理解できない何かに。
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「調子はどうですか?」
扉をノックすると返事が聞こえる。病室に入ると、中は甘い香りで満たされていた。ストレートに言えば、すごく花のにおいがする。これがスギ花粉とかだったら、一部の人は耐えられないんじゃないかな。
この部屋の主である神威先生(休業中)は、入ってきた私の気持ちを悟ったのだろう。私の表情の変化を見逃さず、だけど先に質問に答えてくれた。
「あぁ、今日は悪くないよ」
「そうですか。すごく、花のにおいがしますね?」
「今日来た人は皆、花束を持ってきたからね。量が多いし」
ほらそこ、と指を指された先に目を向けると、確かに見舞い客が置いていったものであろう花束が三つ四つ積まれていた。こんなにあれば対処に困るだろう。思ったことは彼も一緒だったらしく、少しだけ怪訝な表情を見せた。
「こんなにあっても、飾るところはないよ」
「二つならまだよかったでしょう。花瓶がちょっと増える程度ですから」
病室の棚は小さいから、花瓶は多分四つも並べられない。並べられたとしても、ちょっとの振動で落下して割れてしまいそうだ。
「というか、においが強い……」
「ずっと窓を全開にしているんだけどね。ちょっと寒くなってきたかな」
今の季節は決して寒いほう(もう秋だけど)ではないのだが……いや、寒いな、うん。しかも今朝雨が降ったので気温は低めだ。今日は私も上着を羽織っている。だって寒いもん。手が冷たいもん。
「あ、そうだ。クッキーを買ってきたので、よかったらどうぞ。えっと……」
「ん? あぁ、ありがとう。そこに置いてくれる? うん、そこそこ」
持ってきていた紙袋を指定された場所に置く。そして私が椅子に座ると、話題が尽きた。
虚しい沈黙が続く。何を話せば良いのだろうか。今の彼との距離は遠いのだ。記憶があるかないかで、人は大きく人格が変わる。記憶というものは、過去だけでなく性格や感情をも司る。その記憶をなくした彼は、あの人じゃない。
あの人とは、偶然外で出会う以外は、学校という限られた場所でしか会えなかった。私とあの人は、生徒と教師という関係だったから。だからこそ、話すこともそれに関係してくる。私生活の話とかはあまりしない。彼の私生活は、妹であるグミちゃんが一番よく知っているだろう。
彼は『神威先生』ではない。今の私は、彼とは何の繋がりもないのだ。だからこそ、こんなときに何を話せばいいのかわからない。
彼は、閉めたばかりの窓の向こうに視線を向けている。あの人とは違う彼の目には、どんな景色が見えているのだろうか。
「……遠い、です」
私がふと口に出した言葉に、彼は驚いたようにこちらを見る。
「ごめん。ちょっと考え事してて……。何か、言った?」
「いえ。特に何も」
そう、と呟いて黙り込む彼。お互い、考えていることがわからない。
……考えていることがわからないのは、前からだったかもしれない。あの人の表情は読めなかったから。それが本心からの喜びでも、胸に抱えた苦痛でも、あの人はあまり本音を告げることはなかった。生徒の前での『彼』の表情は、全て演技だったのかもしれない。
あの人は深海に光が見えないように、自らの本音も闇に隠していたのだろうか。深い色を宿したその瞳に、何も知らない私たちを見据えて。
今の彼は、空っぽの空ばかりを見つめる人だっただろうか。雲の数ほどあった希望も、失った記憶の果てに追いやったのだとしたら。彼の心は、真っ白なキャンバスを薄い水色の絵の具で塗りつぶした、浅い空を漂っているのかもしれない。
◆
記憶が全くないわけではなかった。ただうっすらと、確信した記憶があった。度々見る夢はきっと、自分自身の失った記憶の断片なのだろうと。
何度も考えた。自分の存在意義を、何度も自分に問いかけた。「空洞へと化した僕を、誰かが受け入れてくれるのか」と。
『僕』は教師だったのだそうだ。誰かに己の持つ知識を教えることを生業とする人間。自分自身にその自覚がないのは、精神、即ち記憶が、あまりにも薄すぎるからだろう。人格や感情を構成するのは記憶なのだから。
君の名前も、なんとなく予想はついてる。でも記憶が戻りきっていない。本当に元の人格に戻ったわけではないから、どうしようもない。
夢は記憶となり、心を縛る鎖へと変わる。
失くした記憶。なんとなく、心当たりはある。
静かな教室に響くチョークの音。消毒液の匂いが身に染みる保健室。本が積み上げられた図書室に、うっすらと漂うインクの香り。揺れる景色を見つめ、日常を追想したバスの中。楽器を片手に友と歌い、物語を紡いで演じた講堂。そして……鳴り響くブレーキ音、道路に広がる赤い水。
僕がこうなってしまった原因。それは知っている。『夢』の中で、僕は酷い苦痛に襲われた。君の身代わりとなった代償に、今までの日常を失った。
あと一つ。決定的な何かが足りない。大切な記憶の欠片が、一つだけ抜けている。
右手首の傷を指でなぞる。自分がつけた印は、違う体と精神になっても尚、自らを苦しめる剣となった。
最期の『君』は僕に何かを伝えようとしてくれた。結局、それは形にならずに消えてしまった。自らの存在意義と幸せを失った僕は、全て壊してしまいたかった。そして『あの日』、今までの日々をカッターナイフで断ち切り、屋上から身を投げた。
手に入れたのは虚しさだけ。僕はただ、君の笑顔をもう一度見たかっただけだったのに。それはもう、叶わないの?
