「その前に、もう一つだけ下らない話をさせてください」
 実に愉快そうな大臣は、もう少しレンをからかいたいらしい。他の奴らならいざ知らず、彼の要望にはどうにも断り辛い。理由は明白で、レンは心のどこかで彼に許されたいと思っているからだ。
「どうぞ」
「貴方は変わりましたね。イルと会ってから少しずつ、七か月前からはもう別人と言ってもいいくらいです。イルもヴィンセントも、心からそれを喜んでいるようです」
「七か月前からは、一応自覚しています。もちろん、二人がそれをいい事だと思っていることも」
「一つ、訊かせてください。どうして貴方は私を、昔から信用していたのですか? 貴方は一切、私が貴方を殺そうとするとは考えていなかった。それはなぜですか?」
 彼からすれば、疑問だろうか? 他に対して、これでもかという程猜疑心の強いレンが、明確に己に対して恨みを持っているディーにだけは、まるで無防備なのは。
「ご存知の通り、僕は疑い深い人間です。今まで無条件で他人を、いや家族でさえ信用してきた事は一度も無い。けれど、だからこそ一生に一度くらいは人の言った事を、理屈とは合わないけれど誓った事を、信じて見ようと思いました。ただ、それだけのことですよ」
 そこでいったん言葉を切り、肩にかけてきた少々ドレスには不似合いな皮鞄を探る。いつか頼もうと思って持っていたのだが、予想外に早く出番が来てしまった。
「もう一つは、イルがもし不測の事態で僕より早く死んだ時、僕を殺してくれる人が必要だからです」
 皮鞄から出したのは、濃青色の小瓶だった。それを差し出しながら、レンは説明を始める。
「貴方も言っていた通り、僕はイルが死ねばこの国を殺そうとせずには居られません。僕はこの国が憎い。リンの生血を啜って生きているこの国も、彼女を事もあろうに『悪ノ娘』という忌々しい呼称をつけている国民全てがです。けれど、それでも僕はリンとの約束を違えたくはない」
 驚愕に目を見開いて茫然としているディーの手に、無理に小瓶を持たせた。自失から立ち直った大臣は、それを見つめながら口を開いた。
「これは、毒ですか?」
「ええ、知っての通り僕は、イルにも貴方にもヴィンセントにも同じ事をしてもらっていますが、普段から致死量未満の毒を飲んで耐性をつけています。もう僕ら四人揃って現在確認されているほとんどの毒が効きません。けれど敢えて、僕自身にだけは一つだけ効果のあるものを残しておきました。その小瓶がまさにその毒です。防犯上、何の毒とは言わないでおきますが、ティースプーン三杯もあれば確実に僕を殺せます」
「イルが死んだ後、貴方が暴走し始めた時に私に貴方を殺せ、と?」
「暴走した後では遅いです。というか、イルが死ねば必ず暴走しますから、その前に殺してください。イルに縋って泣く僕に、ただ貴方はコップ一杯の水を差し出してくれれば結構です。ああ、因みに僕以外の三人には耐性がありますから、使い方は貴方に任せます」
 イルが生きている内に打てる、最低限の策だった。レン自身は黄の国を心から恨んでいるが、イルもリンもこの国を愛している。
 だから今は、レンもこの国を守るべきだった。
「引き受けるかどうかは、じっくり考えてくださって構いません。ただ不測の事態が起きた時のため、持っていて下さりはしないでしょうか?」
 小瓶をじっと見つめていたディーが立ちあがった。何をするのかと思ったが、ディーは隅にある流しに小瓶の中身を捨て始めた。
「お気に召しません、か?」
 溜息が出た。彼の実は情に厚い性格は知っているので意外とは言わないが、保持してくれる可能性は五分五分以上だとは思っていた。
「論外ですね。こんな手の込んだ事をする前に、己の憎悪と戦おうとは考えないのですか?」
 金髪の大臣から放たれるは、革命直後に剣を突き付けられた時と同等以上の怒気だった。答えられないレンの肩を痛いくらいに掴み、尚も言葉を重ねていく。
「私がどれほど苦労して叔父を殺された悲しみと、殺した貴方に対する憎しみを抑えているか、貴方には想像もできないでしょう。特に革命が終わってからの一年間、何度殺意を抱きかけたか分からない。けれど我慢しました。たった十四歳の子供たちが、国のため自分の信じるもののために、己を何度となく殺した事を知っていたからです」
 ディーの歯噛みする音が、安いモーテルの一室に響く。復讐心を抑えることがどれほど困難か、それがどれほど人を狂わせるかは嫌という程知っている。何故ならレンはそれにかつて負け、それから一度として挑戦していない。
 かつての紅蓮の鉄槌の参謀役は、焼け付くようなその醜い炎に見事打ち勝ったのだろう。今更ながらに、その当然の事実を認識した。
「例えイルを失ったとしても、イルの意志や妹君との約束が消えるわけではありません。下らない戯言を抜かす暇があったら、自分の中の憎悪に打ち勝つ努力をしなさい」
 全くの正論だ。けれどそれができる程、レンは強くない。
「どうすればいいのか、分かりません。あれほどたくさんの人を殺しながら、実の両親も義理の両親も謀殺しておきながら、僕には罪悪感が全く存在しないのです」
 言い訳ならできる。自分を捨てた親なのだから、物扱いした養父母なのだから、結果的にそれが国を救ったのだから、と。
 けれど、そんな自分がレンは怖かった。どんな理由があったにせよ当たり前のように肉親を、曲がりなりにも十四年間同じ建物で過ごしてきた養父母を、笑って殺してしまえる己が。
 そのレンの心に潜む膨大な殺意が黄の国に向いたとしたなら、結果は火を見るより明らかだ。
 しかし、ディーは安易な逃避を見逃してはくれなかった。
「無いのなら、無理にでも作りなさい。騙すのは貴方の得意技でしょう?」
「そんなこと」
 できるわけがない。そう言おうとした。
「貴方は例えイルが居なくても、黄の国を想うことができます」
 何を根拠に。そう、言おうとした。

