「“月神様”のことですよ。私はあれを多少は知ってるんですか、鏡音さんは何をするつもりなのやら」
「あぁ……どうせまた、くだらないことでも考えてるんだろ」
ただ、どこか不吉な気がするのは、俺の心配が杞憂なだけだろうか。
「っと…できた。神威先生、これ。昨日の課題です」
「ん?あぁ。お疲れ」
鏡音が机の中から一冊の問題集を取り出し、俺に手渡す。
この様子を見てると、何も起きなさそうだけど。
日も暮れ、校内に職員しか残っていない時間になった。
会議が終わり、懐中電灯を持って校内を歩き回る。
今日の見回り当番は俺である。戸締りがしていない教室があるかどうかも確かめなければならないから、しっかり見ていかなければいけない。
数十分ほどでほぼ全ての教室を見回り、職員室に戻る途中のことだ。
こんな時間だというのに、外を走っている生徒を数名見かけた。
よく見れば、それは鏡音たちだった。しかも校舎に向かって走っているわけではないようだ。
その方向から推測すると、場所はおそらく裏の泉…
いや、待てよ。あそこって夜間立ち入り禁止のはず。
とりあえず鏡音を追って泉へ向かう。
泉の前では、鏡音が立っていた。後姿からでは表情は変わらない。
泉には満月が映っている。白い光を放つはずのその虚像は、不吉な赤色を宿していた。
―――まさか。
夜空を見上げれば、そこには雲ひとつない、満月。
「鏡音っ!お前、何をしてる!?」
鏡音はこちらも見ずに、独り言のように呟きだす。
「図書館にね、古いノートがあったの。それを読んでこれのことを知った…」
「ここの神様ね、生贄さえいれば、願いを叶えてくれるんだって」
「おい、お前ら…まさか…」
「そのまさか、だよ」
鏡音がゆっくりとこちらを振り返る。
その目は、赤い光を灯し、正気を失っていた。
「神威先生。あんた、正直言って目障りだったんだよ」
「私たちは願いを叶えたい。あんたには消えてほしい。この意味――わかるよね?」
同時に、茂みから二人の生徒が飛び出てくる。
その二人は、いつも鏡音と噂話をしている生徒。
三人全員が、噂に踊らされたのか、それとも。
「これが、呪いってやつか…」
何はともあれ、三人を押さえ込まなければならない。
禁忌には触れてはいけない。
だから、
「神威先生っ!」
巻き添えを一人でも出すわけにはいかない。
「やめろ!来るな!っ、」
巡音に気をとられたその瞬間、右脇腹に激痛が走り抜ける。
誰かにナイフで刺されたらしい。
「ぐっ…」
呪いというものは、自我をも完全に乗っ取るらしい。
三人の生徒たちは、明らかに言動がおかしい。
巡音の表情が歪む。
「そんな…間に合わなかった…」
「ルカ…あんたやっぱり、感づいてたのね?」
「…当たり前よ、私だってあのノートを知っていた。鏡音さん、あなたが一番呪いに憑かれやすいことも」
「ふん、計画は成功よ。邪魔、どいて」
巡音だけは正常らしい。ならば、彼女は絶対に逃がさなければならない。忌まわしき存在の餌食になる前に。
「巡音…俺を置いて、逃げろ…」
「行けって言うんですか!?あなたを見捨てて、私に十字架を背負わせることになるのに!」
「俺が生贄になろうと、ならまいと、この出血じゃあ…死ぬ可能性が、高いさ…」
相当深く刺されたらしく、着ていた白衣はもう傷口のあたりが真っ赤に染まっていた。
これはもう、処置をしてもどうなるかわからない。
「ルカあ!邪魔よ!」
痛みが強いが、まだかろうじて意識が残っているこの状態では、動くことは相当しんどい。
誰かの手によって、泉へ突き飛ばされた。
赤い水泡が、水面へと上がっていく。
反対に、俺の体は深い泉の底へ、沈んでいく。
「…――――――…―ッ」
「――…―ッ!?――――…――…」
「―…、―――……――っ!」
会話はもう、聞こえない。
