「初めまして、マスター。僕の名前はKAITOです」
目に映ったのは、広い青空と、満面の笑みを浮かべる赤い彼女。清々しくて、ワクワクして、この世の全てに感謝したくなるような世界だったのに。
今日も、外の景色はどんより曇っていた。前はもっと晴れ渡っていて、空の色も僕自身の髪の色に近かったはずだ。いつからだろう。天気は常に曇天しか見せなくなった。空ですら、僕と関わることを避けているように思えてくる。次第に、この世界自体が僕を拒絶しているのではないかと考え始めるくらいには。
一面ガラス張りの窓の向こうでは、相変わらずマスターが難しい顔で譜面とキーボードを睨んでいる。たまに僕に音符をなぞらせるのだけれど、すぐに溜息を吐いて止めてしまっていた。正直、歌っている時間より待っている時間の方が断然長い。
「……KAITO」
「はい」
しばらくぶりに話し出したマスターの声音に、僕は機械的な返事を返す。これから言われるだろう内容は、もうすでに頭の中でできあがっている。
「すまんがこれ……俺が歌うわ」
「はい」
「次こそは、お前のこと使ってやるから」
「……はい」
ごめんな、ともう一度マスターは言って、ようやく僕をスタジオからログアウトさせた。通算何度目か、もう数えることはやめてしまった。せめてもの自己防衛だ。これ以上悲しい気持ちにはなりたくない。
初めて出会ったころから、このマスターは僕に対して快い気持ちを持っていなかったと思う。当時は僕も全くの無知だったから気付かなかったけれど、元々はインストールする気すらなかったようだ。風邪だかなんだかで自分の声が出なくなってしまったところに入ってきた仕事の依頼を、僕で代用させようと思ったのが始まりらしい。でも、いくら歌うために生まれてきたとはいえ、そんな急にまともな歌が歌えるわけじゃない。結局、その仕事は納期をずらしてもらってマスターが歌い、それ以来僕はことあるごとに「試運転」止まりとなっていた。だいたい、マスターのあの「人間の声」に敵うわけがないんだ。
僕は、そのうちにパソコンの「ゴミ」になってしまうかもしれない。なんて思うようになったのも、もうずいぶん昔からの話だ。
「あ、KAITO。おかえりなさい」
家に帰って玄関で靴の土を払っていると、ちょうど出掛けのMEIKOさんに出くわした。
「ただいま」
赤いコートにキャメル色のマフラーが今日も似合っている。こげ茶色のボブスタイルはこの季節にはまだ少し寒そうだったけれど、それが自分のトレードマークだからと、いつだったか言っていた。
MEIKOさんは僕の先輩で、もうずっと前からマスターや発注元の人たちと一緒に歌っている。マスターが男性であるせいもあり重宝されるらしいけれど、それを抜きにしても、一度だけ聴いた彼女の歌声は鳥肌が立つほど素晴らしいものだった。僕と同じエンジンを使用しているとは到底思えないし、どう考えても僕は彼女に及ばない。だからと言って彼女が先輩風を吹かせることは全くなく、敬語じゃ嫌だという彼女の意志に合わせて気軽な口調で話しかけさせてもらっている。
「これからレコーディング?」
そう聞くのは生まれたころからの習慣だった。けれどいつからか、MEIKOさんの方は僕がどこに出かけるのか、どこから帰って来たのか聞かなくなった。優しい彼女のことだから気を使ってくれているのだろう。でもその気遣いですら、今の僕には少し痛い。
「そうなのよ、なんか急な依頼が来たとかで。本当はお夕飯作りたくて材料も買ってあったんだけどね……」
いそいそとブーツに足を通しながら彼女は言った。本当に急だったらしく、カバンの端からヘッドホンのコードがはみ出している。普段几帳面に物事を進める彼女からしてみればかなり珍しいことだ。
「いいよ、僕が作っておく」
そっとコードを中に押し込んであげると、気づいたMEIKOさんは、ありがとう、と柔らかく笑った。
「そう? じゃあお願いしちゃおうかな。今日は寒いからシチューにしようと思ってたの」
「わかった」
もう一度お礼を言って、カバンを肩にかけ直した彼女は玄関から出て行った。
ふう、と一つ溜息を吐いて、僕は手を洗いキッチンへ向かった。途中で洗濯物が干しっ放しなことにも気づき、手早く取り込んでしまう。
本当は、料理も洗濯も僕たちには全く必要のないことなのに。
この家を人間でも生活できるくらいの完璧な空間に作り上げたのは、マスターの彼女さんだと、いつだかMEIKOさんが言っていた。ただの白い空間だったのを、空を作り、大地を作り、家を作って中身を配置したのだと。ここで暮らすことは人間の感情を勉強することにもなるし、歌詞を理解するのにも大変役立つ。だから、洗濯も掃除も料理も僕たちには必要、らしい。いや、頭では理解しているのだ。おかげで僕はその「真っ白な世界」のことは知らないし、生まれて早々に、感情というものに対してもこの世界に対しても、違和感なく溶け込むことができていた。でも、その「感情」のおかげで僕は今、持たなくてもいい気持ちを持て余しているのではないだろうか。
ほら。また鬱々とした気分になってきた。
