「……ちょっとリン、そうやって じ~っとあたしの顔見るのやめてくれる? 落ち着かないんだけど」
日曜日の朝、ミクとリンは新曲「sweet-sour distance」のPV撮影現場へタクシーで向かっている。
セガのゲーム用の曲で二人のデュエットだ。セガにしては珍しく百合をテーマにした曲である。
吹奏楽部が舞台で、上級生のおしとやかなお姉さまがミク、それに恋焦がれるウブな下級生がリンの役だ。ミクはリンのことを可愛い後輩と思っているが、リンの恋心には気付いていない。
ミクの方はツインテールをほどいてお嬢様っぽく微笑んでいれば務まる役柄だ。一方リンの役はなかなか難しい。
憧れの先輩に恋心を抱きつつ、気付かれてはいけない、でも気付いてほしい、そんな揺れる乙女心を表現しなくはならない。
リンはボーカロイドとしての人気に水をあけられているミクに、強い対抗心を抱いている。ミクに負けたくないため普段から仕事への真剣度は高いのだが、ミクとのデュエット曲のときはよりいっそう真剣さが増す。隣にライバルがいるのだから、それも当然だろう。
今日も撮影現場に向かう道中から役作りに余念がないというわけだ。
「見られるくらい我慢してよ。ミク姉が“ミク先輩”に見えるまで気持ち作ってかなきゃいけないんだからね。ミク姉もそのつもりで、お姉さまらしい顔しててよ」
リンそう言って、再び穴が開くほどミクの横顔をじ~っと見つめる。
頭の中で「憧れのミク先輩」のイメージを作っているだろう。だんだん顔がほわ~っとしてきて、ちびまるこちゃんがテレビで宝塚を見るような表情を浮かべはじめた。
いつもはあたしに突っかかってきてばっかなのに……。まあ、可愛いからいっか。
試しにリンに向かってニコッと微笑んでやったら、ハッとしてキューピットに胸を射られたような顔をした。
出掛ける時にルカに言われた言葉が頭をよぎる。
「百合っぽいPVだからって、リンにキスしちゃダメよ。あなたは調子に乗ると何するか分かんないから。分かったわね?」
腕を組み運動部の鬼監督みたいな顔でルカはそう言った。
ハイハイ、分かってますよと生返事をしたミクだが、こうしてうるうるした目を向けているリンを見ていると、可愛くてだんだん自信が無くなってくるのだった。
ま、いっか。キスはしないようにするけど、撮影では何があるか分かんないし、事故はしょうがないよね。
ルカの禁止令を勝手に緩和するミクだった。
☆
撮影現場の女子高に到着した。
昨年校舎を改築したばかりで教室も音楽室も真新しく、撮影にはうってつけのロケ地である。
撮影スタッフの案内で教室に向かう。先にダンスシーンを撮影するのだ。
お嬢様高校をイメージしたデザインのブレザーに着替える。
メイクさんがミクのツインテールをほどき、入念にブラシを入れて「休みの日は紅茶を飲みながらライ麦畑を読んでます」的な清楚な感じに仕上げていく。
格好が出来上がるとミクも気持ちが乗ってくるようだ。動作も普段のおてんばではなく、たおやかな感じになる。
品の良い薄めのメイクを施し、奥ゆかしいマドンナお姉さまが出来上がった。
そんなミクをリンが頬を赤く染めて見つめている。
瞳には星がきらめき、どこからか発生したハートマークがリンの周りをふわふわと漂っていた。
「それじゃ、撮影入りまーす。ミクさん、リンさん、スタンバイお願いしまーす」
机とイスを片付けた教室で、ダンスシーンの撮影が始まる。
さすがに二人ともダンスはお手の物である。ほとんどのカットを一発で撮り終え、撮影は順調に進んでいく。
音楽室と廊下でのカットも撮り終え、ダンスシーンはほどなく撮影が完了した。
次は演技が必要なドラマシーンである。筋書きはこんな感じ。
ミク先輩は吹奏楽部でフルートを担当している。フルートを吹く優雅な姿にリンはいつも溜息を漏らしている。
部活が終わった後の、誰もいない音楽室。忘れ物を取りに戻ったリンが、ミク先輩のフルートに気付く。
いけないと思いつつ、リンはフルートを手に取り、そっと唇を当てる、という内容である。
撮影では本当のドラマのように長めに撮って、後で曲に合わせて短く編集する。
音楽室のドアの外に待機して、リンは大きく深呼吸した。
ドラマシーンはちょっと緊張する。気持ちをほぐしておかないと……。
リンが心を静めていると、フルートの澄んだ音が聞こえた。音楽室の中を見ると、ミクが撮影に使うフルートを勝手に吹いていた。
「ちょ、ちょっと、ミク姉! それ今から使うんだからね、吹かないでよ!」
リンがちょっと怒ってそう言うと、お姉さまミクは悪戯っぽく笑った。
「だからよ。この方が気持ち入るでしょ?」
ピアノの上にフルートを置く。窓から入る陽の光が、フルートをキラキラと輝かせている。
緊張とは違うドキドキに、リンは胸を押さえた。
☆
