3.
PDAからログオフした私は体内時計を参照した。AM7:23……約束の時間から23分経っている。そしてGPSナビによると、ここからインターネットテクノロジー本社までトラムで15分といったところか。
ともかく私は行動することにした。待つと言うことが時間の浪費に繋がっている気がしてならなかった。
昨日のマスターの様子、そして今日のこの行動。
マスターはやはり何かをご存知なのではないだろうか。そしてそのために危険な目に遭われているのではないだろうか。だとしたら一刻の猶予もない筈だった。
私は急いで服をスーツに着替えて仕度を調え、マンションを出た。駆け足で大通りに出て、市街区方面に向かうトラムに飛び乗る。
トラムで降りるステーションまでは少々時間があるので私はメールの差出人を探ってみることにした。
ヒントになるのはE・Jのイニシャルだが、もちろんインターネット社の社員名簿など外部サーバにある訳もない。
ざっとネットを検索してみたがE・Jのイニシャルを持つインターネット社社員はヒットしないが、電脳はこういうとき便利だ。何せ世界中のサーバに散らばる数億ページを僅か0.1秒ほどでクロールできてしまうのだから。
さて、こうなるとイントラネット空間に潜り込む必要があるのだが、クローズドゾーンへの侵入はセキュリティソフトが厄介だ。彼等に見つかるとサイバーポリスにあっという間に通報されてマスターが逮捕されてしまう。それだけは絶対に避けなくてはならない事態だ。
私は一つ賭けに出た。
トラフィックにある旧そうなメールサーバを見つけてアンブッシュ・スパイダー(待伏せ用のプログラム)を放ち、インターネット社へのメールを監視させた。しばらくすると、明らかに社内用と見られるドメインのメールがいくつかまぎれているのが見つかった。
私は……多分数秒考えていたんだと思う。
これから行うことは犯罪だ。私はマスターの為に犯罪を犯すことができるのか?
この数秒は、私にとって短い生涯の中でも恐らく最も永い、永い時間だった。
ドロイドに求められる行動規範とは何か?
私を突き動かす、この底知れない衝動は何か?
私の拠って立つべき倫理とは何か?
解り切っていた。理解するまでもなく、それは私を創り上げた者達によって定められていた。
だが、今目の前に屹立する黒い壁を乗り越えるには、正しい手順を踏んでいる時間はないかもしれないのだ。
私は覚悟を決めた。
マスターの為なら私は地獄の蓋も開けてみせよう。たとえこの身が煉獄の炎に焼かれようともマスターをお助けできるなら、道具であり完全な従者たる私の本望ではないか。
私はインターネット社のイントラネット向けメールにスパイダーを仕掛けた。
添付ファイルのあるメールを探し出し、そっと添付ファイルの中にコードを埋め込んだ。あしあとは……残ってない。
旧型のメールサーバはCPU速度が二桁ほど私より遅い。今やっと微かな異状を検出したようだ。このままサーバからログオフすれば恐らく軽微なエラーとして何事もなく処理されるはずだ。
私はあしあとを残さぬよう細心の注意を払いながら、サーバのセキュリティソフトがガードマンを寄越す前にログオフした。
コンマ数秒後、スパイダーを埋め込んだメールがインターネット社に届いたようだ。
流石に最新鋭のサーバを用いていてスピードが速い。スパイダーも軽快に動作するが、相手の動作も速いということを失念していては足を掬われそうだ。
スパイダーは社内のデータベースを検索していく。
社員リストは……あった。社員は計17,651名。そのうち本社勤務は303名。この303名の中からE・Jをイニシャルとする社員は、ファーストネームとファミリーネームを入れ替えたとしても3名……いや4名か?
社員番号9400825:城島栄治 人事労政部 保守課員
社員番号9000667:江藤純菜 総務部 経理課員
社員番号8800049:ジャッキー・エモト 営業部 外商課員
そして社員番号FD11003:アーネスト・ジーン・バーナード(Ernst Jean Bernard) 客員研究開発部長もE・J・Bで符合する。
私はデータベースから昨日の勤務情報に着目した。
城島栄治 5:55出社 18:32退社
江藤純菜 7:20出社 19:01退社
ジャッキー・エモト 10:00出社 23:35退社
アーネスト・ジーン・バーナード -出社 -退社
バーナード氏はデータがない? どういうことだろう?
知りたいことは他にも山のようにあったが、とりあえずの目的は果たした。もう数秒もここにいては危険だ。スパイダーをゴミファイルの中に紛れ込ませて自壊させる。実体のないプログラムの記述とは言え、データの残骸から足がつかないことを祈るばかりだ。
私はネットからログアウトした。
トラムはちょうど、ビジネス街に入ったところだった。
「次はトレードセンター前……」
トラムのアナウンスに私は降車ボタンを押した。
間もなく停車した「トレードセンター前」ステーションからガラス張りの巨塔が見えた。
あれがインターネット・テクノロジー・エレクトロニクス本社。
地上に聳(そび)える現代のジグラットを、私は横目で見ながらトラムを降りる。
ビルの前まで足を進めるごとに気圧(けお)されそうになる。濃密な重圧感が私を襲ったが、私はそれでも前に進まなくてはならなかった。
正面玄関を突破する。
流石にホンダやヤマハ、クリプトンと並ぶドロイドメーカーだけあってドロイドが単体で歩いていても気に留めるものは皆無のようだ。
私は野球ができそうなほど広大なエントランスホールの正面突き当たりにある総合受付カウンターに逸る気持ちを抑えながら歩いていった。
受付には三人の女性が座っていたが、私を見つけるや立ち上がり、丁寧なお辞儀をした。ドロイドに対して礼をするとは変わっているが、恐らくその向こうにいるオーナーユーザーに対する礼なのだろう。何とも慇懃(いんぎん)な社風だ。
「ようこそ、インターネット・テクノロジー・エレクトロニクス・ジャパン株式会社へ。よろしければご用件を承ります」
私は手に持っていたPDAにメールを送信し、それを見せた。
『私はシステム障害により発声できませんのでPDAで失礼いたします。私のオーナーユーザーである雑賀誠人が本日朝七時よりアーネスト・ジーン・バーナード客員研究開発部長様と会談の為御社にお伺いしている筈なのですが』
私は最も確率の高そうなバーナード氏の名前を出してみた。さて、どうだろうか?
受付嬢はメールを見て、「少々お待ちくださいませ」と内線で問い合わせてくれた。
暫く話し込んで受話器を置いた受付嬢は
「申し訳ありません、本日雑賀様と仰るお客様はお見えになっておりません。ベルナールはただ今外出しておりまして連絡を取りましたところ、三十分ほどで帰社予定ですのでお時間がよろしければオフィスでお待ち下さい、との事ですが、如何でしょうか?」
私は頬が緩みそうになるのをぐっと堪えて
『ありがとうございます。では待たせていただきます』
とメールにしたためた。
受付嬢はタッチディスプレイを指し示し、「では入館証を発行いたしますのでこちらにご署名をお願いいたします」と私に入力を促した。
入力欄はドロイド用にリフォームされていて個体認証番号記述欄やオンライン認証などが追加されている。私はページにデータを入力し、認証ボタンを押した。
端末から一枚のICカードが出てきた。それが入館証の様だ。
「ではエルンスト・ベルナールのオフィスは52階となっておりますので奥の高層階用エレベータよりお上がり下さい。フロアに着きますと係の者がご案内いたします」
そう言って受付嬢はカードを入れるポーチを手渡し、深くお辞儀をした。
私は一礼してポーチを受け取り、足早にエレベータに乗った。
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