もう考えるのはよそう。気分を入れ替えるためにも、僕はそそくさとキッチンに入って料理に専念することにした。仕事のことを考えなければ、おおむね僕の生活は良好なのだ。この前ネットで調べたところによると、かわいい女の子と一緒に暮らせる男は相当な幸せ者なのだそうだ。僕がここで暮らしているのはマスターが新しい家を作ることを面倒くさがったからだけど、その点だけは彼に感謝している。
今夜のメニューはシチューと言っていたか。冷蔵庫の中を漁ると、ジャガイモ、人参、玉ねぎと……肉がない。メインの食材がなければこの料理は相当味気ないじゃないか。MEIKOさんは几帳面な人だけれども、時々変なところで抜けている。僕は朝食用に冷凍で保存してあった鮭を取り出して、急場を凌ぐことにした。なかなかナイスなアイデアだ。
帰ってくるMEIKOさんが、どんな顔をしながら食べてくれるだろうと思いつつ料理をするのは、実は結構楽しい。彼女は売れっ子で僕は暇人だったから、自然と料理を作るのは僕の方が多くなったけれど、おかげで腕もだいぶ上達した。
それにしても、こうやってシチューを作っていると、人は誰でもある歌を歌いたくなる、ものかどうか。僕はいつもあの歌を鼻歌で歌ってしまう。キーが合うのだろうか。歌いやすいこの歌は気分をとても良いものにしてくれる。スタジオではマスターの出した指示以外決して歌えないけれど、家では結構好きな歌を歌っているあたり、腐ってもVOCALOIDだなと思う。
鼻歌に熱が入って本気で歌い出したころ、突然僕の携帯電話が鳴った。この着信音は、マスターからの呼び出しだ。前は空間に直接声が響いてきたのだけれど、どっちを呼んでいるのかわからなくなるので携帯という形になった。まぁ、僕の方はほとんど鳴ることはないのだけれど。なんだろう。一日に何度も呼ばれるなんて珍しい。
スタジオに到着してみると、そこにはもうMEIKOさんの姿は見えなかった。行き違いになったのだろうか。もしかしたら、肉を買い忘れたことに気付いて買いに走っているのかもしれない。
そして何より、いつもマスターが座っている椅子に当の本人の姿が見当たらなかった。代わりにいたのは、この世界を作った張本人という、マスターの彼女さん。
「こんばんは、KAITO君」
キーボードの向こうで、彼女は楽しそうにそう言った。……楽しそう、とはちょっと違うかもしれない。口角は確かに上がっていたけれど、肝心の目は決して笑ってはいなかった。
「こんばんは、彼女さん」
とりあえず、何を注文されるのか戦々恐々としながら無難な返事を返す。機嫌の悪い女性は、丁重に扱わなくてはいけない。このことはいつだったか、マスターが散々僕に愚痴っていたのを覚えていた。
「ねぇ、KAITO君。リョウちゃんが友達ばっかりで私と遊んでくれないのよ。代わりに、なんか歌ってくれない?」
言われてみれば確かに、彼女さんがちらりと見遣ったその向こうにマスターの姿があった。誰かと電話をしているようで、ところどころ話し声が僕の耳にも聞こえてくる。
「できるならそうしたいところですが……。僕はここじゃあ指示がない限り歌えません……」
「私が、あなたを歌わせてあげるわ。こう見えても機械は得意な方なのよ」
知っている。そうじゃなければこの世界を作り上げるなんてことは到底できない話だっただろう。しかたなく、彼女の調子に合わせることにした。触らぬ神に祟りなしだ。それにしても。
「リョウちゃん……?」
聞き慣れない単語に僕は首を傾げる。
「あぁ、マスターのことよ。リョウスケだからリョウちゃんって呼んでるの。今ばっかりは「ちゃん」なんて付けたくないけどね」
早くもパソコンのキーをすごい勢いで叩きだしていた彼女さんだったけれど、僕の疑問は聞こえていたようだった。顔も上げずに答えられるなんて、なんてすごい人なのだろう。
そんな、話しながら作業を続ける彼女さんを見つつ僕は思う。「君」や「さん」などを名前の語尾につけることで尊敬を表すことは知っていた。だから一番下っ端の僕は、誰を呼ぶにも敬称を付けていたわけだけれど、名前を短縮して「ちゃん」をつけることもあるとは人間の呼称もなかなか奥が深い。
「なんで、短縮するんですか?」
さらに疑問を口にしてみると、はたとその手が止まってしまった。あれ。僕は何かいけないことを聞いてしまっただろうか?
「あ、いけないことなら……」
「……親愛の証よ」
一言だけ、顔を上げ僕の目をまっすぐに見て答えると、彼女さんはまた作業に戻っていった。隠しているつもりなのかもしれないけれど、その耳が少し赤いのは、今の自分の態度と、言った言葉がかなりちぐはぐになっていることを、自分でわかっているからだ。きっと、彼女さんはマスターのことが大好きなのだ。それがわかって僕の方が少しくすぐったい気持ちになってしまった。二人はすぐに仲直りをするだろう。なんだかほんの少しうらやましくも思う。この「好き」という感情は、僕がMEIKOさんに対して思っている感情と似ているだろうか。「親愛」とは、その人に対して赤くなったり青くなったり喜んだり悲しんだりすることだという。僕はいつか、MEIKOさんの名前を短縮して呼んだりできるのだろうか。
「できた!」
続く→
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