窓の外へ視線を向ける。放たれた窓から入る僅かな風が、カーテンを静かに揺らす。雲一つない夜空に、数多の傷を抱えて浮かぶ満月。
あぁ、そうか。僕が、足りないと感じていたものは。
コンコンと控えめなノックが響く。間違いない。香によく似た、彼女だ。
「……夜分遅くに失礼します」
申し訳なさそうな彼女の声が聞こえる。
君の心を開く鍵は、もう揃っていた。
「……君は、もしかしたら気づいている?」
窓から目を背ける。
「僕は気づいたよ。自分が自分でなくなることが、こんなに怖いことだなんて、知らなかった」
ベッドから身を起こす。
「それでも君を助けたのは、君にこの感情を伝えたかったからだよ」
逸らしていた目を、君に向ける。不安そうな顔で立ちすくむ君。
「冗談じゃないよ、本気だ。おかしいよな、こんなこと話しても、巡音が困るだけなのに」
『僕』じゃない、過去の『俺』の言葉を、もう一度君へ伝える。自分でも驚くくらい、すんなりと言葉が出てくる。記憶は朧げで別人でも、今の体も声も彼のものだから、体が覚えていたのかもしれない。
「君を困らせるかもしれない。自分でも驚いた。自分に、こんな感情があったなんてな」
彼の言葉を、口調をなぞって決意を伝えるために、君の目を見る。
「忘れてもらっても構わない。だが、今だけは動くなよ」
息を吸って、間を置いて。
「俺は、君が好きだ。……ルカ」
君が目を見開く。同時に、最後の記憶が戻る。
静かな空き教室で、遠ざかる足音を耳にしながら息を潜める。腕に抱えるは、大切な君。
……そうか、彼は、伝えることができたんだ。それは決定的な、僕と彼の違いだ。
彼を構成する記憶を思い出した今、用済みの僕は潔く消えよう。彼に体を返さなくては。
……だってあの日から、『俺』は君を守ると誓ったんだから。
「……神威、先生」
目の前には、信じられないことを聞いたように驚いている、彼女が立っていた。
「随分と待たせたな。悪かった。……ただいま」
何が起きているかわからなかったが、彼女を見た瞬間、そんな言葉が喉から滑り出た。その言葉に、彼女の目に涙が滲む。
俺は立ち上がり、彼女の手を握る。冷え性の君の、確かに感じる温もり。
きっと、彼女にとっては長かった日々が終わる。日常は、今をもって正される。
「……おかえりなさい」
【がくルカ】memory【26】
2014/01/08 投稿
「帰還」
臓器移植などをした際、ドナーの方の記憶や性格が少し移植された方に移ることがある、という話をどこかで聞いた気がします。
がっくんが戻ってくるときの描写を中心に改稿しました。
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ご意見・ご感想
みけねこ。
ご意見・ご感想
どうなるのかなって気になってました!
ルカさん良かったね
次も楽しみです
2014/01/08 18:44:44
ゆるりー
こうなりました。
ルカさんに幸せになってもらうために頑張りたいと思います。
2014/01/09 23:21:48
Turndog~ターンドッグ~
ご意見・ご感想
切り貼りだと言う割にはフィニッシュへの盛り上げ方が素晴らしいと思うんですがw
先生よく帰ってきた!
これでまたmemoryを読んでピアプロ入る人が増えるよ!←
罪作りな白衣め!((
2014/01/08 15:05:35
ゆるりー
けっこう雑ですよw
わあああ増えないで!嬉しいけど!←
このイケメン!((
余談ですが、ルカさんが持ってきたクッキーは実は手作りだったりします。
2014/01/09 23:19:50