自分が何をしているのか、それすらもわからない。
時の流れももう、認識できない。
『…汝が願い、聞き入れた』
その言葉だけが、やけにはっきりと聞こえた。
*
「まさか…やっぱり、あなたは」
「えぇ、その通りですよ」
増して行く月の光が、窓から差し込む。なぜ今、月光だけが強くなるのか。わからないが、図ったかのような瞬間だった。
そこから見える彼の姿。記憶の奥底の姿と、一致した。鼓動がより強く響く感触。
「俺は既に死んだ身。何かに乗っ取られていたにしても、全員を殺したのだから悪霊に近い存在です」
何故気づかなかったのだろうか。彼の右脇腹には、深い刺し傷。いつまでも濡れたままの彼。白衣をところどころ染める、赤黒いナニカ。
見覚えがある。私がどうしてこんな日に出歩いたのか、どうして彼に声をかけたのか。その理由を今、全て悟った。
「ここまで話したのだからわかるだろう。俺の推測が正しければ、あの時俺を解放したのは君だ。そうだろう?…巡音」
十数年前、学生時代のこと。呪いに操られていた生徒は、月神に憑かれた彼によって、『罰』を与えられて殺された。その悲劇を止めるため、全員を助けろと泉に落ちた私が縋ったのだ。
それによって、月神が消えて殺された三人は蘇生した。そのときの記憶がない状態で。かろうじて生きていた私の記憶さえも、忘却の彼方へと置き去りにして。
彼が消えた原因そのものが、私によるものだった。
私の、忠告のせいで。
「…そうです。今、全て思い出しました。あの呪いを止めるには、『欲の薄い者が強い願いを持ち、一人で自ら泉に落ちること』が条件でした。この悲劇を消せと願ったかわりに、あなたが消えた理由と私たちのそのときの記憶が消えた」
「あの記憶がなかったおかげで、ずいぶん成長したじゃないか」
「どうしてこの場所で、私を待っていたのですか」
「今日は満月の夜だ。それぐらいしか、俺は現世に干渉することができない。それに、君はもう真実を受け止める強さがあると判断したから」
だから君をここへ導いた。そう語る彼の表情は、あの頃と何一つ変わらない。なぜ彼にそんな力が残っているのか。それはわからないが、この世への未練がそうさせたのか。それとも、まだ彼の意思に月神の力が残っていたからか。
「誰かが真実を知らなければ、またいずれあの事件が起きるかもしれない。君一人でいい。世の中の意思を、間違いに流されるな」
「…それで?私をどうするおつもりで?」
「殺すつもりも、ここから出さないつもりもない。君はただ、この非日常から帰ればいい。…門まで送るよ」
そう言うと、彼は立ち上がってアルコールランプを片手に、また歩き出した。少し戸惑ったが、私も後に続いた。
窓の外を見れば、雨も風もある程度止んだようで、なんとか帰れるようになっていた。あとは道路が冠水していなければ、安心して帰れるのだが。
行きとは違う、暗闇の校舎に揺らめくアルコールランプの焔。その灯りと彼の足音を頼りに、何も言わずにただ歩き続ける。僅かに感じていた違和感はもう、私の心から消え去っていた。
靴箱で濡れたままの靴を履き、大きめの傘立てから傘を取り出す。そして少しの罪悪感と後悔を置いて、扉を開けて校舎を出る。
「元気そうで安心したよ。…じゃあ、幸せに暮らせよ」
後ろから、私がずっと焦がれていた声が聞こえる。古びた門に手をかけたまま振り向けば、彼の姿はもう消えていた。建物の中へ入っていったのか、それとも未練が消えて成仏したのか。
なんにせよ、彼にはもう二度と会えないだろう。私は自らの罪を、ずっと背負っていかなければならない。この痛みを誰にも話すことなく。
「…さよなら」
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2014/04/04 09:06:34