「それじゃ、シーン5、カット6撮影入りまーす。リンさん、スタンバイしてくださーい」
ADがリンを呼ぶ。ドアの外で待機しているリンに、監督がスタートの声を掛ける。
開け放たれた音楽室のドア、西日が射し込み、室内はオレンジ色に染まっている(ちなみに西日は照明で作っている)。
忘れ物を取りに来たリンが、ゆっくりと歩みながら入ってくる。
いつもは女の子たちのおしゃべりと楽器の音で賑やかな音楽室が、誰もいない夕暮れ時にはひっそりとしていて、それが不思議に感じられた。
ピアノのそばを通り過ぎようとして、上に置かれたフルートに気づく。西日を金色に反射して輝いているそれは、ミク先輩のものだ。
リッププレートに目が引きつけられる。リンはフルートを吹くミク先輩の姿を思い浮かべる。その顔、その唇を――。
リンは無意識にフルートに手を伸ばす。
あ、あたし、何を……
我に返ってビクッと一瞬手を引っ込めたリンだが、それでも我慢できずに再び手を伸ばす。
フルートを手に取る。冷たく滑らかな金属の感触が心地よい。リッププレートをじっと見つめる。
……ここに、ミク先輩の……唇が……
リンは首を巡らせて、人がいないのを確かめる。部屋は静まりかえっていて、誰かが階段を上ってくる来る気配もない。
こんなとこ、誰かに見られたら、どうしよう……。
心臓がドキドキしている。でも、もう衝動を止めることができない。
先輩、ごめんなさい……。
ミク先輩の唇を思い浮かべながら、リンはフルートに口を寄せる。
草笛を吹くような本来の唇の当て方ではなく、キスをするように、リンはそっとフルートにくちづける。
夢を見ているように、恍惚としたリンの表情――。
「カーット!! うーん! いいねえ! リンちゃん、今の演技、最高だったよ!」
思っていた以上に良い画が撮れ、監督が感激してリンを絶賛する。スタッフのみんなも手を叩いて賞賛している。
リンは顔を赤くしている。いつもなら誉められれば素直に嬉しいのだが、今日は内容が百合なだけに上手だと言われると変に恥ずかしくなってしまう。
「リ~ン、可愛かったよ~」
ミクが寄ってきて手を握る。役に入り込んでいたせいで、それだけでドキッとしてしまう。
「もう、リンったらそんなにあたしのことが好きなの? キスして欲しかったらいつでも言ってね」
人目も気にせずミクが、ん~と唇を突き出す。
だあっ! 思わず口でお迎えしたくなっちゃうじゃないの! リンはミクの手を振りほどいた。
「もう! ふざけないでよミク姉! あんまりミク先輩らしくない言動止めてくれる? ミク姉がミク先輩に見えなくなっちゃうじゃない! 撮影終わるまで品良くしててよ! こっちは役作んの大変なんだから!」
リンが怒ってそう言うと、ミクは、あ、そっかと言ってお嬢様の顔を作った。
肩を下げて顎を引き、いつもパッチリ開いている眼を二割ほど閉じて、口元にマリア様の笑みを浮かべる。清楚なお姉さまができあがった。
「リンちゃん、私のフルートにキスするなんて、いけない娘ね。ふふ、嘘よ。嬉しかったわ」
眼を三日月にしてミクが微笑むと、リンの顔がボッと赤くなった。
「……う~、もういい、ミク姉、調子狂うから撮影の間あたしから離れてて」
カッカした顔を見られるのが恥ずかしくて、リンは背を向けた。
「え、何でよ? リンちゃん、お~い」
ミクが呼ぶのも聞かず、リンは熱が39度5分あるような足取りで歩み去った。
☆
「シーン7、カット3行きまーす。スタンバイお願いしまーす」
最後のシーンの舞台は校舎の屋上だ。雲一つないような抜けるほど晴天の今日は、うってつけの撮影日よりだった。
早春の穏やかな風が、リンとミクの制服のスカートを撫でるように揺らしている。
内容はこうである。
屋上はリンの隠れ家だ。リンは時々一人で屋上に上がっては、遠くの景色や流れる雲を眺めている。
今日もお供のポッキーを齧りながらのんびりと空を眺めていた。
滅多に誰かが上がってることはないのだが、珍しくドアが開く音がしたので振り向くと、ミク先輩だった。
天気が良かったので来たのだという。
最後に一本残ったポッキーを、リンはミク先輩にあげる。
「半分こしよ」
ミクはそう言って、口にくわえたポッキーをリンに向ける。
リンはドキドキしながら反対側を齧っていく。
ここの歌詞は「♪とまらなくちゃ このままじゃ キスしちゃうよ」である。
ポッキーが残り5センチのところでカット、サビのダンスシーンに移行する、という演出だ。
立ち位置やカメラワークを確認し、撮影準備に入る。リンはコンクリートの段差をイス代わりに腰掛け、スタートがかかるのを待つ。ミクは後から登場するので、ドアの向こうで待機する。
(中編に続きます)
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