リンは神威の言葉に目を見開く――帰ってくれと頼んだ筈なのだ、それが。
「何故…」
元々、リンが何を言わなくとも神威は遊女など相手にしない性格だろうと思っていたのに。
理解出来ない答に戸惑いを隠せないまま問うと、神威はリンに微笑んだ。
そうして、目線を少し逸らしながらも落ちたリンの衣服を肩にかけてから言う。
「喩え一日とて、今日はリンが傷付く心配はないだろう?」
その言葉に、リンはやっと男の意図を知った。
神威は傷付いたリンに同情しているのだ――この場合、精神よりも肉体的損害にだろう。
彼の為には偽善だと笑って追い返せば良かったのだろうが、リンにはそれを否定する気になれなかった。
「どうして…」
同じ言葉を繰り返すしかない。
「そうだな。まったく、私にも分からない…リン一人に貢いだところで、この街の闇がどうなる訳でもないのに」
神威はリンの言葉を自分でも痛感しているようで、自嘲のようにそう言った。
そうだろう、とリンも思う――先程から聞いていただけでも、この男が全を以て良しとするような性質であることは分かっている。
それが、たまたま会った女郎一人に目を掛けるなど明らかに非合理的だ。
他意があるのかと神威をなお見つめるが、男は自分でも考えあぐねているようだった。
「それでも…これが自己満足でも欺瞞でも、私は君を守りたいと思ったんだ」
しかし暫くして、ふと思い付いたようにぽつりと零してリンを見た。
リンを、守りたいと。
――その言葉は、かつてレンの専売特許だったのに。
「それは…私を守る為に、神威さんが散財するのですか…?」
嬉しくない訳はない。だって初対面の男だろうと関係ないのだ、彼が真摯なのはもう疑いようがない。
そんな男にリンを守りたいからと貢がせるなど、女冥利に尽きるではないか。
けれどまた、嬉しいだけでいられる筈がない。彼は堕ちてはいけないヒトなのだから。
「散財とは酷いな、リンを買う為だろう…致し方ない」
まるで絶望が音を立てているのではないかと思うほどに、リンの中で強い警鐘が鳴り響く。
誰かの幸せは、誰かの不幸せだ。
「駄目です、神威さん」
先程までの躊躇いなど嘘のように、リンは深い思考もなしに口にする。
どうせ、今日の残りくらいならば最早今の時間から誰か来る訳もないだろうし、それにどんな客だろうと相手をするのが女郎の仕事なのだと説く。
今日一日くらい、買ってもらえば良いのではないか――そう思った自己も確かに存在したのだが、食い下がるのには意味があった。
――だってこのヒトは、果たして今日だけで済むだろうか?
勝手な妄想だと言われようとも、神威ならば今日一度きりでは終わらないような気がした。
通うとまではいかないだろうけれど、今それを受け入れてしまえば彼はまたきっとリンに会いに来る気がした。
きっと、だから止めなくてはならないのだ、今。
「それでもだ、リン」
なんとか心を変えられないかとあれこれ言い募るリンに、神威は静かに言う。
それでも?と男の目を見て問うと、神威はひどく切なげな――先程リンが、自分のことを覚えていて欲しいと言った時と同じような――表情をする。
「これは私の欺瞞なんだ。リン、君が遊女で私が客なら…言うことが聞けるな」
在り得ないと思った。
今まで遊女のリンに対しても対等であろうとしてくれていた彼が、客としての絶対的権利を行使しようとするなど。
「それは…」
先程の、彼の上司である少佐と同じだ、リンは客からの言葉には逆らえない――それが、所詮は下級の遊女であるリンの定め。
それをこの男が使おうとすることが。
そこまでしてリンを助けたいのだというこの男が、リンには分からない。
きっと彼の意志とは違うところにある物言いである筈なのに、それさえも捻じ曲げてリンを買ってやると言うのだろうか、このヒトは。
「案ずるな、君には何もせぬよ…ただリンはここにいればいいだけのことだ」
目を見開いているリンを安心させようとかそう言うと、神威は儚く笑う。
その言葉には他意などなく、リンを買おうと言った彼には本当に自分の欲などはないのだと。
ただそれだけなのだと思い知る。
これではやはり、自分の考えは妄想などではなく今より先に現実として起こってしまいそうな気がするのだ。
――神威はリンに会いに、またこの街へと来てしまうのではないか。
けれどそれはいけないと言おうにも、上客である彼の上司が望み、また上客になろう彼がそう望んでしまってはリンにはそこに口を挟む術がない。
良いのだろうかと自己が問う。
先程までとも同じこと、尉官である彼をリンの客にしてしまえば楼主に小言を言われることもないし。
また、神威はこれ程までに誠実の権化のような男である。
嗜好の変わった客の相手をする機会も減れば、せずとも彼から巻き上げればリンは楽になれるではないか。
なんて甘い蜜のような取引なのだろう。
リンが己の良心にさえ目を瞑れば、彼女にとって損になることなどは何もない。
悪いのは――なんて恐ろしい考えだろうと自分に毒吐いても、認めるか認めないかの差だけであって、やはりリンにはこれ以上どうしようも出来ないのだが。
「神威さんは、狡いお人ですね」
あまりにも優しくて。優し過ぎて、リンの良心を切り裂く。
「私が昔、兄のように慕っていた方は…あのヒトは、躊躇いなどしなかったのに…」
初会の客に何を言っているのだろう、言ってから気が付いて曖昧に言葉を濁す。
けれど神威はリンにそれ以上の追求はせず、聞き流すように黙っていた。
「何にせよ、私が断ってもお買いになるということですね」
その沈黙が気詰まりになり言うと、神威はそうだと頷いてリンを見る。
「ならば…私には何も言うことはありません。どうかこの一夜、神威さんのお好きなように」
諦めて言うと、神威は苦笑する。
「そうだな、リン。随分と話し込んでしまった故、私は今日はもう疲れた…君の歌が聞きたいのだが」
やはり曲がりなりにも遊女を買っておいて、手を出す気はないのだ。
こんなことで嘘を吐くようには見えなかったのだが、本当に何もされないと聞いてはリンもなんだか安心する反面肩透かしを喰らったような気分になる。
しかも、疲れたから自分に歌を歌えとは、まるで子守唄ではないだろうか。
容姿も言葉遣いも変わった人間だが、性格も一見しては分からないものだと思う――いや、彼の誠実さだけはその身から滲み出るようだったけれど。
「歌…ですか?けれど私は」
「そうだな、先程の歌が良い…聞かせてはくれぬのか?」
戸惑いの声をあげるリンを無視するように言うと、神威は笑う。
この屈託のない笑みこそ、自分が初会のこの男をここまで信頼している理由であるとリンは思う。
とうとう客としてリンを買いながらも、それでも変わらない彼の態度。
「では、楽もありませんが、一曲」
この汚い籠の中で、薄い壁の向こう周囲から漏れ聞こえるのは毎夜の淫靡なる合いの手――なんて恐ろしい程に艶やかで、彼のヒトには似合わない。
それを自らの声で掻き消すように。
何故かまたも涙を溢しそうになりながら、リンは神威の為に歌った。
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