「レン=ハウスウォード――いえ、レンハイル=リヴェ=アリアンロード」

 一瞬、何を言われているのか分からなかった。そして理解する前に、ディーは語り始める。
「もう今となっては必要ないと思って言いませんでしたが、これは貴方が本来得るはずだった王族としての名前です。女王陛下はリンネア王女と同等に、貴方の誕生も喜んでおいでだったそうです。
 しかし貴方もご存知の通り、当時は女王制廃止論者がかなり王宮内におり、保守派の連中との政争の真っただ中でした。政争を収めることも、真っ向からどちらかの一派を潰すこともできなかった愚かな女王は、泣く泣く貴方を養子に出した。
引き取り先がわざわざ上級貴族ではなくハウスウォードの家だったのも、あの意地汚い一家なら必ず王族の血を引いた貴方を、王宮に召使として送り込んでくると考えての事です。
 オーベリ、この名を聞いた事は?」
 混乱に次ぐ混乱で、まだ言われた事の半分も噛み砕けていなかったのだが、至近距離にあるディーの顔は答えねば食いつかれそうな程殺気だっていた。
「は、八歳くらいまで、頻繁に来ていた貴族が、確かそんな名前だったと」
「その人は女王陛下が、貴方の様子を探らせるために送った貴族です。……残念ながら、国で食糧問題が囁かれ始めた時を境に、女王陛下は心を壊され部屋に閉じこもるようになり、貴方どころかリンネア王女もほったらかしになりましたけどね」
 一気にここまで言って、一旦口を閉じた。そしてまだ驚愕の抜けきらないレンに、ため息交じりに言い聞かせた。
「女王陛下は、貴方を愛してなかったわけじゃない。ただ愚かで弱かっただけだ。それでもあの方なりに、国の事を考えて貴方を切り捨てた。貴方が女王夫妻にしたことと、同じように」
 涙が、レンの頬を伝った。それだけではもちろん済まず、顔が情けなく歪む。ほとんど顔をまともに見たことも無い生みの母を思い出そうと瞼を閉じて、それがますます涙を溢れさせた。
「冷血鬼と呼ばれる貴方も、所詮は人間ですよ。こんな本当かどうかも分からない話で、ほとんど口を聞いた事も無い実の両親を想って泣くのですから」
 声を殺して泣き続けるレンに、金髪の大臣はそう言った。そこにあるのは怒りではなくて、どこか疲れたような声だった。
「イルが死んだとしても、貴方はリンネア王女を裏切れません。それが、血の繋がりというものですからね」
「……血の繋がり?」
 その暖かくも馬鹿らしい響きに、思わず復唱した。そんなものがどれだけ下らなくて脆弱なものか、レンは嫌という程知っていたからだ。
「そんなものがあると言うのなら、そんなものが僕を縛れると言うのなら、何故僕はリンを傷つけましたか? 僕と同じくらい孤独で、僕よりもただ純粋に国のために働いたあの子を!」
 涙は相変わらず止まらない。心から湧きあがるドロドロとした感情の正体も掴めない。けれど、これにだけは物申さずにはいられなかった。
「そんなもの、自分が良く知っているはずでしょう。まあ、それに納得ができないのだがら他人に訊くのでしょうが」
 容赦の無い科白にすっぱりと断ち切られ、ディーはぐっと言葉に詰まったレンに問いかけた。
「逆に縛られないと言うのなら、どうして貴方は最後、王女と入れ替わろうとしたのですか?」
 そんなもの、言うまでも無い事だと思っていた。けれど、いざ聞かれてみると、これと言って明確な答えが出て来ない。
「イルの事だけを考えるのなら、いやその他の事を考慮したとしても、貴方が生き残った方が物事は簡単に進んだはずです。どうしてわざわざリスクを冒してまで、王女を生かす必要があったのですか?」
 冷徹な詰問は続く。舌が縫いとめられたように、レンは何一つ言葉を紡げない。
「なぜ生き残ったと知った時、貴方は泣いたのですか? これから誰より大切にしているイルの側に堂々と立てると言うのに、何故苦しむ必要があったのですか?」
 ディーの声は一本調子で、躊躇なくレン最大のトラウマに足を踏み入れて行く。
 心が無音のまま悲鳴を上げて、身体が震え始めていた。彼の事を怖いと思ったのは、これが初めてだったろう。
 金髪の大臣はそんなレンを見て、今までの嘲弄とは違う優しげな笑みを浮かべた。
「確かに、リンネア王女は貴方に散々利用された挙句、貴方の身代わりとなって死にました。ですが、もし彼女を貴方が傷付けていなかったとしても、貴方に匹敵する頭脳の持ち主ではなかったとしても、貴方の代わりに死ななかったとしても、貴方は悲しんだはずだ」
 解放は唐突だった。彼を取り巻く冷気が消えて、代わりに赦罪の温もりがレンを包む。
「たった一人の肉親を、妹を失った事をイルに縋って泣いたはずだ。そうではありませんか?」
 再会したあの日、他愛ない我儘を押し付けて見せられた、嬉しそうな笑顔。
 リンを取り巻く環境を知り、彼女に孤独を押し付けたものに対する嫌悪。
 これらは、リンが他でもないレンの血の繋がった妹だからこそ、存在しえた事なのだろうか?
 涙が滂沱と流れて行く。払う気力も無く、今突き付けられた事実を整理する余裕すらなかった。
 どれだけ長い間、そうしていただろう。
「分かりません」
 やっとのことでそう答えて、泣きぬれた顔に手をやることができた。女装の小道具として手袋をしていたおかげで、すぐに塩水は吸われていく。
「分からないのであれば、まだ今後を決めるのは時期尚早です。どちらにしろ、イルが死んでしまったらの話だ。あの頑丈な人間が簡単に死ぬわけは無いのですから、甘えた事を言って神経を逆なでるのはやめてください。不愉快です」
 返事をしつつも声を殺して泣き続けるレンに、金髪の大臣はそう最後に言った。そこにあるのは怒りでも呆れでもなく、言葉の内容とは正反対にこれ以上ない程暖かい赦罪を感じたのは、勘違いと自惚れなのだろうか?
「ごめんなさい」
 それ以上何を言うことも無くディーが立ち去った後、自然と口をついて出た謝罪は、一体誰に向けられたものなのだろう?
 正体不明の何かに打ちのめされて、そしてそれ以上に癒されて、歓楽街の一画で一晩立ち上がることができなかった。

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悪ノ召使 番外編(12-2

閲覧数:133

投稿日:2011/04/04 06:42:35

文字数:5,012文字

カテゴリ:小説

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